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髙嶋市郎兵衛の入地経路と「四道将軍」~北海道瀬棚郡利別村河島家のルーツを辿る(7)(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む・番外)

前回は「ワタリ」についての概要をご紹介しましたが、「吉備の穴済」についてもう少しご紹介したいと思います。

(1)ワタリのミチノクへの集団移住

「吉備の穴済」については『日本書記』景行天皇二十七年条に記述があります。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が父である景行天皇に報告した内容です。

(原文)
既而従海路還倭、到吉備以渡穴海。其處有惡神。則殺之。亦比至難波、殺柏濟之惡神。

(書き下し文)
既にして海路より倭に還りて、吉備に到りて穴海を渡る。其の處に惡ぶる神有り。則ち殺しつ。亦難波に至る比に、柏濟の惡ぶる神を殺しつ。
(かな文)

スデにしてウミツチよりヤマトにカヘりて、キビにイタりてアナノウミをワタる。ソのトコロにアラぶるカミアり。スナハちコロしつ。マタナニハにカヘリイタるコロに、カシハノワハリのアラぶるカミをコロしつ。

(『日本書記』巻第七より引用)

この下りを白頭狸先生が意訳されたものが以下となります。


ヤマトへの帰路に、吉備の穴済(あなのワタリ)と難波の柏済(かしはのワタリ)の神が、害意によって毒気を放ち、旅人を苦しめて災害の元となっていたので、これを誅殺して、水陸の道を開きました。
(『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』より引用)


ですが、白頭狸先生が受けた京都皇統の古代史伝授によると、これは偽史で真相は、日本武尊がワタリを討伐したことにして、ワタリをミチノクに集団移住させたとのことです。陸奥國に亘理郡の名が生まれたのはそのことが起源となっているとのことです。

この亘理郡は、のちに亘理権大夫こと藤原経清の所領となり、奥州藤原氏が興隆することとなるのですが、奥州藤原氏と聞いてハッとしたのは、奥州藤原3代秀衡(ヒデヒラ)が、白山を厚く崇敬しており、仏像を奉献するため家来である上杉宗庸(ムネツラ)らに命じて白山の麓である石徹白(イトシロ)の地に安置したという記述を知っていたためです。

この奥州藤原氏の仏像奉献の記述が、ご先祖様である髙嶋市郎兵衛が郡上郡に入地したことを記すメモ書きを理解するきっかけとなったことは以前の記事で述べたとおりです。

なお仏像を奉献するために派遣された上杉宗庸らは、一度帰郷しますが、ふたたび石徹白の地に派遣され、奥州藤原氏が滅亡した後は、そのまま石徹白に定住したと、古記録「上杉系図」に記されているとのことです。

東北ワタリの棟梁である奥州藤原氏が白山の地に関心を持っていたのは、白山に対する信仰心だけではなく、ワタリとしての職分に関係があると思うのですが、そのことを考えるにあたり「四道将軍」について触れておきたいと思います。

(2)皇族将軍「四道将軍」について

「四道将軍」とは、10代崇神天皇の御代にそれぞれ北陸、東海、西道、丹波に派遣された皇族将軍のことを言います。この「四道将軍」についても『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』に洞察解説されてあります。

いま四道将軍をそれぞれご紹介しますと、
吉備津彦(キビツヒコ)…7代孝霊の第三皇子。「西道」すなわち吉備・播磨地方の征討に当たり吉備臣の祖となる。
丹波道主命(タンバノミチヌシノミコト)…9代開化の孫。丹後を含む丹波を征討。
大彦命(オオヒコノミコト)…8代孝元の第一皇子。「北陸」すなわち越国を征討。
武沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)…大彦命の子。「東海」を征討。

(「松岡正剛の千夜千冊」様より転載)

崇神天皇当時の日本列島内の状況を『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』より概説しますと、まず吉備においては満洲渡来のタタラ族が製鉄特区を作っており、また丹後半島には古代イスラエル族(ユダヤ族)が来住して「丹後古王国」を建てておりました。また北陸には半島からの移民が流入しており「越の国(来しの国)」と呼ばれ、東海は「アヅマエビス」と呼ばれヤマト王権に未服属の地となっていたとのことです。

10代崇神天皇の御代における中心主題は、いわゆる「欠史八代」より開始された、大陸騎馬勢力の東進に対応するためのヤマト王権の騎馬王権化にあり、それは15代応神天皇の奉迎によって完成を見ることになるのですが、騎馬王権化に当たり列島内の整備に当たったのが「四道将軍」であったということになります。

なお先ほどご紹介した日本武尊が、ヤマト王権を騎馬王権化するために活躍した最中心人物であることは白頭狸先生の『天皇とワンワールド』『天皇と黄金ファンド』に詳述されてあるとおりです。

さて、今回のnote記事の表題を「髙嶋市郎兵衛の入地経路と四道将軍」としておりますが、ご先祖様である髙嶋市郎兵衛と四道将軍とがいかなる関係にあるのかについて次の段でご紹介したいと思います。

(3)髙嶋市郎兵衛の入地経路について

髙嶋市郎兵衛が、応永4年(1397年)に美濃國郡上郡に入地したことはすでにご紹介しましたが、その際の入地経路が家伝として残されております。それは以下の如くです。


播磨の国に姓を受け応永年間我が子二人父母と共に山陰道へ上り丹波の国をへて近江の国に入り美濃の国より白山長瀧寺を尋ね仏門に帰依す


順に辿りますと、播磨→山陰道→丹波→近江→美濃→白山長瀧寺という入地経路を辿っております。

はじめこの家伝を読んだ時に、なぜこのような経路を辿って郡上郡に入地したのか、また、なぜわざわざ入地経路を家伝として残したのか分からなかったのですが、今回、白頭狸先生こと南光院長臈爾應法師様より「渡党を調べて見られよ」との御示唆賜ったことで、その入地経路が何を意味するのかを悟った気がいたしました。

すなわち髙嶋市郎兵衛が辿った入地経路とは「ワタリ」が配属されていた列島内の要地要衝であり、その要地要衝を経由して郡上郡に入地したものであるとの考えに到りました。

そして入地した郡上郡もまた北陸と美濃国とを結ぶ交通の要地要衝であり、その地の治安維持に当たるため赴任したものであると推察した次第でございます。

そのような推察に至るきっかけとなったのは、先述した奥州藤原3代秀衡の仏像奉献と家来派遣の逸話であり、東北ワタリの棟梁である奥州藤原氏が白山の地に関心を持っていたのは、この地が「ワタリ」にとっての任地であったからであろうと考えたからです。

なお近江國には高島郷があり、高島姓の由来の一つとされておりますが、「ワタリ」の任地先の一つである要地要衝でもあったのであろうと推察しております。

(4)髙嶋(コウシマ)の「髙」は「高麗(コマ)」由来か?

播磨の国において受けた髙嶋姓は「コウシマ」と訓みますが、「タカシマ」ではなく「コウシマ」である理由については今のところ確たるものがございません。

ですが「ワタリ」の派遣先は、列島内のみならず朝鮮半島や満洲にも及んでいたとのことであり、個人の身体感覚として「鴨緑江」や「吉林省」に何かしらの因縁を感じるということは、髙嶋の「髙(コウ)」は、満洲の古名である「高麗(コマ)」に由来しているのかも知れないと考えておりますが、これは今後の考究対象といたします。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

頓首謹言












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