かざりえ

1 四角い画面のホログラム

Am1時。
私はキッチンの丸椅子に座り込んで、普段見ているホログラムをえんえんと眺めている。というか光がたまたま四角形に映っているところで、その四角形のなかに色々な動きがある。それはカウンターキッチンのカウンターにある金魚鉢の一箇所に映し出されている四角いスクリーン。キッチンの向かい側、勝手口の上方の天窓から光がさしこんで、きれいな四角い絵を映している。
私はそれをホログラムとよんでいる。その矩形の画面の中に、どうも色々なものや光が見えてくる気がするから。いつだかそれを見つめて、嬉しそうな顔をした私がいた。鉢の表面に空があって、その空のなかでまた鳥が飛んだり、風がふいたり、雲が動いたり、している。
―― あ、あ、
そう誰かとテキストでやりとりをしている。
―― どうしているの?
―― 何もしていないよ、たぶん
飲みにでもきたいのだろうか。それとも、何か急ぎの相談か。こんな時間に、話したいものでもないからもう見ないことにして、金魚鉢にもどって、眺める。
―― 何かを眺めている
―― 何かというのは
―― よく分からない、めちゃくちゃなんだ

私が見ている画面というのはろくでもない、ただの金魚鉢に映る矩形。ホログラムというと、見慣れぬ映像のようなものだろうか。それが何か、というと何ということもない。だけどただその矩形を眺めている。その絵は上と下とで色が分かれていて、何とも言えない精緻な紋様が刻み込まれている。空気の雰囲気によって、見せる色合いとか、紋様の雰囲気がかわる。時間によってもそうだ、空を映しているわけだから。その画面のなかに、一つの行き交いがある。夜と昼、空と地面、内面と外面、側面。動いている感じがするから、ぼんやりと眺めているだけで、飽きない。飽きないのは私の頭がぼんやりしすぎているからか?
いつも大体夜遅くの1時かときに2時ころに、そんなことを考えている、5分くらい。5分が過ぎると、はたと気がついて我に返る。我とは何なのか。我じゃなかったのは何なのか。はたしてどちらが我なのかは分からないが、帰ったことにより、あれを済ませておこう、いやもう寝よう、などこの日になすべきことを曖昧に思い返す。そこから頑張ることもあれば、たいていは寝たって明日にどうにかなるから寝ちゃう。
いつからそうなったのか、酒を飲んで曖昧になったような頭で、夜から夜中にかわる時間にだいたい、気づけばこうしている。
もういいよ、と思いながら。

今日のことを、思い返してみようか。今日は、私にしてはめずらしく街をうろついていた。
人は、街中をうろうろする。酒をかたむけてはぼんやり行き交う人を眺め、コーヒーを飲んでは頭の中を整理して、たばこを吸って、さまつな考えにふける。
そうしてうろうろするために、道具や場所をつかう。本は、あれはそのなかに違う世界が広がっていて、見える景色を拡張している。最近は、スマートホンの画面ばかり見てしまう。誰もが2週間もあれば忘れるニュースのアップデートなどを確認する。そちらの方が、本より横に広がっているようだけど、奥行きはそんなにない。
最近は動画も多くて、それをみすぎて内斜視になっている若い人が多いという。内斜視とは、何だろう。内側に、斜めになっているのだろうか。それとも内側が斜めになっているのか。何となく分かる気もする。

私はそんな物事を持ち歩いて、ときにカウンターで注文して時間を過ごし、ときに居合わせた人と会話する。知人のいる店で知人に会ってみたり。ふと、音楽をする店に入り込んだり、絵画などが飾ってあるスペースに迷い込んだりする。
あ、歩くための道もいる。散らした呼吸を整えながら、歩く。歩きながら人や店、道路の車などがほどほどにあるといい。あまり過密だと、すぐにうんざりしてまう。それで何かの部屋に入ったときの机、イス……人の声。
うるさくない、ほどほどの音がいい。
ほどほどの音なんて、どれほどだろうか。人によってはよく耳栓をしながら、自分にとって程よい音だけチューニングしている。そうではなくて、流れる音を自分の耳に合わせてととのえていく方が、身体が落ち着く音のする方へ歩くのが、不安がない気がする。
暑すぎて、どこもかしこもぼんやりしているから、部屋に入ったとたん安心してしまう。

