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【短編 G Story】 DECO=505

 森に降りそそぐ陽の光が既に明るい。鳥の語らう声が煌めいていて、軽く湿った空気が草花や樹木の香りを運んで窓から忍び込む。カーテンが穏やかに揺れている。新鮮なそよ風が走って爽やかな音楽となり、二人に呼びかける。幸せな一日の始まりを。休日の心地よい目覚め。
 かたわらに視線を向けると、トオルの美しい寝顔があった。神崎龍之介は、柔らかい動作で恋人のうなじをゆっくり引き寄せると、覚られないよう優しく頬に接吻した。かみそりを使っていないくせに、すっきりと、どこかへ飛び立って行きそうな眉。閉じた瞼から覗いている睫毛の先端は、青年の若々しさと同じぐらい、ツンと伸び立って天を向いている。きちんと整った三角形の鼻骨は、その均衡のとれた顔面中央の盛り上がりの確実な下支えとなって絶妙な位置を保持しており、常に潤っているような瑞々しいこの唇の弾力は、少し半開きになって這うように魅惑し、吸い付くような妖しの技で、ときとして愛する人を恍惚へといざなうのだ。
 龍之介の舌は、静かにそれを抉じ開ける。
「起きてるんだろ?」
 しばらくすると、そのピンク色が緩んだ。鮮やかな口元が微笑んで生気を輝かせると、
「ばれてた?」
 瞼が開き、琥珀珠のような瞳が現れ、悪戯っぽく愛を囁く。
「おはよ。トオル」
 二つの裸身が、まるで融合を貪るように密着し、力強く締めつけ合う。
「ふふ。朝からこんなに抱かれちゃった」
「可愛いぜ、お前」
 さっきより荒々しく唇を奪うと、逞しい龍之介の張り裂けそうな筋骨は、しなやかなトオルの流麗な肉体にいっそう絡み付く。そしてなおもなおも、めり込むような抱擁の波を繰り返した。


 龍之介の上司、相原響子は闊達な女性で、胴回りから指周りに至るまで堂々として頼もしい。
「あなたが、この会社の正社員じゃないなんて、うちの開発部長はどうかしているわ、ホントに」
 今回のプロジェクトは成果を上げた。
 大手から中小までが、しのぎを削って開発しているアンドロイドは、特にこの十年間で飛躍的な進化を遂げて、初めて実用化に成功した2020年代では想像もできなかったようなリアリティーを獲得している。中でも画期的なのは、この老化機能の発明である。アンドロイドの開発が進み、耐用年数が向上するにつれて新たな問題が発生していた。人間のほうが歳とともに体力を失い記憶力や思考力が低下する反面、アンドロイドはいつまで経っても体力や脳が衰えないので、結果として、例えば連れ添っている人間の夫をアンドロイド妻が見下し始めたり、支配的になってしまったり、あるいは暴力をふるって圧倒するなどの弊害が生じてきたのだ。当初理想とされた、アンドロイドの不老性、永続的な思考能力の高さが、広く一般に普及するに従って逆に問題点として浮上していたのである。
「お褒め頂いて、恐縮です」
 そこで二年前、アンドロイドにもわざわざ人間と同様な老化プログラムを組み込む研究が解禁になった。並行して法律が改正され、アンドロイドの寿命設定を変更できなくする、アンドロイド寿命固定化が認められるようになった。これはアンドロイドの尊厳を巡って、議会を二分する大激論の末の結論だった。
「契約は、もう残りたったの半年だったわよね」
「はい、そうです。まだ、いえ、これからも宜しくお願いします」
 老化機能プログラムを開発した龍之介は先週、アンドロイド研究のノーベル賞と呼ばれるシャーフェストラウム賞を授与されたばかりである。
「これからも、って。あと半年しかないのよ。ああ、勿体ないわ。あなたが天下のサイエンシスオーガン社“さま”からの出向だなんて。あ~あ。ホントなら、うちでズッと働いて欲しいのに」
 それに加えて、龍之介には報奨金が振り込まれ、
「はい、これは私からの感謝状よ」
 一ヶ月間の特別休暇許可書が与えられた。


 グリンデルワルドの空は宇宙に近い分だけ真っ青で、もくもくとした煙のような雲が絶え間なく山々をかすめて流れ続けている。
 ヴェッターホルンの岩肌は厳しい表情で威圧的にそそり立ち、アイガー岳のほうは、霧に覆われたようにぼんやりとしていて心なしか遠くに見える。人間の無力さを実感できる絶景だ。というより、信じがたいほどに壮麗なこのパノラマの中で人間の存在などを想うことは、もとより無意味なのかも知れない。
「今日はインターラーケンまで足を伸ばしてみようか?」
 朝食を済ませると、トオルは早速地図を広げた。
「湖がきれいなんだよね。トゥーン湖とブリエンツ湖」
 龍之介は、腕だけでなく顔や額にも日焼け防止のクリームを塗りたくっていた。肌が弱いことを気にしている。一見ここの気候は景色と同じように優しく感じるのだが、目に見えない高地の紫外線は思った以上に強烈だった。
 うっかり、トオルも塗っておきなよ、と、口に出掛かって、龍之介は慌てて喉元でつっかえた言葉を飲み込んだ。
(そうそう。こいつの皮膚には必要なかった)
 つまらないことを思い出したと龍之介は思った。こんなにトオルを愛しているのに、これは普通の恋愛とはちょっと違った。


