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【短編 G Story】 遺影

 玄関のドアを閉めた多佳子は、ここんところ、そう、ひと月ぐらいのことだが、こうやって閉めるたんびに首をかしげながら鍵をかけている。いままでとは、明らかに様子が違っていて、閉めきろうとするのにプラスアルファの力が要るからだ。ドアに加わる圧でキュンと、尻上がり調に擦れた音が残る。開けるとき、弾むようにビョ~ンと開く。その都度(急に、ドアの建てつけ、悪くなってないかしら?)と、彼女の面持ちが心情を表す。
 この新しくないアパート住まいが、何年目かに入っている。どうせまた、じきに夫・靖夫(全国展開を始めたばかりの中堅のビル管理・警備会社で、新規セールス開拓の現地指導をしている)の転勤が控えているのだろうからと予想して、我慢生活続行中、すなわち住まいの良し悪しは、いまのところどうでも良い。細かなことは気にしないとしながらも、さすがに玄関周りが歪んできたみたいな状況は、好ましくないわと、感じているのだ。
「おかえり」
「ただいま。ねえ靖夫。気付いている、このドア?」
 サンダルを脱ぐと、そこはもう食卓で、
「どうかした?」
 すぐ向こうに、エプロンを着けた靖夫が味噌汁の味噌を溶かしている背中が見える。
「開け閉めがおかしくない?」
 多佳子も同じくエプロン姿だが、彼女は、お隣の夕食を支度して戻ったとこだ。
「そうか? 蝶番に油、差してみようか?」
「そうじゃなくて、建てつけ、歪んでないかしら?」
 多佳子たちのアパートは三丁目15だが、二~三分歩いた先のバス通りからあっちは、元々は五丁目ではなく、領作町、稲棚地区などと称されていた。去年のいま頃までは、その一帯って、大根や長ネギ、キャベツなどの畑と十数軒ぐらい農家の戸建住居が並ぶ比較的大きな集落だった。春に入って農作の気配もなく柵や金網まで張られ、いまでは、五丁目b3759~c4221と仮番地になって、かなり大規模な再開発工事が進んでいる。マンションやスーパーマーケットを建てるらしい。
「ああ、それも“あれ”の影響かも知れないな。ほら、あっちで、地面にでっかい穴を掘り始めただろ」
「え? どゆこと?」
「うちの前の私道だって、舗装が地割れ起こしてるだろ? たぶんそのせいで、昨日、隣の権藤さん、つまづいて転んじゃって」
「ああそうそう、権藤のおじいちゃん、骨とか折れてなくて良かった、でも災難だったわ~」
「あんな地割れ、穴掘り始めるまで、なかったじゃないか」
「そうだったっけ?」
「きっと地盤沈下だよ。地下水の流れが変わったりするんだ、基礎工事なんかで、地面に大きな穴を掘るとね」
 アパートの隣室に住む、権藤じいさんは闊達たる人格、八十近いそうだが矍鑠・颯爽としたもんで、スタスタと歩調は軽やか。町内会の顔役などもまるで趣味&生き甲斐のように歴任している。細身の身体を、いつもヨーロピーアンにまとめた、元・モダンボーイで現役・お洒落好好爺。イタリア製・なめし皮地の鳥打ち帽(色はベージュ)が大のお気に入りだ。大きな病気はないそうだが、血圧が高目と知った多佳子が不安がって、隣り組の誼で熱心に勧めたものだから、医者に頼んで降圧剤を処方されているらしい。アンラッキーな転倒事故は、昨晩の寄り合い@町内集会所の宴会で、ちょいと呑り過ぎたマッカランのせいだからと、権藤じいさんは今日になって、英国紳士調の微笑と一緒にキューバ産の上品な葉巻で煙に巻く。
 舗装の地割れが、権藤じいさん転倒の原因となれば、
「五丁目の再開発工事事務所に、かかった医療費の賠償を請求したほうがいい」
 併せて、靖夫たちのアパートが歪んでしまったのだって、大家から補修を請求させないとならない。靖夫は、咄嗟にそこまで発想が連鎖した。
 多佳子が、隣室の権藤じいさんの夕食にお節介を焼くのは、しょっちゅうのこと。とくに今回の転倒事故で、じいさんが腰を痛めて動くのがつらいと言うから、この日は朝昼晩と世話をした。


