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歴史の岩戸開き(57)~王道主義は「心」と「人」を信じる、覇道主義は「お金」と「肩書き」を信仰する

いま時代が根本から大きく変わろうとしていることは、さまざまな人が感じ取り、それぞれの立場で情報を発信しています。

この時代の変化は「歴史的な大転換」と言って良く、数千年、もしくは数万年、あるいは人類史はじまって以来の大転換となることは間違いありません。

そして、この「歴史的な大転換」において中心的な役割を担うことになるのが「日本」であることも間違いありません。なぜなら「日本」は世界の雛型であり、日本に変化が起きることで、その変化が世界に波及するからです。

と言って時代や社会が私たちと無関係に変化していくわけではありません。時代や社会が変化するのは、その変化を感じ取った人たちが、その変化を主体的に受け止めて、自分自身の行動バターンや生活様式を変えることではじめて現実のものとなっていきます。

いま起きている「歴史的な大転換」は世界規模の幕末現象であり、それは石原莞爾中将が確信した「世界最終戦争」であり、王道主義と覇道主義のせめぎ合いによって引き起こされているものです。

「王道」とは「天地自然の法則」のことであり、「王道主義」とは「天地自然の法則に従って生きること」を言います。

対して「覇道」とは「反王道」「反自然」のことであり、「覇道主義」とは「天地自然の法則に逆らって己が勢力の発展だけを考えること」を言います。

王道主義、覇道主義を分かつのは、つきつめれば個の心の在り方であって、特定の民族、宗教、思想、人種で色分けされるものではありません。また特定の職種、組織、団体によっても区分けできるものでもありません。

ですので日本人の中にも王道主義者もいれば覇道主義者もおり、それはアメリカにおいても、ロシア、中国などにおいても同様です。

これからの時代は「地球共同体」の時代です。それは覇道主義者の言う「グローバル」な一極支配のディストピアな世界ではなく、それぞれの国や地域、ひいては個人がみずからの伝統や原点に立ち戻り、唯一無二の文化や個性を発揮する多極多彩な世界、「百花斉放」の時代です。そして、そのような多極的な世界構想は王道主義からしか出てきません。

「日本」という国は、まさしく「百花斉放」の縮図とも言える国です。北は北海道から南は沖縄まで、気候・地理・風土・文化が多種多彩で、かつ、それぞれが深い歴史と伝統を持っています。

先日、電車に乗りながら、周りの人の顔を漫然とながめていましたが、皆それぞれに個性豊かな特徴的な顔をしていて、ほんとうに「日本」という国はいろいろなルーツを持った人たちが集まっている多種多彩な国なのだなあ、と感じ入っていました。それでいてみんな「わたしは日本人」と思っているわけですから、つくづく不思議な国です。

そう考えると「日本人」という概念は、民族、宗教、思想、人種を包み込む上位概念なのでは、と思えてきますし、事実そうなのだと思います。

先ほど王道主義と覇道主義を分かつのは、結局のところ個の心の在り方である、と述べましたが、「心」というものに対する認識においても王道主義者と覇道主義者では異なります。

王道主義者にとって「心」とは個人のものでありながら個人だけのものではなく、天地自然の生命と不可分につながっており、時空連続体としての世界全体と共有している意識となりますが、覇道主義者はそのことを認識できません。

王道主義者は「心」と「人」を信じることができますが、覇道主義者は「心」と「人」を信じることができず、代わりに「お金」と「肩書き」を信仰の対象としています。

いま信仰と言いましたが、信仰にもその人自身の心の決意=発心が必要ですので、「お金」と「肩書き」に対する″信仰″は、信仰というよりも他者に対する不信(それは結局のところ自分自身に対する不信)とそこから生じる不安を埋めるための盲目的な依存心といったところでしょうか。

王道主義と覇道主義の関係は、親と子の関係に似ています。子は親から産まれるように、覇道主義は王道主義から生まれたものです。また子は親に育ててもらうように、覇道主義は、王道主義に育ててもらった恩義もあります。

世界経済の信用の大元は「國體黄金ファンド」にあり、「國體黄金ファンド」にしかないことは落合莞爾先生こと白頭狸先生が「國體史観」において明らかとされているところですが、世界歴史の現在に至るまでの混乱は、覇道主義が独自のファンドを立ち上げて、自分たちが世界経済の信用の大元になろうとしたところに原因があります。

いわば覇道主義は、王道主義に育ててもらった恩義を忘れて、自分勝手に振る舞い続ける放蕩息子のようなものです。放蕩息子と言えば、新約聖書に有名な「放蕩息子のたとえ話」があります。

「放蕩息子のたとえ話」は『ルカによる福音書』に記されているたとえ話です。そして、この「放蕩息子のたとえ話」のなかに覇道主義社会を終わらせ、王道主義社会を開くために必要なヒント、というよりほぼその「答え」が述べられてあります。

あらましを簡単に説明すると、ある裕福な家に二人の兄弟がおり、そのうちの弟が父から財産を生前贈与してもらい、やりたい放題、好き放題の放蕩三昧を尽くします。

やがて父親からもらった財産も底をつき、さらには飢饉にも見舞われ、明日生きることもままならなくなった時、はじめて自身の自分勝手な振る舞いを反省し、父の家に戻って謝罪し、子としてではなく一番低い身分で雇ってもらおうと考えます。

そうして父親の家に帰った時、その姿を見た父親は、弟のもとに喜んで駆け寄り、弟の謝罪が終わるまでもなく、最上の着物や装飾品を身につけさせ、その家いちばんの食事を用意して弟の帰りを祝福しようとします。

この父親の振る舞いを憤懣やるかたない思いで見つめていたのが兄で、なぜ、自分勝手に家を飛び出して、放蕩三昧を尽くしたうえに、ほうほうの態で帰ってきた弟を祝福するのかと、その不満をぶつけます。

兄は真面目でこれまで一度として父親の教えを破ったことはなく、そのこともあって弟のわがまま勝手な振る舞いが許せなかったのだと思います。

その兄の不満に対して、父親は以下のように答えます。

『子よ、あなたはいつもわたしと一緒いっしょにいるし、またわたしのものは全部ぜんぶあなたのものだ。
 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』
ルカによる福音書15:31-32

この父親の言葉を聞いた瞬間、兄が自身もまた弟と同じであった、父の元にありながら父の恵みを忘れていた放蕩息子であった、と頓悟したかどうかは新約聖書には記されていませんが、おそらく三人ともども抱き合って歓喜したにちがいないと想像するのが王道主義の思想です。

ご参考になれば幸いです。

頓首謹言







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