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Requiem

Prayer Pianissimo というアルバムを2月にリリースした。

2015年に友人が亡くなったときに書いた曲、のリミックスが入っている。

この曲については語るべきことが多くあるようでいて、何一つないようで、
公にもプライベートにも書き殴らずに、ひっそりとそのままになっていた。

わたしのように音楽がまともにできるわけでもない人間が、曲を生みだす過程には、どうしたって物語がある。
どうしようもない出来事を曲というかたちにすることで、自分を慰め、励まし、なんとか生きながらえている。
身体を用いて曲を作る過程で、耐えがたい一次情報はいちどオブラートに包まれてくれる。


喪失は、各々のタイミングで向き合うべきもので、
その喪失の発生と格闘すべき瞬間とのタイムラグは、さまざまだ。
15年かかってやっと向き合うことを始めた喪失もあれば、
喪失していたことに気がついたときにはすでに消化が終わっていたようなこともある。

わたしがこの世で唯一信頼している現象は喪失で、なぜなら喪失なき成長はなく、成長なき喪失がないからだ。

今、5年前のことを振り返りたいがために、
この曲をわざわざリミックスすることにしたのかもしれない。


急な別れは残酷、とよく言うが、
本当にそうなのだろうかと半分、疑っている。

ただ、その友人の場合は誰にとっても青天の霹靂で、数日前に会話をしていたし、
お葬式当日は幼子が母に抱かれ、意味も分からず泣いていたことを覚えている。

みんなに愛された彼が去り、仲間たちが涙するのを見て、
誰が連れ去ってしまったのだろう、と素朴に疑問に思った。

わたしは儀式フェチなので、どんな儀式も基本的にあるべきようにきちんと没入し、観客として振る舞うことがうまくできない。
なぜこの空間が成り立ち得るのか、文化的な構造に思考を巡らせながら、その一つひとつの構成要素としての人の悲しみや泣き声や涙をただ茫然とみていた。 

彼らのところから、誰が連れ去ってしまったのか。あんなによい人を。
ただその現象を悲哀を持って表明することが適切なのか否かもよくわからなくて、requiemという曲をつくった。

わたしたちは十分に祝福されていて、めぐまれていることはわかっているけれど、
どうしても解せないことがある、という詩をつけた。

あれからも多くの喪失があり、
これから幾度も、数多の物を失っていく。失うことが本質の生において、この曲は最後まで、わたしの伴走者となるのかもしれない。

requiem


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