Twitterにあらわれる窃視と露出

Twitterでは人同士の摩擦が非常に多く見られる。
わたしはその原因として、Twitterが人の精神をむき出しの状態にすることと、Twitterでの見ることや見せることが相手に窃視/露出のような印象を与えることの二つがあると考える。
精神と身体が共に投射されるバーチャルリアリティに対し、Twitterには精神しか没入できない。
また、Twitter上の見ること/見せることは一方的なものになりがちだ。
このnoteではTwitterのトラブルを前述の二要素から説明し、それを踏まえたTwitterの理想的な使い方について考える。

1.身体の不在

Twitterユーザーであれば一度は「画面の向こうには人がいる」という言葉を目にしたことがあると思う。
一応説明すると、これは「過激な投稿をする前に、それを見るのは生身の人間だということを想像しよう」という意味で使われる標語だ。
さて、これが多くの人に受け入れられた前提には「Twitter上に自分の身体は存在しない」という感覚の共通認識がある。
仮想空間上に自分のアバターが表示され、身体感覚をも得られるバーチャルリアリティに対し、Twitterに没入するとき身体は"画面の向こう"に取り残されている。
身体は人同士の距離を測ること、自他を区別することにおいて必要不可欠だ。
したがって、身体なきTwitterユーザーが互いに衝突するのはごく当然のことだと言える。

2.精神の窃視症/露出症

窃視症と露出症に共通しているのは、普段隠されているものを一方的に見ること/見せることに興奮を覚えるという点だ。
一般的な窃視/露出の対象は裸体だが、わたしは裸体同様"普段隠されているもの"として精神もその対象に含まれるのではないかと考える。
現実ではブラックボックスである精神を直接覗き見ることは不可能であり、規範意識から精神を曝け出すこともまた困難だ。
しかし、Twitterはその両方を叶えられる。他者の本音は覗き放題で、特に意識しなければ自然と本心が曝け出される。
これこそがTwitterが人を惹きつけて離さない魔力の源だ。
このような環境が窃視願望や露出願望を刺激し増幅させるのは言うまでもなく、Twitterに留まり続けることで嗜好が歪むということも十分考えられる。

3.見ること/見せることの一方性

Twitterでの見ること/見せることはツイートを媒体とする。
ツイートは投稿されたあと、他の人から見られるようになる。逆に言えば、ツイートは見られるときすでに過去のものだ。
要するに、見ることや見せることはツイートを介して行われるが、ツイートを見る人とツイートした人(見せる人)は同じ時間を共有していない。
そのため、対面のコミュニケーションと異なり、見るときに見返されたり、見せるときに見せ返されたりすることはない。
これがTwitterでの見ること/見せることが一方的なものに感じられる理由だ。

4.窃視の露見

Twitterでの"見ること"は相手に認識されない完全な窃視であり、インプレッション数の存在を考慮しても"目線"の知覚は不可能だ。
Twitterでの窃視は言及という形式の中にあらわれる。
なんらかの対象に明確に言及したツイートがあったとする。当たり前かもしれないが、その成立には必ず対象を"見る"過程が含まれている。
言及とは相手を"見たこと"を"見せること"なのだ。
言及という形式をとったツイートはよくひんしゅくを買うが、その不快さは窃視と露出の両方に由来していたと考えれば納得がいく。

5.Twitterで人は磁石

わたしはTwitterユーザーは窃視症と露出症の両極を持つ磁石のようなものだと考える。
それに則れば、そのどちらか一方を出しもう一方の相手と交流することがTwitterの理想的な使い方ということになる。
Twitterでの最もよい人間関係とは、互いに見ること/見られることを望んでいる窃視症と露出症の関係なのだ。
ただ、窃視願望を持つ人でも見たくない人がいること、露出願望を持つ人にも見られたくない人がいるということには注意を払う必要がある。

あとがき/Twitter身体論

このnoteでは「身体の不在」と書きましたが、空間の中に体積を占めるものを身体と定義するならば、ツイートの集合がわたしの身体ということになります。
また、アカウントを変えてもツイートの内容から同一人物だと同定されたことがあることから、ツイートは個人のシンボルとしての身体の役割を十分果たしていると言えます。
その観点で言えばリツイートは他者を自らの一部とする行為だということになり、Twitterの全てが違って見えるでしょう。

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