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庭劇団ペニノ"蛸入道忘却ノ儀"に寄せて

いろいろなひとにオススメする予定だった庭劇団ペニノ"蛸入道 忘却ノ儀"の東京公演が、消防署の指導が入り中止になったことを受けて、
自分用の覚書をアップしました。

三重と福岡公演は実施とのことで、舞台美術やパフォーマンス、儀式に関心のある方は、チャンスがあればぜひみていただきたいです。

http://niwagekidan.org/performance_jp/892

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通常の芝居の舞台装置というものには、観客が想像力で補完されることを前提としたリアリティがある。
たとえば、壁にハシゴの絵が書いてあり、アクターが手を掛けるポーズを記号として、私たちはその模様の舞台上の意味を理解し、"ハシゴを登る行為"が完成する。

だが、ペニノの舞台装置はテンポラリーな"建築"なのだ。

私たちのみているこの"芝居"は、果たして芝居なのか?現実なのか?
その問いがあまりにも真摯に投げかけられるので、日頃現実であると信じて疑わない"現実"が揺らぐーそれは清々しいほどに、eye-openingな体験だ。

本来、舞台の上の"本物らしさ"のジャッジは、観客に委ねられている。だからこそ私たちは安心して物語を享受できる。
自らの常識や現実を侵食されることなしに、
都合のいい部分・受け入れやすい部分・自分に必要なエッセンスを物語から"抽出"し、消費する束の間の"自由"を享受する。それこそが娯楽の定義なのだ。

しかしこの作品では、
真に肉体を酷使した、紛うことなき挑戦が目の前で繰り広げられている。

それを目撃したとき、
問われるのはむしろ観客側の"覚悟"だ。

ただ消費することが、極めて困難な娯楽。
その魅力に、なぜだが抗うことができない。

例えばメディアの中の出来事だと思っていた銀行強盗が、目の前で現実になった時、
自らの行動や指針を急に現れた"新しい現実"に合わせて即座にチューニングすることが、果たして私たちに可能なのだろうか?

行動し反芻するのではない、行動しながら外界・自己への認知を修正していくことが求められる。これは行動探求を観客に求める舞台だ。

私たちはそこでは、観客ではない。
"安全な場所から対岸の火事を覗き見している観客"ではないものとして、空間に存在を許されることは、ただ単純に恐ろしくもあり、なぜか、泣けるほど、自由に感じられる。
本当はずっと探し求めていた現実の渦にやっと出会うことができた瞬間のような。そこでは構えも不要で、ただ存在することが初めて、許される。

目の前の"儀式"を"儀式"として、受容できるかどうか?
"消費"できない物語を、窒息することなく飲み込むことができるか?
その挑戦を"挑戦"と捉えることができるか?
自らの日常・現実の延長線上として舞台上で繰り広げられる"儀式"を、
自身の身体をもって、キャプチャすることができるのか?

現実を認知している思考の構造を変容させようと、
自分が日頃常識であると信じている"ただの偏見"に、メスを入れる挑戦を強いられる。

私は、あの時間は"本当"のことだった、と言わざるを得ない。

#観劇 #舞台美術 #パフォーマンス #庭劇団ペニノ

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