見出し画像

頬を殴る芸術ー自己破壊、自己変革としての勉強

学ぶことは常に恐ろしい。
今この瞬間知り得ることによって成り立つ自分自身を乗り越えないことには、
新しい可能性に目を開くことは不可能だ。

古い皮を脱ぎ捨てることでしか自由になれない、という感覚は年々強くなる。

先日、ケンタッキー州ルイビルで、
デモの最前線に列をなし、Black Protestor達を守るように立ちはだかる白人女性たちの写真を目にした。

"This is what you do with your privilege."というメッセージが添えられたその写真を見て、
なんと高度な命の使い方だろう、と自分の人生が恥ずかしくなってしまった。

主な情報源を英語のメディアに限定して久しいが、
イエローなのでいつも、世界から置いていかれている感覚がある。
アジアの小島からなすすべもなく、ため息をつきながら幻のような対岸の数多の炎を見ている。

私に与えられたprivilegeは何だろうか、
それをどのように活かして生きることができるのだろうかと、
そんなことに思いを馳せる。
風の強い夜だ。救われる。

現代アートやパフォーマティブな芸術、音楽の使われ方や儀式の意味を、
時代のコンテクストに再-移植し評価の土台に乗せようとすることを、大学院時代から志してきた。

非常に雑な説明だが、いわゆる本流から逃れた/排除された文化圏や立場から生じる作品を"Marginalized"と形容することがある。

世界や文化と無関係でマージナライズドな自分の存在を肯定する。
そこから始めよう。

アジアの小島という”周縁"からしか見えない世界、というものがあり、
classical text-based approachでは決して拾えない美しさやものの価値…
そういったものを見とめるために、新しい世界と対話するための言語にアプローチしようとして、論をはる。

学会に所属していなくとも、野生の草の根でしかない今でもそれは変わらない。
そんなことをずっと、やっている感じがする。


大きく迂回してやっと、冒頭の「勉強」の話題に戻るのだが、
美しいものを認知するためには知識が不可欠だ。

特に現代アートやparticipatory artと呼ばれる種類の展示に好んで足を運ぶが、
それらは歴史や現実社会、潮流を踏まえた文脈なくしては、
「感想」を言うことができない構造を持っている。
(綺麗だなーというような素朴な「感想」はここでは除外する)


素晴らしいが理解不能なものを発見すると、
無知の頬を殴られる感覚がする。
芸術は私の無知の頬を確かに、殴るのだ。


心が動いている。
にもかかわらず、この体験を言語化できない己の無知が心底恥ずかしく、
だから猛烈に勉強するしか術がない。

新しいことを学び、やっと、目の前の体験を咀嚼し栄養にすることが叶う。

知らないからこそ抱くことができた純朴な感想も、それはそれで尊い。
だが無知の快楽に甘んじることは、どうしてもできない。
なぜなら私たちには、他の哺乳類とは比類ないほど、精緻に「知ること」が許されているからだ。

どうして、私たちには「知ること」が許されているのだろう。
知りたいことに出会うたびに、その欲求に一種の業のような、因縁を感じる。
長い長い歴史の中の、ほんのショートな人生から垣間見える範囲の裏側に、
きっと壮大な流れがある。

あらゆる理論は、夥しい知の挑戦の痕跡で結晶だ。
巨人の肩に乗り、はじめて遠くを見渡すことができる。

それでもなお、素晴らしい作品と言われるものであればあるほど、
理論から逃れる場所に芸術の”コア”が存在している。

なぜ、こうも堂々と。

言語化し尽くされたように思われても、そのコアにあるものが燃え尽きることは決してない。
音楽をどんなに理論で分解しても、情動を揺さぶる原因を特定しきれないことと似ている。

その途方もない信頼があるからこそ、臆することなく勉強することが許される。

人間一人のたかだか100年以下の短い時間では、学びたいことは到底、学びきれない。
その事実に寂しさもあり、どこか安堵している自分もいる。

明日もう一歩自由になるために、今日生きていると、
日々確信している。


*Participatory art ってなんだろう、と思われた方は以下のPDFが端的にまとまっていておすすめです。
https://arts.berkeley.edu/wp-content/uploads/2015/03/Participatory_Art-Finkelpearl-Encyclopedia_Aesthetics.pdf


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?