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勝海舟

万延元年・1860年、日米修好通商条約・批准書交換のため派遣された遣米使節団に随行航海した咸臨丸に、共に乗船していた勝海舟と福沢諭吉。年齢は勝がひと回り上。ふたりの相性はあまり良くなかったらしい。

後に、福沢諭吉が脱亜入欧を説いていたと伝えられる一方で、勝海舟は、もっぱら(日本・朝鮮・清の)東アジア連合論を唱えて、欧米のアジア進出を警戒していた。

『おれなどは維新前から日清韓三国合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ』(氷川清話)

『日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ』(氷川清話)

明治政府が、早くから勝海舟の発想を理解し、ロスチャイルド系DS勢力に操られることなく、東アジア協調路線をとり、日清・日露戦争を避けていたら、日本〜アジア〜世界の歴史は全く違うものとなっていただろう。

大日本帝国も、滅びなかったに違いない。