「耐震構造計算書の偽装事件なんて騒いでるけどさ、あたしたちみたいなボロアパートに住んでる人間は、地震で倒壊なんて当たり前なのに、国とか、何も保障してくれないのよね。不安だわ。地震のこととか想像すると」
 翌日また、朝から権藤じいさんの様子を見に来た多佳子へ、
「はっはっは、奥さん。そんなこと愚痴っても仕方ないわなあ。ここはもう、このわたしが越してくる以前から建っておった。それに木造だしなあ。造りかたにしてもむかしなりだろう。お国の基準なんぞ、そんなもん、ない頃の築じゃろうて」
 じいさんは丁寧に感謝の一礼をし、洗い立ての食器を盆へ移して彼女に手渡した。相変わらず腰が痛そうで、足を引きずり気味に、仏壇へと近付く。
「そうそう。今朝、出掛けにね、うちの主人、近いうち書類を揃えて大家さんを説得するって息巻いてました、絶対に工事事務所に賠償させるって、おじいちゃんの腰の怪我も」
 多佳子が、権藤じいさんの痛々しい動作に気遣いつつ眺めていると、
「若い人は、すぐ頭に血が上るから争いごとばかりになる。いやいや、わたしのことは何もせんでよろしい。それに、アパートのこともな、このまんまで構わないわな」
 じいさんは、チンチンチ~ンと仏壇の鐘を鳴らしてから、無理のない程度に痛みを堪えて背筋を伸ばし、両手を合わせて、ぶつぶつ念仏らしき何かを呟く。
 仏壇の脇には、人物写真をガラス板で挟んだ小さなフォトスタンドが二つ。多佳子は、女性のほうが先立たれた妻で、男性のほうは息子だと聞いている。じいさんの独り暮らしは、ずいぶん長いのだそうだ。
 この町へ引っ越す前に亡くなった多佳子の父親が、権藤じいさんとだいたい同年代(五~六歳ほど若い)で、
「ほんとに、おじいちゃんって、どんなことにも悠然としてるんだから~。血圧のことだってノンキに構えてたし、おととい転んだときも、X線検査、あたしが連れて行かなきゃ、やろうとしなかったでしょ?」
 彼女が実の娘のように振舞うのが、じいさんにとって嬉しくもあり――、
「あっ! そうだわっ!」
――戸惑いの元でもあった。
「インフルエンザの予防接種した? ねえ、おじいちゃん?」
 昨今の世事を見渡せば誰でも分かる。近所に住まう同士の情が薄れたと言われる現実を。
 みんな、さまざまな理由で個人個人の、よりよき生活に主眼の視線を注ぐ。まず自分の幸せを人生の中心に据える。なので、快楽の施し手、華やかな成功者が注視され、滅びし者、弱い人が忘れられる。年老いた夫婦が互いの介護に疲れ果て、無理心中に走る。幼い子供たちが、いともたやすく遊び半分に命を奪われる。人々の多くは、それらの報道に、すっかり慣れた――。
「ああ、まだ、してないわな。しかし、聞けばなるほど恐ろしい流感だ、鳥インフルエンザだったかな?」
「ん~ん。それも心配だけど、鳥んじゃなくて、普通のインフルエンザ。年寄りが罹ると厄介なのよ、まだなのね、不安だわ、今日行きましょうよ。予防注射」
 ――こんな殺生な時代になって、たまたま隣りに居を構えた夫婦が、これほど懇意にしてくれるなんて、
(はは、想ってもみないことになったわな)
 権藤じいさんは、戸惑いながらも愉しんで、ことの成り行きを自然に任せていた。