あ、夏の盛りに、そこに秋の声が何となく包まれているのだよ。そう書いた作家がいたけれど、どうだろう、そんなことは涼しくなってから気がついた。それもずいぶん秋が深くなってきていたから……その季語ももうすたれているかもしれない。四季ではなくて、二季なんていわれもするから。
いけない、もういいからね。


2 静かな音楽

今日のことの話はつづくが。
そうやって、部屋に入って……、静かな気配が流れているときに、私は落ち着いている感じがする。
それはどこか、静かな音楽のようでもある。誰かが楽器や何かで演奏しているわけではなくて、聞く人が主体的にそうとらえて、音楽になる。勝手にそういう音楽のリスナーになっている、というわけね。面倒くさいことをいっている。だけどその音楽感を、しばらく引きずっていたい。
Mという知り合いの店にふらっと入って、そんなことをぼんやりと考えていると、隣の人は、その隣の二人組とえんえんと最近見た動画の話をしている。
―― ××××の新しい番組が始まってて、あれ見ました?
―― あ、そうなん。今見てみようかな…………、あ、ちらっと見てたかもしれん。××××って、あれだよね、○○と前つきあっていて……。
相手方が応えると、その倍くらいの量の言語を流暢に話す。ここは「文学系」のお店で、文学に興味があるという人が一定数集まるところだった。文学というのも、音楽と一緒で得体のしれないものだけれど、少しく人は集まるみたいで、その二人連れと隣の人とは、文学をテーマに商いをするユーチューバーの話をしている。その界隈ではそこそこ知られた人らしいが、界隈がスモールなので、世の中的には説明がないとほぼ誰もわからない。そこでも男女? の仲というのは常に耳目を集める話題らしい。
店主の又寝さんもそれに何となく耳をかしている。又寝さんがやっているから店名がMなんだという。それは伏せ字のMで、又寝さんというのはその人の名前だった。
よくしゃべるお客は正直うるさいなと私は思っているのだけど、又寝と顔馴染みみたいで、カウンターの中にいる又寝と、ねぇ、なんてたまに相槌を求めたりして、又寝もそうねと何となく応えたりしている。
私も又寝に水をかけてみる。いやこの言い方はあっているのかな。
―― あのじぶりの新作、見ましたか
―― え、何それ
―― はやおの、十年ぶりの
―― ああ何かお客が言ってたな、見たの?
―― みました
―― 絶対見ないから、内容全部おしえて
―― 長くなりますよ……

とだらだら中身のないこと話しているうちも隣客はどうも声色がたかい。
私はその客とたまたま隣に居合わせただけで、直接会話をしているわけではない。声がすこし高めで、早口なもので、聞いていると、だんだんとうるさい。もう少し、ペースを合わせてみてはどうだろう、この店の雰囲気とか、酒を飲むペースとかと。なんだか落ち着かない。声が大きい、大きい声で、神経質な甲高い感じが、私が落ち着かない。なんかうっとうしい。
人が同じことを話しているのでも、静かとうるさいの違いは何なのだろう。私も、又寝とぽつりぽつりと話をする。最近受けた仕事のこと、久しぶりに出会った共通の知人、今度の取材のことなど。私の声は全然通らないので又寝さんは聞こえているのかいないのか、たまに全然噛み合わない相槌をうつのだけど、それくらいでまたいいのだろう。

この飲み屋の路地には色々な文化圏の店が集まっている。その店はオジサンから若い人まで……、なんていうと曖昧だけれどまあ、いくつかの世代が集う店だった。
年代物のカウンターには文庫本が並んで壁には単行本のぎっしり詰まった本棚などがあって、そう、本が好きな人が集まるお店だったんだろう。
又寝というのは一切本というものを読んでる気配はなくて、むしろ音楽の方に精をだしている感じはあった。だからそう私が先ほどいった静かな音楽という感じが近いのがこの店じゃないかという感じがあった。いいか、そこにある本が静かな音を出しているみたいな。
音楽自体も流れていて、テクノのようなのや、何か生っぽい音でもオーガニックなミックスされたのなどが、割りに大きい音で流れている。けれどその音をうるさく感じることはそうなかった。木の壁が音を吸い込んでいるのか……。いつしかそのビートなどお構いなく、人と人は飲み物をあおりながら、話し込んでいる。
静かな音楽。そうした場の感じをふくめた。
しかし、そもそも音を出すのが音楽なのに、静かな音楽というのも語弊がある気がする。けれども何となく馴染みがある言い方だ。無音でもないし、うるさいわけでもない。何気ない、風の立つ音くらいだろうか。風自体に音はないが、何、ささやかな風の立つ音。

