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ふとまに 百八 東アジアの連帯

#ふとまに  百八

ホツマふとまにカード128 ふとまに百二十八(ももふそや)歌 より

*読み下し

すのその の
もも お たまわる
にし の はは
こゑ たのしみ の
ふかき ことほき


*書き下し

直の園の
桃を賜る
西の母
還ゑ 楽しみの
深き寿ぎ

ふとまに解読ガイド


*語意


 す【直】
  直ぐなさま 調和のとれた 偏り無きさま 中庸

 その【園】
  区分 区画 空間 囲み 耕地 領土 

 すのその【直の園】
  調和のとれた区画 和の国 日本の国

 もも【桃・百・茂々】
  果物の桃 数が多いさま 繁栄した 勢いのある

 にし の はは【西の母・西の母尊】
  西の(大陸の)国の君の母・母尊=ウケステメ(受棄姫)

 こゑ【還ゑ】
  往き来 巡らし恵むこと 繰り返し 回転 循環 輪廻

 ことほき【寿ぎ・寿】
  喜び 慶事 進展 成長発展 経過 熟成


*意訳


 調和の国・日本の桃を賜った西の母尊、ウケステメ
 楽しみの帰還に際し、尊く慶ばしいお土産となりました。

 調和のとれた国・日本(に一時帰国=里帰りしていた)皇姫ウケステメ (*1) が、皇孫ニニキネ(アマテルの孫)から『三千実の桃 (*2) 』を賜って、たいそうお慶びになり、嫁いだ先の大陸の王国・崑崙へ帰還の際、喜んで土産となさった……との、ほつまつたゑの逸話をうたっている。

 私たちの国を『調和の国』と称するのは、調和のとれた理想の国であるとの自信と矜恃を示すとともに、ここでは、大陸の王国・崑崙国と調和のとれた交流を実現していることを、併せて意味していると思います。

 また、『桃』は【茂々】すなわち豊かさと繁栄を併せて意味しており、これを土産に持たせるとは、卓越した農業政策で日本の繁栄に寄与した皇孫ニニキネが、皇姫ウケステメの嫁ぎ先である友好国・崑崙国への何らかの物資的援助を下命したことを暗示しているとも考えられます。

十楽令仁の註釈メモ


*註釈と資料

(*1) 
 「うけすてめ」は「たまきね」の配慮に感動し、喜んで中国へ帰国します。そして、「ころびん君」(崑崙王)と結婚して「くろそのつもる」(玄圃積)皇子を生み、西の母上(西王母)と崇められました。

 超古代の中国と日本とのつながりが、はっきりと残されていることに驚嘆します。夏(か)の国とは、殷王国より古く、紀元前2000~1600年頃の中国最古の王朝時のことの記載になります。

 西王母は七夕伝承の織女のように一年に一度稀有という大鳥に翼の上に登って東王公に会いに行くという記述がみられ、さらに道教に迎い入れられてからは「神界、鬼界、人間界の三界を統べる」・・・と中国南北朝時代の著作の「神異経」にあるそうで、より信憑性があることが分かります。

吉田敦彦+村松一男 編著 『アジア女神大全 西王母の項より 青土社

 それから日本海側を北上し、扶桑根邦(コヱネクニ・越地方)に住むイサナギの姉、ニニキネからみると祖父アマテル大御神の伯母にあたるシラヤマ姫(白山姫・ココリ姫・キクキリ姫/菊理姫)を訪問。そこでコモリの第二夫人シラタマ姫の父であるアチハセから峰輿(みねこし)が献上されました。

 ニニキネはこの峰輿を召して、白山の山麓を御巡りされると、山道の登り下りに座席が斜めにならず、大変快適でした。

 御巡りからお戻りになって「この輿は誰が作ったものですか」と宣うと、シラヤマ姫が次のように答えられました。

「私が義姉妹の契りを交わした妹のウケステメが、中国大陸の赤懸(アカアガタ)地方を領するクロソノツミ(玄圃積)王との間に生まれた御子を、崑崙国(コロビツくに)の君に据えました。クロソノツミの系統を引く君の母(山海経における西王母)として、峻険な山岳地帯の国を統治するために、峰輿を作って子を養育しながら国内を巡幸したのです。ウケステメは私に会いに来て、今ここに滞在中なので、お引き合わせ致しましょう」

