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ご先祖様・髙嶋市郎兵衛~北海道瀬棚郡利別村・河島家のルーツを辿る(3)(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む・番外)

前回に続き、わが河島家のルーツを辿るお話となります。
前回お伝えした叔父(故人)がまとめた資料が手元に届きました。
資料には「訪問故郷書類綴」と題されており、平成4年9月28日から10月1日にかけて、河島家先祖ゆかりの地を訪問した際の関連資料が綴られております。

そこで、まず明らかとなったのは現在の家名である「河島」という字を使いはじめたのは明治5年であり、それ以前は「髙嶋(コウシマ)」であったということです。

ですので、前回「播磨の地において河島という姓を受けた」というのは誤りで、正しくは「髙嶋(コウシマ)という姓を受けた」ということになります。

なぜ明治5年から「河島」という字を使いはじめたかですが、明治5年と言えば明治政府が初めて全国的な戸籍調査をおこない「壬申戸籍」を作成した年ですので、それに合わせたものと思われます。

資料によれば、それまでは「髙嶋」「河嶋」「河島」「川嶋」「川島」など一族によって使い分けていたそうですが、明治5年を機に「河島」に統一したとのことです。

さて、応永年間に現在の岐阜県郡上市白鳥町二日町(旧・郡上郡二日町村)に居を構えたご先祖様ですが、今回その名前が明らかとなりました。わがご先祖様の名前は「髙嶋市郎兵衛」と申します。

前述した「訪問故郷書類綴」には、叔父が郡上市白鳥町二日町を訪問した際に、地元の郷土史を詳しく知る方に講義形式でお話を伺い、その際に講義内容をメモした用紙も綴られております。

いまそのメモ用紙の一部を原文のまま掲載いたしますと、

「応永4年(1397年)足利義満太政大臣の時代に信者、使者が来た。この使者が播磨の国から
高島武士が父母、子供2人連れて入地した。
高(コウ)島が明治5年以降河島となる。河島家の祖先である。」

講義を聞きながらのメモ書きですので、言葉が断片的となっております。このメモ書きを初めて読んだ際に、「信者」「使者」とは誰なのか?というところで立ち止まってしまいました。

ご高承のとおり、郡上市白鳥町二日町は日本三霊山の一つである白山(ほかは富士山・立山)の美濃側の登拝路があり、「白山信仰」の拠点の地として知られております。

そこで「白山信仰」に関してネットでいろいろ検索していたところ、奥州平泉氏の藤原秀衡公が白山を深く信仰しており、仏像を寄進した他、家来も派遣したとの記述があり、「仏像だけでなく、人も派遣することがあるのか」と感心していたところ、メモ書きの「信者」「使者」が誰か、ということが腑に落ちました。

すなわち「信者」「使者」とは「高島武士」のことであり、河島家のご先祖様である髙嶋市郎兵衛であったのです。

そのように思ってあらためてメモ書きを読めば、「信者」「使者」「高島武士」が同じ人物、すなわち「髙嶋市郎兵衛」を指していることは一目瞭然で、このようなことも分からぬものかと、わが凡智の不明に呆れるばかりですが、兎にも角にもメモ書きの内容が理解できたので胸のつかえが一つ取れました。

それにしても、なぜ西国である播磨の地からわざわざ白山を訪問しようと思ったのか、また一人だけでなく、父母と子ども二人を連れてのことですから容易な旅路ではなかったかと思うのですが、なぜそのような決断をしたのか、今のところ不明です。

さて、郡上を訪れた髙嶋市郎兵衛は、白山中宮長瀧寺を尋ね、そこで仏門に帰依したとのことです。白山中宮長瀧寺は養老元年(717年)に修験僧として知られる泰澄が開基したと伝えられ、開基当時は法相宗でしたが、天長5年(828年)には天台宗に改宗しております。ですので髙嶋市郎兵衛が帰依した仏門は天台宗であったということになります。

なお白山中宮長瀧寺は、ウィキペディアによりますと戦国時代に入って浄土真宗の影響が浸透し、多くの坊院が浄土真宗本願寺派に改宗したとありますが、ご先祖様の菩提寺である悲願寺は真宗大谷派となっております。

ご高承のとおり、浄土真宗には本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)の二つの流派がありますが、本願寺の分立は江戸時代初期ですので、時期は分かりませんが、その分立以降に、悲願寺は真宗大谷派に属することになったものと思われます。

また髙嶋市郎兵衛が郡上を訪れた際に刀剣を所持しており、そこに銘が刻まれていたようなのですが、それは次回お話しようと思います。

今回このようにわがご先祖様をご紹介できたことで、ご先祖様に対する御恩を一分でもお返しできたのではないかと思い、深い感謝の念とともに少しの安堵を覚えております。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

頓首謹言

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