家材の音楽、という音楽もあるらしい。
いつかそんな演奏をする人を見た。広い木造の、平家の本屋の一角で、イスにすわって小さい音でギターをつまびいていた。うすく、手元で魚をさばいているくらいの音量。魚といっても小魚ではなくて、けっこう大きいサバくらいのもので、時折ばしっと跳ねたりしている。それを連れのSと一緒に、聞くともなく聞いていた。

Sは園内さんといって、この話にはつづきもあるけど、そんなことを思い出しながら、キッチンの矩形を眺めている。

これで、今日の話は終わる。
前置きが長くなった。けれど、何が前置きなのか。前置き。前段。枕。それらは、人によってはコレクションの対象で、事あるごとに利用できそうな前置きを集めている人々つまりコレクターもいるという。私のように。
それで日はかわる。


3 ななめのゆらぎ 

それでAm1時。今日の私はまだ、Mで飲んでいる。
前置きは、このMでも随分コレクションされている。
ただ前置きがいるようなことは、ない……前菜の前の突き出しだったり、前菜の前の前のお茶だったり、その茶と次の茶の間にはさむ余興とか……それか食事の前の入念な断食とか、界隈のどこの店でもそうであるようにMでは儀式めいたことは一切なく、カウンターにおかれた駄菓子をつまみながら、酒を飲むだけだから。前置きがあっても、眺めるほかない。けれどそうでないと、前置きは前置きとして認知されない。忘れてしまうだろう?

気づくといつもの騒がしい、カウンターの先客らはもうおらず、音楽のボリュームはずいぶん大きい。何か人の手で作られているようなビートが、延々と響いている。でも人の手で作られていないビートというのは、もう何だろう、雨の音とかなのだろうか。ああ、電車の音か。電車はときおり、その窓の下でガタガタと走っていって、すこし空気を揺らして、心地いい。心地いい感じがする。

そのビートの裏で一人の男性が、くだけた調子で又寝と話している。私も時々話をふられて、話を返したりしている。彼はプログラミングなどを生業にしているのだけど、時々、文章などを書いてみたくなるらしい。なるほど、話す話にも筋道がきれいに立っていて、微細に細やかに、分かりやすい。私はしがない編集者、つまり本や雑誌なんかを作ることを生業にしているのだけど、こういう人なら、何か原稿を書いてもらっても分かりやすいのだろう。最初に概要をクリアに書いて、各論に入っていって、結論。出だしのヒキは万全。随所にキャッチーなフレーズ、馴染みのある固有名詞などが散らされて読者を飽きさせることはない。言葉は歯切れよく、そう長々した言葉は使わないし、比喩は必要な時だけつかって、誰が読んでも誤解を生むことはなく明晰に……。筋の通らない寄り道も、もちろんしない。でもそんなもの面白いのか? 勝手なことをいいますが。
彼は、カウンターに置いてある大箱のマッチを擦って、タバコに火をつける。タバコはふだん吸わないらしいけど、たまに酒のときに吸いたくなるそうで、さっき買ってきたと。ダラダラと吸うでなく、そういう吸い方というのは好ましいし、羨ましい。
―― さっきから話を聞いていたのだけど