(*2)
 ウケステメと目見(まみ)えたニニキネは大変お喜びになり、「邦は越、山は峰輿」とご満悦で、その返礼として三千実(みちみ・たくさん実をつける)の桃(『能・西王母』等では三千年に一度結実する桃と伝承される)を賜わりました。

 ウケステメは「花と実を同時につける桃は珍しい」と、崑崙国への土産にしました。

今村聰夫 著 『はじめてのホツマツタヱ』地の巻・二十四より 株式会社 かざひの文庫

      還の根の国
アチハセが 峰輿 捧ぐ
これに召し 白山峰を
回巡るに  斜めにならず
「この輿は  誰が造れる」 と
宣給えば  ココリ姫曰く
「孫がなす  妹ウケステメ
赤県に   クロソノツミと
生む御子を 転日つ国の
君となす  クロソノツメル
君の母   険しき峰の
越す時に  峰輿 造り
子を育つ  今ここに来て
目見えなす」 御孫喜び
「国は越   山は峰輿」
その返えに みちみの桃を
賜われば  「花見の桃は
稀なり」 と 国苞になす

ほつまつたゑ解読ガイド ほつまつたゑ 地の巻24 こゑくにはらみやまのあや より

 この「こし」(輿・峰輿)は、一体誰が作ったものかと皇孫「ににきね」は宣(のたま)ったところ、「ここり姫」が言うには、私の義理の妹「うけすてめ」の皇子が作ったものですと答えました。

 ここで、越王国と言われていた「越」の語源として、この「輿・峰輿」から来ている可能性が考えられます。

 「うけすてめ」の皇子という記述からも、遣唐使・遣隋使より更にさかのぼった古代の渤海使などの存在を裏付けていることが実感できます。

小林道憲 著 『古代日本海文明交流圏』より 世界思想社


*十楽註


 縄文の超古代・日本と、当時の大陸王朝との交流が、私たちの想像を遥かに凌ぐほど、親密かつ盛んなものであったことが、この『ふとまに 百八』や『ほつまつたゑ 地の巻 二十四あや』より窺い知ることができます。私たちが義務教育の歴史教科書を通じて教えられるのは、大陸には高度な古代文明が興隆していたが、同時期の日本列島は未開の地であって、縄文人という非文明人が原始的な生活を営んでいたという図式。いえいえ、それは全く違っていたのです。ことによると、”やまとことば” や ”ヲシテ文字” のほうが大陸王朝の人たちの言語(今で言うところの中国語〜漢字)の成立に影響を与えていたのではないか……と考える研究者もおられると伺っております。実に興味深いテーマです。メインストリームの学問が形成してきた既成概念に捉われることなく、もっと自由に発想を飛躍させることこそが、私たちの意識を真相へと誘うのです。

 そして、遠く遠い、いにしえの記憶を今に蘇らせることで、私たちは、現在の屈折した世界情勢が、如何に、意図的・作為的に形づくられたものであるかを、如実に感じとるのです。私は、本来、日本と中国そして朝鮮半島は、互いに佳き影響を与え・支え合ってきた、永年の友人あるいは兄弟、親類として、手を携え、力を分かち合わなければならないはずではないのかと、それとは、まるで正反対の現況を憂うようになりました。

 東アジアが分断されているのは、17世紀〜19世紀に下地を仕込み、20世紀に入って完成させるに至る、フリーメイソン・イルミナティ、そしてディープステートといった、いわゆる超支配勢力の長期的策略による結果です。私たち東アジアの民は、その真相に目覚め、この現況を打ち崩さなければならない、東アジアは宥和し団結しなければならない……と、私は考えています。

 私の尊敬する勝海舟先生が、かつて、すでに、次のように達観なされておられます。

 日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

 一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。

 おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ。

勝海舟全集21 『氷川清話』 「日清戦争と中国観」より 講談社

 今からでも遅くはありません。日・中・朝鮮半島の対立を解いて分断を修復し、思想を超越した精神性レヴェルの共同体創設を目指して、米欧・超支配勢力の野望を挫くのです。長大な歴史と伝統を誇る、私たちの東アジアに戦争を起こしてはなりません。何が何でも、戦争には絶対反対を唱え続けましょう。(十楽令仁)


【参考資料】

ホツマふとまにカード128 ふとまに百二十八(ももふそや)歌