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デモのすすめ

私も今は昔、デモを主催・実行することを含む”社会啓蒙活動”に身を投じた一時期があったので、よく分かるんですけど、デモってものには、いろんな勢力のさまざまな思惑がくっ付いてくるのです。

いろんな考えを持つ、ごくフツーの人たちが結い集い、とにかく言いたくて・訴えたくて・行動したくてっていう欲求に、あれこれ思惑を持つ連中も寄ってきて、ようやく『ひとつのデモ』が成り立つって言うのかな。
概ね、それが通常のデモですよ。

主催者やゲストパネラーに、あんな/こんな思想を持った人物がいるとか、あんな/こんな団体が協賛しているとか、そういう部分に疑問を感じてしまう氣持ちはよく解るけど、あまりそこに拘り過ぎると、大義を見失い、足元をすくわれ、魑魅魍魎とその煩悩や企みが渦巻く、この末法濁世の大局では、一発KO負けしてしまうかも知れないね。

その点を考え含んだ上で、まさに中庸の心を開き、
『小異を捨てて大同につく』
という認識のもと、最も強く衆民一般に訴えたい共通の大テーマを、できるだけ派手に示威しようと試みるアクションがデモなんだよね。

デモには、共通の大テーマに共感し、それを一緒に訴えたい誰もが参加でき、その数に制限はありません。
重要なのは、衆民の泥臭い原動力をもって、この世の中を、政治を/政府を/腐り切った悪党政権を/超支配者を打ち倒そうと思念する、その鋼鉄の氣概。
究極的には、その方向に進まねばならないのだから、”小異を捨てて大同につき”、兎にも角にも、天地をひっくり返す大振動を起こすために、衆民は、自らの持てる身体精神の総力を使って『うねらなくてはならない』のです。
その原点が、デモなんですな。
まさしく『氣』の発現ですよ。

あれやこれや、
(何者かが裏で糸を引いているのではないか……)
と心配をして、この律動にさえ同調しないなら、いったいどうすれば、我々は想念を実現に向かわせることができるのでしょうか?

「どこの野郎どもが、どこから操っていようと関係ねえ、てめえの、てめえたちのチカラで、しっくりけえしてえもんを、しっくりけえすだけのことでえ、べらんめえ」

(江戸弁"しっくりけえす"=ひっくり返す)

氣の狂った有象無象が正体を現し、衆民の純粋で熱い心魂を悪用して、意図的にどこかの”碌でもない方向”へ誘導しようとし始めるようなら、あっと言う間に人心は離反し、全く別のムーヴメントを模索・招来することでしょう。

私たちには、それだけのパワーがあることを思い出そうよ😇

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