国家安穏
このあいだ、うちの近所の1000円カットの床屋に行ったときのこと。
僕を担当してくれた若い男性理髪師さんが、調髪中に話しかけてきた。
「さっき、お客さんのバッグを預かったとき、お守りが付いていて、『国家……あん……なんとか』って書いてありましたけど、あれって、何て読むんですか?」
「え? ああ、あれは国家安穏だね、コッカアンノン」
「は?」
「コッカ、ア・ン・ノ・ン」
「へえ〜。どういう意味なんですか?」
寝不足で少し疲れていたのと、僕は床屋の最中とタクシー乗車中にあれこれ話しかけられるのは、あまり得意ではないので、
「あれはね、護国寺で授かったお守りだからさ……」と、あまりちゃんと説明する気になれずにいた。
「へえ〜。護国寺って、あの池袋のほうにある駅の名前のところですか?」
「そうだよ……」
正直、護国寺のゴコクとは『国を護る』ということであり、その寺名に御寺は自らなぞらえて、日本国の安穏を祈願するお守りを授与してくださっているといった経緯を、丁寧に説明できるsituationでもなかった。なにしろ、彼は僕の頭髪上に電動バリカンを走らせていたし、僕は細かい頭髪が目に入らないよう、瞼をしっかりと瞑っていた。そもそも、会話というものは、ちゃんと視線を合わせながらするものだし、ましてや、現下日本の国難の時期にこそ、僕は自分のバッグに国家安穏のお守りを付け、旭日旗のステッカーを貼って、我が国の平和と安全を脅かそうと様々なactionを起こしている周辺諸国に対する抵抗の意思を表示しているなどと、懇切に解説できる余裕などなかった。
しばらく僕が沈黙していると、若い男性理髪師さんは、
「へえ〜。じゃあ、護国寺の由来とか、あとでネットで調べてみようかな」と言った。
僕は、
「そうですか。調べてみてください」と、素っけなく応えた。
すると彼は、さらに言った。
「最近ね、ちょっと歴史的なこととか興味が湧いてきたんですよ、令和になって」
「え?」
「令和になって、いろんなことがあって、日本の国のこととか、もっと知りたいなあって。ボクら若い人間って、全然しらないから、国のことって」
そこで、僕はちょっと後悔し、
「…………」
(しまった、ちゃんと説明してあげるべきだった)と思った。
相変わらず彼は、僕の頭髪上に電動バリカンを走らせ続けていたし、僕は僕で、細かい頭髪が目に入らないよう、瞼をしっかりと瞑り続けていた。
(了)