 初めてトオルを借りたのは、新宿二丁目の“ブレードランナー”というミセだった。売り専ボーイという呼び方には伝統があるらしく、昔ながらそのままなのだが、いまではその名の、ここで自分自身を売っている美少年たちが人間ではないことなど、言わずと知れたことである。コース料金はすべて前払い制で、アンドロイドである彼らの足の裏に仕込んであるセンサーに、客は登録してある指の指紋を押し当てる。支払いは一秒ほどで済むのだが、お好みのボーイの靴下を初めに脱がせなくてはならないのが無粋だ。あまりイケてないから、龍之介はこれから取り掛かる予定の次世代アダルト・アンドロイド開発で、大幅なシステム改良が必要だとかねがね考えていた。
 トオルは“ブレードランナー”でも一番人気の機種だったから、数週間のレンタルとなるとさすがに料金が高い。長期レンタルだと旅の途中でチャージしても構わないのだが、それではかなり割高になるのだ。だからプリペイドで払いは済ませてある。そのほうが安い。とは言っても、飛行機代と同じぐらい取られた。


 楽しかったスイスの休暇は、もうじき終わる。
 グリンデルワルドであと数日過ごしてから、龍之介とトオルはベルン経由でチューリッヒへ入り、それから一気に日本へ帰らなくてはならない。
 緑に埋もれたインターラーケンの街から周囲の覆いかぶさるようなアルプスの雪山を見上げ、それからのんびりとトゥーン湖を周遊し、穏やかな水面と緑豊かで草原のようにも見える湖畔をたっぷりと満喫した。五感で識るあらゆるものが健やかで、一瞬一瞬が癒されるような一日だった。夕方になってホテルに戻ってきた二人は、部屋のバルコニーに立って並んで肩を組む。手摺りにもたれながら快い疲労感に浸った。
「気持ちいい空気だね」
 トオルが発する声は普通の青年と何ら違わない。彼の人工頭脳が感知する大自然の清々しさは、しょせん人間の技術でインプットされた情報の反映に過ぎないのかも知れない。
「ああ。最高だね。来てよかったね」
 しかし龍之介は、トオルの完璧に計算し尽くされたセクシー・プロポーションも、文句の付けようもなく整えられた、普通ならあまりにも人工的だと逆に嫌悪されてもおかしくない、その透き通るように可愛らしい表情も、むしろ生身の、本物の人間よりも遥かに愛おしくて仕方がないのだ。ちょっと自分でも不思議なくらいに。
「ありがとう、リュウちゃん。ぼくをこんな素敵な場所まで連れてきてくれて」
「はははっ。何言ってんだよ、トオル。そんな、あらたまって」
「だってぼく、本当なら一生スイスなんて来れないんだよ。ずうっと二丁目で売り専ボーイなんだもん」
 こんなところで、そんな淋しい話をするなって、と、龍之介はちょっとだけトオルを睨んだ。
「莫迦だな。余計なこと言うな」
「リュウちゃん。離れたくないね。いつまでも、こうしていたいよね」
 トオルが飛び付くように龍之介を求めた。
「お前を“返したく”なんかないよ、もちろん」
 このまま、一つになってしまいたいと龍之介は思った。この日、数え切れないほど繰り返したように、また二人は互いの舌を深く絡めて踊らせた。
「リュウちゃん……」
「愛してるよ。トオル」
 レンタル用アダルト・アンドロイドを無闇に売却することはできないことになっている。所有権の管理が厳しいのだ。返却しなければ当然窃盗罪に問われる。もしアンドロイドと結婚する場合は、それなりの指定バージョンでないと認可が下りない。
 それに、実は、レンタル用アンドロイドは課金が切れそうになると自動的にけたたましい警告音が鳴り出すようになっている。
 ピューピューピュー。ピューピューピュー。
(あれっ!おかしい。どうして鳴ってるんだ? トオルのチャージはお釣りがくるほど充分入れてあるのに…あ…あれ…あ…れ……。…ど…どうし…たんだ…あ…あ………)


 相原響子が出勤すると、オタオタしていた会計担当の部下がいきなり助けを求めるような声を出した。
「課長! 申し訳けありません!」
「どうしたの?」
「うっかり忘れてました!」
「何を? ちゃんと話してちょうだい。要領良く!」
「サイエンシスオーガン社“さま”から、えらい勢いで叱られまして」
「だからっ! いったい何があったのっ?」
 こんなことでは、貴重なアンドロイドの逸材をこれ以上貸し付けることはできないと、開発部長の自宅へ、しかも真夜中に、大変な剣幕で苦情が入ったのである。
「DECO=505のレンタル更新を忘れていました」
「ええっ⁈ 神崎君のっ?」
 龍之介のことである。
「は、はい。彼の口座へ休暇前に振り込んだ報奨金と偶然同じ金額だったもんで。すっかり勘違いしておりまして、サイエンシスオーガン社“さま”へ払い込んだのだとばっかり……」
「それは大変だわ……。それで、どうなったの神崎君は?」
「スイスの旅行先で、全機能停止になりまして……」
「それでっ?」
「そ、その、恋人だか、知りませんが、たまたま同行していたもう一機のアンドロイドが……」
 つまり、トオルが“結合状態”になって緊急バッテリーを補充したのだ。おかげで龍之介は辛うじて歩くことだけは普通にできた。全機能停止だから、もはや廃人のようなありさまだが。
「そうなの……。じゃあ帰ってくることはできるのね?」
「申し訳けありませんっ!」
 身体を直角に折り曲げている会計課員に向かって、
「しょうがないわねえ、ホントにもう。優秀な”研究員アンドロイド”だったのよ、神崎龍之介、ああ……DECO=505ね。半年後に契約継続を依頼するつもりだったのに。料金払い忘れて全機能停止じゃ、もうそれも、あとの祭りだわね。ざ~んねんっ!」
 相原課長はサバサバした様子で言った。
「ハイ。もう忘れて。仕事仕事っ! 今日も忙しいわよ~っ!」


(了)

(2005 7/27)