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吉備の穴済(アナのワタリ)~北海道瀬棚郡利別村河島家のルーツを辿る(6)(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む番外)

(1)「渡党を調べて見られよ」

前回note記事において河島という姓はもとは「髙嶋(コウシマ)」であったことをご紹介したところ、白頭狸先生こと南光院長臈爾應法師様よりコメント欄において「渡党を調べて見られよ。アナの渡り」との貴重な御示唆を賜りました。

「渡党」と言えば、白頭狸先生著『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』において記述されている三種の蝦夷「ヒノモト」「カラコ」「ワタリ」のうちの「ワタリ」のことであり、播磨周辺のワタリと言えば「吉備の穴済(アナのワタリ)」のことに相違ありません。

そこで「吉備の穴海」の場所を確認しようとネットで検索したところ以下の地図がヒットしました。

「岡山の風」様より転載)

なお現在の岡山市は以下のような地形となっております。

(googleマップより切り抜き)

株式会社フジタ地質」様のホームページによれば、現在、中国地方最大の平野として知られる岡山平野は6000年~7000年前は海であり、「吉備の穴海」と呼ばれる内海で覆われていたとのことです。その後、気候の寒冷化による海水面の低下、古代タタラ製鉄による土砂の堆積、江戸時代以降の干拓などによって現在の平野が作られたとのことです。

「吉備の穴海」の地図を見て、すぐさま目についたのは中央右の鳥居の記号で、そこに「高嶋」と記載されてあります。前回のnote記事では「高島」という地名は家島諸島に存在していたのではないかとご紹介しましたが、吉備岡山にも「高嶋」という地名があるではありませんか。

常のこととは言え、わが狭隘なる凡智には汗顔の至りですが、何はともあれ吉備の穴海に浮かぶ「高嶋」の名を冠する神社を調べることに致しました。

(2)高嶋宮の御由緒と高嶋姓との関係性

岡山県神社庁によれば、現岡山県岡山市南区宮浦に建立されている「高島神社」の創建は神武天皇乙卯年三月であり、神武天皇が御東征の砌(みぎり)、当地に行宮(あんぐう・かりみや)を創設せられたのにはじまるとのことです。

同神社庁ホームページには顕彰碑の写真も掲載されており、そこに「神武天皇聖蹟高嶋宮顕彰碑」と刻されてあります。

『古事記』『日本書記』においても「高嶋宮」の記載が見られます。まず『古事記』においては、

(原文)
亦従其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。
(書き下し文)
亦た其の國より上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しき
(かな文)
マタソのクニよりノボりイでまして、キビのタカシマノミヤにヤトセマしき

(『古事記』中巻より引用)

『日本書記』には以下のように紹介されております。

(原文)
乙卯年春三月甲寅朔己未、従入吉備國。起行館以居之。是曰高嶋宮
(書き下し文)
乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、吉備國に従りて入ましき。行館を起りて居ます。是を高嶋宮と曰ふ。
(かな文)
キノトノウノトシのハルヤヨヒのキノエトラのツチノトノヒツジノヒに、キビノクニにウツりてイリましき。カリミヤをツクりてイます。コレをタカシマノミヤとイふ。

(『日本書紀』巻第三より引用)

河島姓のもとである髙嶋(コウシマ)姓は、「高嶋姓」から派生した姓であると思っているのですが、もしも「高嶋姓」が地名に由来するとすれば、神武天皇御聖蹟の地である高嶋宮に関連しているのではないかと思ったのですが、今のところは未詳です。

(3)三種の蝦夷「ヒノモト」「カラコ」「ワタリ」とは

「ワタリ」については前述しましたように白頭狸先生こと落合莞爾先生著『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』において論じられてあります。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

もとは南北朝時代の正平十一年(1356年)に諏訪大社の社家諏訪円忠(エンチュウ)が著した『諏訪大明神絵詞』に出てくる「日之本」「唐子」「渡党」のことであり、この三種の蝦夷の正体とはいかなるものであるのかを白頭狸先生が、京都皇統の古代史伝授をもとに洞察されたものが同著の主題の一つとなっております。

「ヒノモト」「カラコ」「ワタリ」の淵源は少なくとも「欠史八代」にまで遡る必要があり、さらに言えば日本建国以前にまで遡る必要のある日本の古代史を知る上で重要なキーワードとなっております。

なお「欠史八代」とは第2代綏靖天皇から第9代開花天皇までの8代の天皇を指す歴史用語であり、ウィキペディアの該当ページの冒頭には「初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる」と記されており、もしもこれが歴史学における公式の見解であるとすれば、唖然とする他ありませんが、「欠史八代」は実在の皇統であることはすでに白頭狸先生の洞察史観、國體史観において明らかとされているところです。ただし日本列島内には常在されておられなかったという意味で「欠史」と言えば欠史となります。

今回、白頭狸先生こと南光院長臈爾應法師様より「渡党」の御示唆を賜った時に痛感したことは、自分自身が日本の古代史を考える時に、ほとんど無意識的に日本列島内部だけに限定して日本の歴史や地理を考えてしまっており、そのような発想では、古代史における日本の実情を大きく見誤ることになることをあらためて気づかされました。さらには戦後史学界を席巻した「渡来史観」や「半島史観」の影響も知らぬうちに受けていたことにも気づかされました。

白頭狸先生の國體史観における、日本の國體経略の二本柱と言えば「満鮮経略」と「南島経略」にありますが、それは同時に日本の勢力圏が日本列島内に限定されずに満鮮方面と南島方面にまで及んでいたことを示しています。そして、それは古代のみならず現代においても不変であり、万古以来、日本の國體経略は「満鮮経略」と「南島経略」であるということになります。

三種の蝦夷として紹介されている「ヒノモト」「カラコ」「ワタリ」も日本の國體経略の視点から考えてはじめて、その本質を知ることができます。いま白頭狸先生著『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』における三種の蝦夷の絵解きを私めなりに要約しますと以下となります。

ヒノモト・・・大陸騎馬勢力の東進に対応するため縄文日本人より選抜されて騎馬族化の訓練をウバイド騎馬勢力より受けた國體守護の参謀・奉公衆の名称。
カラコ・・・大陸の特殊技能(製鉄技術や養蚕による絹糸・絹布製造技術)を修得するために朝鮮半島から満洲・シベリアにかけて進出していた在外邦人(在韓・在鮮・在満)の名称。
ワタリ・・・日本列島内のみならず満洲や朝鮮半島の要地要衝に配置されたヤマト王権の傭兵の名称。カラコ要人の警護や各地の治安維持に従事した。任務に応じて各地を転々としたところから「ワタリ」と呼ばれた。

このうち髙嶋姓に関連があるのは「ワタリ」ということになりますが、今回あらためて白頭狸先生の「ワタリ」に関する洞察解説を拝読しましたところ、あくまで個人的な身体感覚ではありますが、大変腑に落ちるところがございました。そして、それは明治31年(1898年)に北海道開拓移民団として渡道した曽祖父の足跡にも符合するところがあると思った次第でございます。

また同著『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』を拝読して、御著書の内容と、ご先祖様の髙嶋市郎兵衛の美濃国入地に至る経路に関して関連性があると思われることがあるのですが、そちらは長くなりましたので次回とさせていただきます。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

頓首謹言
















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