そうふと私に水を向ける。水というか、アルコールだろうけれど。
―― ライターなんですか?
―― はい、ライターですね

そう私は応えて、襟なしのシャツの、胸ポケットに入れていたライターをだして示した。安い量販品だけれど、あまりこの国では売ってないタイプの、リップクリームみたいなかたちをしたライター。私はけっこう好んで、店頭でみかけると買って集めていた。小さな筒状で、そのときのは黒い色をしたプラスチックだった。擦る歯車状の石が大きくて、かわいい。せっかくなので、そのライターでタバコに火をつけてみる。
彼は黙って私がつけたタバコの火を見つめている。流暢さが途切れたのは何かあったのか。私は何かを間違えたのか。
―― ライターというのは、火をつけるためだけの道具だけど、こうポケットに入れるとちょうどいいですね。手持ち無沙汰のときに、役立つ
―― そうですね、出る音とか、火花がたって着火する感じもいい。誰かに合図したりね。しかし……
―― あ、あ、
―― …………
―― ライターというのは、もしかして、ものを書くライターですか。あの、文筆というような
―― べたべたやんな

又寝がすこし笑った。彼は、何だかよくわからない、関西弁のような言葉で話す。つまり男は、私を物書きとか、そういう文章を扱う生業の人だと思ったらしい。それはまあ、そういう人ではあるのだけど、そんなこと言われるなんて思ってなかった。
今日はそんなカウンターにいて、この時間になるといつだってボンヤリしていて、話は進まない。けれど進めるとはつまり、何なのか、そこに時間が流れるということなのだろう、アップテンポに、スローリーに。前に歩むのか、そうではなく私は右に左に、ゆるりらと揺れているだけなのか。深く潜ることなく、水面を行き交う。

語りや語り合いというのはどう進むのか。
話のうまい人というのはいる。まずつかみで自分という人のキャラクターを示す、相手の受けを注視しながら、芸人みたいにテンポよく話題を展開していく。料理がうまいみたいに、淀みなくチューニングを重ねては話は途切れることはない。あれこの話、似たようなことさっき言わなかったか?
私は、話すのがそううまくない。だけど話そうとする。人とすれ違うのも全然うまくない。というかありえないほど下手だ。だけどすれ違おうとする。だから話す二人の時を埋めるのは、果てしない気配と途切れがちな雑談。音楽と溶け合った、そこにある空気。
気配の音楽がつづいていることで、景色は揺れている感じがする。ゆったりと眠くなってくる。赤子は揺らされて歌をうたわれてようよう眠るけれど、それと同じことだろうか。彼らはそう、インダストリアルノイズだって眠るだろう。無数の響きで圧されて、もういいや寝ようってなる。そこに電車の走りが交錯する。
あとどうもこの部屋は、建物の性質上どことなく傾いていて、トイレなどに立つたびに揺られる思いがする。経年劣化で構造がどうもあやしい。劣化、いい言葉。私の好きな作家もよく使っていた。揺られるから響きが、立体的に交錯する。そうななめにななめをかけて揺れているのだった。


4 旋律と音響

―― ああ、いい。
―― いいですね、こう、やわらかいけど、なんか芯のある感じ。アジアの国でこういう音を聞いた気がする。

ライターと私を呼んだ人と私は、なんとなく流れる音に反応している。ひずんだアコースティックギターの音が、なんかファジーに反響している感じ。
―― いいですね
―― いい感じ
―― こないだ、こういう音をライブできいて
―― それはいい
―― 木のへやになんかギターの音がひびいていた感じがよくて。空間のひびきがやわらかで。で、彼は、彼というのは知り合いでもある飲んだくれのギタリストなんですが、はじめは、足元においたシンバルを叩いていて、それがノイズをだしつづけていて、シンバルはすべての音階をもっていると言っていた
―― それはまた、静かな感じがする
―― うるさいんですよ。シンバルは3兄弟かと思いきや4兄弟で、長男と四男がジロウだった。同じ名前
―― いいね
波長の変化が少なくて、澄んだ音で、静かといえば静かだけれど耳がおかしくなったな。それは静かなのでしょうか。
―― 次男と三男の名前は覚えてない

頭の端っこで、とても静かで精妙な音が流れている気がする、ゆっったりしたジャズギターに、ひそかにサックスや、管楽器の音がからむ。ひそやかな森で流れているような音楽。大きな、ゆるやかなリズムがあるようで無調なようで。どこか哀しく、からりとしている。そうした音にたまらなく焦がれるときがある。子守唄のようでもある。
でも今はシンバルの音をしている。そんなうるさい音は、必要なのか? 

