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一度へたになることを許すためのノート

得たものと失ったものが人生を形作っている。音楽と煙に塗れた一日。
ひとつの節目を迎えた日のことを、己のために書き残しておこうと思う。

"integration"という概念は、論文を書いていた頃から永らく通奏低音のように心にあるテーマだ。それが年明けごろから再び扉をノックしている。
2017年の1月から6月までの間、わたしの人生で大きく動いたことが二つあり、そのそれぞれが偶然でしかないように見える変化はよくよく考えてみると、integrationという根によって地中深くで繋がっているように思えてならない。というか積極的に思っていこう、と覚悟を決めた。

統合されている状態、とはすなわち、わたしにとっては常にニュートラルな状態だ。
押してもない寄せてもいない波の状態。押してもいるし寄せてもいる波の状態。calm.凪。
自由を求めて生きるなら、この凪は欠かせない。なぜなら自由は凪とともに、存在するからだ。

わたしは漠然と空を眺めている。雲が風に乗って流れてくる。あ、雲が流れてきたな、と思う、否思わされることと、雲が流れてきたことにすら気づかないことは、実は同じことだ。
受動的な認知と、認知未満。
永遠に終わらないいたちごっこを終わらせるには、境界を丸ごと飲み込んでしまうしかない。

たとえば音楽における身体の"統合された"状態とは、首から上だけの限定的な箇所だけではなく、一見関係のなさそうな下半身までを含む身体を、声を出すときに使うことだ。それはボールを投げるときに手首で投げるのではなく、肩や背中を臀部を脚を使うことに似ている。

パッと見て/聴いて"巧い"と思わせるが、実はごく限定的な身体の部分を用いて小手先で器用にやっているだけに過ぎない、ということもある。小手先で器用にやること自体に高いハードルがあるので、それはそれで特別なことではあるが、継続性、持続可能性を重んじるわたしにとってそれは誤魔化しに過ぎない。

身体のどこかを痛めるということは、使い方が不自然であるということだ、とわたしの心の師である古武術の達人は言う。部分に多くを頼りきっている以上、いつか何かしらの無理がたたって結果故障を招く。

自立しているということは、すなわち依存先が多いということだ。たとえば一箇所の食べ物屋さんに頼って生きていたら、そこが潰れた瞬間に死んでしまう。

これまで部分に頼って器用にこなしていたことを、統合された状態に持っていこうとすると、必ず一度"へた"になる。
声を出すために全身を用いることは、首から上で済ませることの何十倍ものエネルギーが必要となる。
そのマッシヴなエネルギーをコントロールすることを学ぶまでのあいだ、ずっと"へた"なままだ。ここを乗り越えられない人は多い。へたになると解っているのに挑戦することは、つらい。ひとまず"目の前の目的"を果たすだけならば、そんな努力は不要に思われる。

しかし、そこを乗り越えさえすれば、本当の意味で持ち得る力をすべてきちんと使った、しかも無理のない持続可能なパフォーマンスが出せる。

同じことが、人生に起きている。
細かな枝葉の一つひとつまでが、根をあるべきように用いて生かしていく。そんなふうに、これまであちらこちらで部分に頼ってやってきたことを、一つの大きな樹にしていく段階がきている。

#音楽家のエッセイ #エッセイ #音楽について

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