「また明日」が嬉しかった
また明日、この言葉がこんな温度を持っているなんて、今まで知らなかった。
これは頻繁に会う人にしか使わない言葉だ。
そして、頻繁に会っているうちはこの特別感に気付かないのだ。
思えば学生時代は全く無意識に使っていた。
学校が終わり、途中まで友達と一緒に帰り、また明日と言って別れる。
そして当たり前にその明日はきた。
毎日毎日それを繰り返していた。
社会人となり、この言葉は自然と使わなくなった。
たとえ使ったとしても、定型文というか挨拶みたいなもので、手のひらに落ちてきた雪のように、口をついてはすっと消えていく。
特別な温度など感じたこともなかった。
その温度に気付いたのは、結婚式参列のため地元を離れていた友人が帰省し、いわゆるいつメンというやつで、せっかくだからと結婚式の前日に地元で集まった時だ。
よく遊んでいた駅でお茶をし、各々の帰路につく時自然と出た「また明日」に、今まで感じたことのない感覚が走った。
瞬間ざわついた。
全員同じ感覚を覚えたようだった。
え、また明日ってやばくない?
ね、なんかめっちゃエモい感覚した
明日漫画持ってくるねーみたいなやり取り蘇ったわ
この駅なのがさらにいいよね
心にマッチの火がぽっと灯って、全身にその温かさが染み渡ったような感じがした。
みんな同時に同じ感覚がしたのも、なんと嬉しいことだろうか。
中学時代は苦しかった。
途中で転校して、友達もうまく作れず、部活に入ってみたものの馴染めず結局辞めた。
ちょこちょこ休みつつもどうにか毎日を繋いでいた。
いい思い出は特にないし、
正直あまり思い出したくない。
学園青春モノのアニメやドラマもコンプレックスが刺激され見ることはできない。
辛く苦しい時期だったが
それでもあの頃が懐かしいと思える。
数こそ少ないものの当時の友人とはもう20年近い付き合いだ。
この子達とまた明日会える。
なんと嬉しいことだろうか。
何の気なしに出た言葉だったが、
本当にいい友人と出会えたんだ。
わたしはなんて幸せなんだろうかと気付いた。
当たり前に消費していたときは気付かなかったが、「また明日」は特別な言葉だ。
出会った人との関係を翌日、さらに翌日と繋いでいく言葉だった。
大切な人との「また明日」は未来でも当たり前とは限らないのだ。
いつの間にか距離が離れて「また明日」だったのが「また来年」になって、「またいつか」になって、もう次は来ないことがあるかもしれない。
だから、会いたい人には会えるうちに会っておこう。
「また明日」はそんな気づきをくれた。