―― すべての音階を出し続けているというのは。何だろう、聞いているときは単にうるさいだけでも、続いているうちにだんだんうっとりしてきて
―― 眠くなったりしますね
―― ああいう眠みはいいね、溶けていくみたいな

ゆっくりゆっくりと話すのだけれど流れている音量がでかいものだから、区切りながら、けっこう声を張ってお互いに話している。
―― そうかもしれないね、しかしうるさいな、ここは。いや、うるさいというのも違うのかな
―― うるさいけど、静かな感じもする。壁がうまく音をすっているのか。それか選曲がいいのか

そうやってえんえんとしている。煙草の灰が灰皿にえんえんと積もっていき、酒のグラスもえんえんと空いていく。おつまみ代わりに置いてある器の駄菓子も、えんえんとそのフクロが、器のそばに盛られていってる。そのままクシャとなったものもあれば、丁寧に結ばれてスキマに差されたものもある。店主は時折、あいたカウンターのそこをさっと片付けている、片手にうすく割った酒を飲みながら。
それもまた、音響なんだろうか。音をききながら私たちは何となく反応をかえして、それが水面でこだまするみたいに、跳ね返して、跳ね返して、何となく時はたつ。時刻はそう、3時すこし前くらい。いろいろな色のテクノがオーガニックなリズムを刻んでいる。うっそうと暗くて、森みたい。
―― ただうるさい音というのもある、ほんとにある。人の気持ちを逆立てようとして逆立てている。
―― 誰々さん、あんたは昔あんなことをして、今はそうですか、ああしていらっしゃる、へえ~! なんてどなる車を見ました、こないだの日曜の、昼下がり。でかいラッパの音楽を鳴らして
―― 昼は下がるものですね
―― ほんとにねえ
―― しかしそれって、私もきいたかもしれませんね、少し遠くで。こだまのように
―― 私はその目の前の家で。私は相手ではないんですけどね、あれは何。だまって放っておくのがいいのか。しかしまあ、パフォーマンスとしてやっている感もあった。きっちり2時間、くるくると周囲をめぐって、帰っていって
―― BGMには、ならなかったですか
―― 試してみたんですけどね

小さい部屋はえんえんと循環しているように見える。たまに人が出たり入ったりして、レイアウトが変化していく。グラスがあいて、駄菓子の袋が散らばって、無責任な言葉が散らされていくだけ、ゆるやかに時間が。
―― いい音は、いい

男は一人何となく話している。
あ、どうしたのだろう。なんだかどこかでそよぐような音が流れていて、私は苛々している。うるさい人の声がうるさいのか、眠いのか、疲れたのか。ここにいても仕方ないような気がしている。だから、酔いの中の最後の勢いで席を立って、お勘定する。
又寝が小さな紙切れをだす。筆ペンで書かれたお会計。いつもそうだけど、ほどよい安さに安堵する。
けれどどうしてか、前よりも気が短くなっている感じ。歳をとって、体力がおちたということだろうか。いや、何だろう。落ち着かない。ムズムズ病とかだろうか。
―― どうもでした、また
―― おお! また、また……

とはいえ時刻は3時、もうすこし過ぎ。もう私の閉店にむけて気分を変えた方が楽しそうだ。そうして店を後にする、細い廊下の細い階段を、ゆっくりゆっくり、すこしくにゃくにゃした脚でくだってく。たしかに斜めになっている床を踏み外さないように。どうも、ささくれがひっかかるような心地をのこして。

帰り道に酔った頭をさましながら散歩をしていて、その実はさらに酔いの果てへと、缶のお酒を飲みながらゆらりゆらりと歩いている。私はなにかを喋っているけれど喋っていることに何の意味も理由もない。何の意味も理由もあるような気もする。
そういえば、飲んでいる酒の種類については何も言ってなかったけれど、ビールに始まり、焼酎、ウイスキーなどを飲んでいて、そう強いものではなくて、なにかで割ったものをえんえんと飲んだものだった。そう、主にレモンサワーだったな。
夜の中街灯にてらされ、歩く道を見るともなく、見ている。前や後ろに歩く人やランナーはおらず、ときおり、車が一台や二台、過ぎ去っていく。歩いているそこの壁には誰かが描いた文字があって、いつも横目で眺めている。「Dive」とある。

