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家康の人権史観とフリーエネルギー社会の実現(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む・番外)

今月3月18日(土)に開催された白頭狸先生の落合洞察塾に参加させて頂いて以来、フリーエネルギー社会(電力の無料供給)の実現について思索を重ねていました。

フリーエネルギー社会とは、すなわちHAARP社会の実現ということですが、白頭狸先生の著書や動画などを拝見しますと、技術的にはすでに実用段階に入っていると思われますが、現在のところ社会インフラとして導入されるまでには至っておりませんし、情報としても公開される段階には至っておりません。

これはHAARPを受け入れる社会体制がいまだ整っていない、あるいは社会体制のベースとなる国民意識が十分に醸成されていないことを意味しているものと考えます。
フリーエネルギー社会の実現のために必要な国民意識とは、世界からあらゆる対立と分断、格差と差別を解消することをこれからの社会の共通課題として国民が共有し、その実現に向けて取り組んでいくことを目指す意識です。すなわちお金中心の社会から心中心の社会の実現に取り組んでいく国民意識のことです。

お金中心の社会から心中心の社会への変化は、今グローバリストに対抗する反グローバル運動として世界にうねりをもたらしておりますが、よくよく注視しなければならないのは、より良い社会にしたいという純粋な思いよりも、本音のところでは自分たちが利益を享受したい、自分たちの生活さえ良くなれば良いという旧時代の考え方から脱却できない人たちも混在しており、この見極めは肝心です。

言うは易し、行うは難しで、世界からあらゆる対立と分断、格差と差別を解消することは困難な道であるかも知れませんが、不可能なことではありませんし、苦労は多いかも知れませんが、楽しみも多い道であることは確かです。為せば為る、為さねば為らぬ何事も、です。

ただいま白頭狸先生がnote記事において展開されている四柱推命学の考えに則るならば、本来無一物の宇宙より生じたる個人は生を受ける時に陰陽五行によって構成される干・支のエネルギーを纏って生まれて来るわけですが、その原理を敷衍すれば当然のごとく時代や国家、社会もまた陰陽五行の干・支によって構成されていると考えられます。
すでに白頭狸先生がnote記事において示唆されているようにシリコンバレー銀行の破綻に象徴される金融事変は「偏財」の時代の終わりを映しており、財運(正財・偏財)が尽きれば次に現れるのは「食傷(食神・傷官)」の時代となります。

白頭狸先生のnote記事における四柱推命学講座を受講されている方はお気づきかと思いますが、白頭狸先生の人生と世界の時運とは相似象を成しており、バブル崩壊とともに白頭狸先生の財運のサイクルが終わり、白頭狸先生の食傷運のはじまりとともに、新たな時代のサイクルが開始されています。そのことから推察すれば、新たな時代は、これまでの経済活動が中心であった時代から学芸文化活動が中心となる時代であることも予想されるところです。

お金中心の時代から心中心の時代に変化していることは、外の社会状況を見るまでもなく、自分自身の心の変化を観察すれば分かるように、かつての高度成長期における日本人にとって物質的に繁栄すること、私財を増やすことが個人の喜びや希望の中心にあったわけですが、いまは物質的に繁栄することや私財を増やすことに喜びや希望を感じるよりも、一部の既得権益者を除き、多くの国民とくに若い世代においては疑念や苦痛を感じるようになっており、この懊悩から解放されるためにも新たな社会体制の確立を志向する必要があります。

そのような折、イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)の文章の一節に触れ確然と覚るものがありました。開国まもない明治の日本を訪れたチェンバレンは当時の日本を見て以下のように述べました。

「貧乏人は存在するが貧困は存在しない。金持ちは高ぶることなく、貧乏人は卑下することがない。みな同じ人間だと心底から信じる心が社会の隅々まで浸透している」

これこそ、まさにこれからの時代において世界の人々の共通意識とするところです。ウィキペディアによるとチェンバレンは、1873年から1911年までの38年間日本に滞在していたそうですが、チェンバレンが見た開国当時の日本は心の豊かさと美しさを持った国であったことが示唆されています。

「みな同じ人間だと心底から信じる心が社会の隅々まで浸透している」ことの根底にある思想は「一君万民」の日本の國體にありますが、その思想を社会体制として体現したのが士農工商という職能社会を整備した徳川幕府であったと言えます。
学校で教わった歴史授業では、徳川幕府は身分制度の厳しい暗黒時代であったかのように説明されていましたが、それは明治の薩長政府が自らを正当化するためにこしらえて、さらに戦後日本の主流となったマルクス史観で脚色された虚構であり、真相はまるで違っていたことがチェンバレンの述懐からも読み取れます。

士農工商による社会バランスは人々に不公平感・不平等感が出ないように配慮されており、科学者にして哲学者の武田邦彦先生の言を借りれば「侍は名誉は取るがカネは取らない、商人はカネはあるが権限はない」ということになります。
徳川幕府が続いた1600年から1800年代と言えば、西洋列強の植民地支配が隆盛を極めている時代で、人種差別や宗教対立、貧富の格差の拡大も容認されている時代であったわけですが、そのような世界の潮流の中にあって、日本だけが士農工商の職能社会によって泰平の世を築き、「みな同じ人間だ」と心底信じる社会体制が確立されていたことは世界史上の奇蹟と言っても良いのではないでしょうか。
なおチェンバレンの他にも、幕末から明治開国にかけて日本を訪れた多くの英米人が当時の日本について驚きとともに賞賛しており、それは渡辺京二著『逝きし世の面影』に数多く紹介されております。中には「日本こそエデンの園である」と慨嘆した人の記録もございます。

ここで述べておきたいことは、これからの心中心の時代すなわち「八紘為宇」の時代における社会モデルがすでに徳川時代において体現されていたという事実であり、その伝統歴史の末端に私たち日本人がいるということです。
これからの心中心の時代において日本人の果たす世界史的役割は大きく、また率先してその中心的役割を担っていくことを日本人一人ひとりが自覚する必要があると存念する次第です。

なお白頭狸先生の洞察史観によれば1600年の「関ケ原の戦い」は、通説で言われている秀吉亡き後の天下の覇権を狙う権力争いなどではなく、当時キリスト教(イエズス会)の伝来により日本を浸蝕していた覇道一神教勢力(とくに西国大名)を排除し日本の國體を護るための「宗教戦争」であったとのことです。詳しくは『天皇とワンワールド』において述べられてありますので興味のある方はご参考ください。

(白頭狸先生のnote記事より転載)


頓首謹言









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