 靖夫が大家の尻を叩いて、再開発工事を進めているディヴェロッパーに調査させたところ、とんでもないことが判った。
 やはり、地下水脈の変化で地層がくぼみ始めている。ところが、想ったより遥かに大規模で、しかも尋常ではない。一帯の建物を、ごっそり地面が飲み込むほどの陥没が発生しかねない。
 と、緊急を要する大事態だと言うのに、
「困ったな、権藤さん。いいすか。このアパートと、周囲の何軒かの家の土地がね、つまり地面が、どんどん沈んでるんですってば」
 どうしてそんなに意地を張るのかと、靖夫は困り果て、
「おじいちゃん。このままだと、もうじき倒れちゃうんですって、このアパート」
 多佳子も理解できなかった。
「はっはっは、そうかねそれなら、若い人から順に逃げ出したらいい。わたしはもう歳だから、じたばたしても、もうすぐ死ぬ。だので、このまんまでよろしい、放っておけばよろしいって」
 権藤じいさんは、頑として、このアパートを出ないと言い張って譲らないからだ。
(でき得れば、わたしゃ、あいつと暮らしたこの部屋で、誰にも覚られないで死にたかったんだが、何やら妙な雲行きになってきたものだ)
「ゴンさん。ねえ。ゴンさんが建物と一緒に潰されて、独り死んで済む話じゃないの。そんなことになった日にや、そのあとでアパートを建て直すことも容易じゃなくなるんだから、これから生きてゆく人間のことも考えて下さいよ!」
 大家の二代目が泣き落として、じいさんも不承不承に緊急避難の荷造りを始めることになった。
「よっし。それじゃ、権藤さん、ボクたちも手伝いますからね」
「いや、わたしはいいから構わんで、なにせ、あなたたちは、自分らの部屋のことがあるわな」
 ことは一刻を急いだほうが良い。地面の変動は、下手をすると一瞬だ。さっさとここから避難するに限る。
「駄目よ。おじいちゃん、まだ腰、痛むんでしょ。無理よ。それにね、お互い、そんなに財産持ちじゃないんだからっ! あはは。あたしたち、おじいちゃんの家財道具も一緒に運ぶわ」


 それから、丸二日ほど掛け、
「やあ、すまんよなあ、あなたがた夫婦には、すっかりなあ」
 地盤沈下の災難を被る、アパートと周辺数軒の住人が、ディヴェロッパーの責任と斡旋で隣町の新築マンションへと退避を完了した。
「こうして、世話になってしもうて、何やらすまんなあ、ありがとうなあ」
 権藤じいさんの目には、うっすらと光るものがある。
 多佳子と靖夫は、担い合って仏壇をヨッコラショイと持ち上げると、リビングの戸棚の上に供え、
「はい、写真立て。いつも右側に奥さまがいらっしゃるのよね~」
 前面のスペースに空きがあったので、二つのフォトスタンドを並べた。
 続けて、多佳子は実の娘のように、
「それと、左に息子さんね。おほほ。はい、引越し無事に終了で、ございま~す」
 チンチ~ンと鐘を鳴らして、合掌する。
「どうかな多佳子? 当分のあいだ、こうして権藤さんと同居するんだ。ボクの両親も他界してることだし。そのお二人を、おかあさん、おにいさんって、呼んじゃおうか?」
 息子みたいな靖夫にまで、そんな風に優しく提案された。
 権藤じいさんは、約八十年も生きてきて初めて、子供夫婦と暮らすなんて、滅多にない疑似体験をする羽目になった。と言うよりも、到底、考えられなかった設定である。
(これはこれで、新鮮だわな。面白いなりに、良い刺激というものだわな)
「あっははは。ちょっと恥ずかしいけど、それじゃ、権藤さんのこと、おじいちゃんじゃなくて、おとうさんって? 変よね~、そんなの?あはははっ」
「いや、あなたたちさえ良ければ、わたしは一向に構わんよ。当分、親子ごっこをしてみるかな。ほっほっほ」
 ダージリンティーの香りごと、口いっぱいに頬張る。
 仏壇のほうへ、こっそり目をやると――、
「ええっと、それならば、だ、わたしのほうは、多佳子と靖夫くんと、そのように呼べば、良いのかな? はっはっはっは」
 ――大空襲の夜に失った母親と、
(ナオヒロ。貴様、しっかり、俺の息子に見えているらしいぜ)
 ――あのアパートで、数十年前に独りで看取った、亡き恋人の遺影に向けて、密やかに小さなウィンクを投げる。
 そして権藤じいさんは、この“娘夫婦”に絆された振りをして、いつまでもいつまでも、弾けるような笑顔を放ち続けていた。


(了)

(2005 12/12)