それを見ながら立ち止まり、ふと、すがすがしい顔をした園内さんと過ごした時を思い返している。あなたと別れたあとの街並みは妙にあっさりしていた。
ずいぶん懐かしい感じのする大通りは大きくて、対岸に人がわらわらとしていて、その先の飲み屋が連なる通りから、賑やかな声がもれている。
―― じゃあね、ふうさん

それは私のあだなだった。どこからそんな名前がつくのだったか。けれどそんな挨拶をいう声も、どうもドライだ。そのあとに、つづく言葉はないみたいに。
景色は、宵闇がフィルターのようになって、妙に静かな感じがする。対岸の通りは窓を隔てた潮騒のようで、喧騒がくぐもった音の塊のようになる。わら、わら、わらららら、そんな声が大人数からでているような。
そう、激しく大きな音でも、静かに感じられることもある。ビートの効いたテクノであっても、酒に酔うた人たちが大声で喋り合ってても、うるさくて声が聞こえないから、関係ないから、逆に頭の中がクリアに内省的になったりする。
―― あ、はは

あなたはすがすがしく朗らかな顔をしていても、ときに私は踏み込めないような、憂いの横顔をしている。それは春風の生暖かさのせいもあったのだろうか。けれど、すがすがしいふりをしていただけだったのかも。
いけないな、いけないことはないけれども、こう酔うているのだから、あんまブルージーでも仕方ない、と感じて、ポケットからライターを出してシュッ、シュッ、と音を出してみる。それをしていた誰かを頭のうちに浮かべながら。炎はつかない。風が吹いているからだ。風が言う。
「Dive」
いや、それはさっき見た文字だった。金釘文字でスプレーで描いたのだろう、勢いがあるようなないような、いいとも悪いともつかない、ただそこに馴染んでいる文字だった。経年劣化で、壁と一緒になっている。


5 サイン

Am8時半。
バーから帰ってきて、そのまま寝てしまって、朝。
何も考えずにというか考えられずに服を脱いで寝室に転がり込んだのだろうか、朝陽が射しこんでふと目が覚めた。隣では妻がすうすう寝息をたてている。妻は、お月と書いておつきさんという。先に言っておくがたびたび出てくる園内さんとは同一人物である。名字と名前の表現の異なりから、話の区別を察していただきたい。
さて私は、むにゃむにゃした頭で店でのその後の会話を内省するけれど、どうも中身はよく覚えていない。頭にもやがかかったようで、爆音でかかっていた音楽ばかりが思い出される。こういうことは、数日経ってからふとありありと思い出されたりする。
リミックスされたブルースみたいな音がよかったけれど、同じくらい口の中で思い出されるアルコールの味がどうもよろしくない。歩きながら飲んだ何かの、あの、ケミカルな具合が残っている感じがする、舌に。

ふあ。窓の外を見ていても、そこには静かな音楽が流れる。静かなアンビエントミュージックみたいに陽がさす。あるいは、間の長いサックスみたいにゆっくりと風が立つ、その間をそぼそぼと鳴るピアノ、ウッドベースの刻む音。そのように木々が草が、虫が鳥が、静かな音を鳴らしている。大家さんが丹精している庭には、何か色んな樹木が育って独特な生態系をしている。今は冬だから葉っぱが落ちて景色がまっすぐ見えてしまうけれど春や夏にはもっとわさ、わさ、として先が見えない。
大きな陶器の鉢には水がたたえられていて、メダカが泳いでいる。水盆といいたいような、いつもいい感じに水があって、その水には私のみている鉢のように色々な光が映し出されるのだろう。
たまにそのそばを猫が歩く。三毛猫でずぶとくボディが厚い。ときおり夜中ににゃあとないている。
水にはきっと、思いもよらない感情などがストックされているんじゃないだろうか、長年にわたって。そう、長く溜まっている水には。
ここは生態系もすこし豊かなのか、街中であまり見かけない鳥が行ったり来たりしている。鳥を見るたび名前を調べてみようとするけれど、日々の些末な事ごとに邪魔をされて、気づけば飛び去っているみたいだ。チチュ、チチュ……などと、声を交わして、やってきてはどこかへ行く。

