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展示に足を運ぶとき

批評とは何か、といつも考える。

あるべき批評は、作り手の新たな可能性を開くことがある、と信じている。
そのような芸術家と批評家の接触を稀に目撃することがある。心が躍る。

その一方で、密やかに一人の市民として芸術を愛し、体験の謎に心をときめかせ、
ある種アンサーソングともいうべき曲を幾つもを作りながら生きている、
自らの草の根の活動には誇りを持っている。


「アートの見方」、というものがある。
数多の論がある。
構図やコンテクスト。芸術の座標軸。

ルールを知らずに自ずと「感動」できる範囲は、実は限られている。

かつてNational Gallery of Artが提供する、子供向けにアートを通じてCritical Thinkingを教えるための講座をとっていた。
子供向けなので、無論本人の素朴な着眼点を起点として、美術に対する向き合い方や感性を育て磨いていく。
この手法はある種現代的なアートに関連する教育スタイルの王道とも言える。
だがそれは決して、アートが前提知識なしに解釈可能であることを意味しない。


アートの「解説」には、政治と同様に歴史・文脈への理解、そしてそれを踏まえた特定のポジションからの視点が必要だ。
必要だというか、解説の主体がどの地点に足をつけているか明らかにすることなしに、その「解説」は意味を成すことができない。

ニュートラルな「ニュース」が存在しないように、ポジションを曖昧にしたまま展示をキュレートすることは、究極的に不可能である。
にもかかわらず、まるで客観的であるかのうように、一定の距離からアートを「紹介」しようとするものを、私はばかにしている。
「客観的」であることが、「冷静さ」や「マチュアな態度」を標榜する時代である。
対象から距離をとった高次元からの「冷笑」が、市民権を得る。


だがそのような態度は、多様性を受容しているかのようでいて、
その実「判断」を保留にする状態こそを支援する。覚悟なき者と冷笑は極めて相性がいい。


暫定のポジションを選ぶことは、現在の自分が選んだ世界に責任をもつことだ。
決断をして、学び続け、過ちが見つかれば真摯に受け止め己をアップデートを試みる。昨日の自分を否定する勇気をもつ。
いつもそのように生きていたい。

展示に足を運ぶとき、自らの生き方を問い直す。

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