そう、園内さんといた本屋でなっていた、ギターのやわらかい音色。その話がどこかへいっていた。その音の抑揚は、本屋の道を行く人の様子をみながら調子を合わせたり、外したり、ときに無音で周囲を眺めてはギターの木製の腹を軽く叩いたり。水面にかすかにのぞくめだかの赤ちゃんほどの音をぽたりぽたりと流したり、している。空気と、静かな会話をするように。
天井が高くて、響きがよかった。私はそんな様子を斜め上のロフトになっているところで、そこの棚を眺めながら見つめていた。感じながら、棚を見ていた。
―― 何だったの
―― いや、あの音を、音楽を妨げたくないなと思って。とても気持ちよさそうだったから
―― そうだね、いい音だった

店のギターに耳を傾けていたけれど傾けることによって本屋という場にきた意味がなくなってしまって、けれどもその音が清らかだから邪魔をしたくなくて、本をみるのがためらわれて。そうしたジレンマをかかえた結果、すぐに店を出てしまった。
あまりに高潔なものに出会うと、そこにいるだけで申し訳ない気分になってしまう。いかに自分が俗物なのか考えてしまうし、それを邪魔していい人間ではない気がする。というのときっと、距離がはなれすぎていて、その距離とか近づき方を考えるのが億劫なんだろう。本屋の棚を眺めにきたのに、そうした気持ちにふれあうことも面倒だったりする……。
しかしそんな環境にあれよあれよと慣れていったら、本屋自体の楽しみも増えるかもしれない。いきつけの本屋というのは定点観測みたいな感じがある。
けれどそう考えてしまうところで、何かよそよそしいんだろう。人と人の話になってしまうけれど、そういうことは会ったらすぐわかる。
それで、初めてなのによくなる二人というのもある。彼にとって、園内というのはそういう人だった。頭の仕組みが、けっこう似ていたんだろうか。ときに毎週のように会って、歩いたりしていた。というか大体歩いていた。歩き疲れたら酒を飲んで、園内は茶を飲んで、また歩いて別れた。園内さんは、本とお茶を好んでいた。本というのは詩集や、往年の読みやすいエッセイなどが好きだった。その名称などはとくに言わなくても、わかるだろうか。ほら、富士日記とか。
―― カフェインレスコーヒー、フレットレスベース
―― なに。どういうコト?
―― なにだろうね。なにか、似ているもの
―― ・・・・・・とか?

歩いていると、うつむく園内さんの頭のつむじが、横に見える。その鉢はななめ上からみると一番円く、サッカーボールくらいの大きさで、可愛らしく見える。いや、ハンドボールのボールくらいだろうか。そういうふうに見るということは、自分の頭もそういうふうに見てほしいという欲求があるのかもしれない。そういう、思考にならない思考がある。
園内さんの頭は、横からみるとゆるやかでぜっぺき気味で、そこを見るのもまたよかった。そのかたちは、きっと生まれたころからそう変わってないだろうけど。
そうして前を見たり横を見たり、相手が考えることを考えてみたり、自分が考えることを考えたり。どうもせわしないけれど、えんえんと歩いていると気にならなくなってくる。景色はガードレール越しに、小さな商店が並んでいずれ住宅街、小さな横断歩道をこして自販機、自販機の前で飲み物買う高校生の男女をみて青春かなどと話す。自転車二人乗りで去りゆく二人。マラソンの伴走やダイビングのタッグ、何か飛行機の操縦士たちというのもそうなのだろうか。いつしか呼吸や足取りをおぼえて、二人に合わせた調子が生まれてくる。と思えば、急に終わる。駅についたからかな、発車オーライ。
―― じゃあ、また
―― またね

二人が終わって一人になっても、その余韻やテンポを残している。先に話したことのいい受け答えや、歩く距離感や角度の面白さ、その話す話のつづきを考えたりしている、自分のリズムに立ち返って。

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