散歩道|5

[あふれて混じる思い]

 思想とは、浴場のようなものかもしれない。裸の人が寄り集まって、湯気がもわもわと立ち上り、中で人たちはゆったりと、ただ身体を温める。浴場をうろつき、身体を洗ったり、毛を剃ったりする。そのうちに温まった身体から、汗や、なにか断片的な思いなどがあふれてきて、目を合わせると互いに「これや!」と感じる。その言葉がだんだんと集積して、かたちになる。なるものの、それが皆の考えの集まったものだとは思いたくない。何だか汚いから。かしこまった作品としては認識されないが、そうして風呂につかって温まっていった思想はあるはずだ。

 それは、鏡写しの二部屋の行き来にもある。実際の行き来ではなくて、かたちをもたない、精神的な行き来のことだ。お互いに何となく雰囲気を見たり、見られたりしていて、視線が行き来している。見つめて見つめて、その見つめていないところまでも明瞭にイメージしようとする。そうして何か言葉にしようとしていたら、自ずとかたちになり、思想になるのだろうか。それでできた断片を、編み合わせて、本にしていく。そうなると思想という感じが、しないこともない。

 安藤と渡辺は日中はそれぞれに何か勤めをしていて、鏡写しといってもいつでも似た行動をしているわけでもなかった。あなたや太助さんも、仕事などに出かけて行って、普段はどちらかというと一人の方が多い。大体、街に行くひとも電車にのっているひとも、なにか用事であるいている人も、一人の方が分かりやすいだろう。いつも集団に混じれるようなオープンな風情の人もいれば、私は人と簡単には交わらないという雰囲気の人もいるし、耳にレシーバーをあてて、何かと通信しながら歩いている人もいる。自分と一人で話しているということもある。そうした一人の人のあり方というのが、素直な気もする。

 昼頃の安藤はだいたい、勤め先のビルの、その隣の商業ビルの、エレベーターにひとりで乗っていた。安藤というのは、どちらかというと男性で、小柄な方だった。丸メガネをかけて、日々文庫本などを読んで過ごしている。文庫本は古本屋の店頭に並んだ百円均一のものに限るというルールを自分に課している。

 かれがいるその施設は、街中だというのに、極端に人けがない。決まりきったお店ばかりが並んでいて、みんな集まろうとしないのだ。お店同士で生まれるグルーブ感だったり、何となくいよう、と思わせる空間がない。だから人が少なくて、なにかの休憩をする壮年の人々が、そこに置かれたイスとテーブルに弁当などを開いて、食べたり、昼寝をしたりしている。

 安藤がそのエレベーターに乗ったのは、そこで流れる音楽を聞くのが好きだからだ。何ともいえないフュージョン的な音楽が、えんえんと流れている。シンセサイザーを基調に、サックスのような音、ピアノなどが折り重なって、ゆるやかで瞑想的な音が流れる。フロアボタンの下には、小さなモニターがあって、そこで小さな映像が流れている。深海や、山林など、大きな自然環境を示すようなもの。粗い画質のそれが、ゆっくりゆっくりと動いている。能のような動きでとぶドローンで、その景色を俯瞰しているみたいな案配だ。さらに、ドアの上には横長の電光掲示板があって、日々のニュースや一行の広告を、流している。「・・・・の何某駅で痴漢。・・・・・町では工事の人手を募集中。・・・・」

 職場の休憩時間にそこに過ごしていると、日々とはまた異なる、旅先にふと入ったバーに過ごすような、空間の面白さがある。ふと入ったバーは意外と人なつこくて、バーテンは気安く話してきて、常連のような訳知り顔をした男性が声を発している。そうした得体の知れない場に惹かれて、安藤は時折休憩がてらそのエレベーターを訪れる。ボタンはおさないで、時に、誰かがほかの階でボタンを押したんだろう、しぜんと箱が階上に昇っていく。そうして立っているだけで、新しい出会いがあるというのは、楽だし面白い。


[安藤のひずみ]

 一階にひとり佇んでいると、人が乗ってきて、安藤にけげんな顔をしたりしている。彼はここに、この空間を感じるためにいるわけだから、その持ち場は崩したくないから、極力コミュニケーションはとらない。「あ、ぼーっとしておりまして、すみません」といった雰囲気をだして、やり過ごすようにしている。流れている音楽の力も手伝って、気まずさはすぐに緩和される。ものの本によるとエレベーターミュージックは、退屈を紛らわせたり、他人同士が感じるストレスなどを安らげる効果もあるという。だとすると、ここの選曲は大したセンスなんじゃないだろうか。とはいえ、たいていの人は乗り込むと彼の顔も見ずにそそくさと階を示すボタンに向き合い、「閉」というボタンをポチポチと押してそのまま階への道のりを過ごす。そんなボタンを押す必要もないこと、皆知っているはずなのに、どうしてそうするのだろうか。放っておくと、勝手に閉じて、勝手に別の場所にいくはずなのに、なぜだろう。急がなくていいのじゃないか。しかし、人には色々な役割があって、その次の階にいくために足早にボタンを押していくらしい。

 安藤と渡辺は小柄で、あなたと太助さんはどちらかというと大柄な方だ。ですから安藤が入っていても、見た目や佇まいに、圧迫感が少ない。エレベーターに入っていても、「何だ……人か」くらいしか、思われることはなかった。そうした中で、時折「何だ……昼間からボーっとして」とため息交じりに言い捨てる壮年の猛者がいた。そんなときは、ひとりになってから人知れず、歯をむいて、歯の隙間に爪をいれて歯垢をかき出す。その歯垢のついた指先は、どこへいくのだろうかと見ていると、先ほどの人が降りる時に触れるように、一階のボタンに丹念になすりつける。それはあなたは感覚的に受け入れられないのだけど、別にそのこともその情景も知らないわけだから、とくに何かを感じることもなかった。

 けれどそう、安藤の感情がひずんだときに、ふと鏡写しの部屋のことを思った。それは嘘ではなかった。ひずみが共鳴を起こして、あなたの心のどこかが反応していた。想像に過ぎないけれど、半身がもだえているように感じるときがあった。ふと、何ともいえない感情におそわれる。感情というか、感情のきっかけのようなもので。それがいつ動くかは分からないが、そういうことがあると、対岸の彼に何かあったのだと思うことにしている。

 同じエレベーターに乗り過ぎても飽きてしまうから、30分くらいすると渡辺は出ていく。今日はちょうど嫌なこともあったから、そのなすりつけたボタンをそのままにして、ビルをあとにして、また隣の職場へと戻る。職場の同僚がエレベーターに入ってくるようなことは、ないのだろうか。あっても彼は、そのままなのだろう。そのまま、座敷童のようになっている。かれのスマートフォンは、あのエレベーターの周囲でだけあるフリーの電波に自動的に接続される。

 その同じとき、仕事の昼休みに、渡辺も、太助さんもそれぞれ同じタイミングで、部屋の片づけをしていた。二人とも日中は、自宅でできる仕事をしている。出ているものを一度取り入れて、整理して、掃除機などをかけて、また置き直す。植物の配置を変えたり、水をあげたりする。ここでは、特に安藤の感情は効果をもつことはない。対岸では、その配置までまるで鏡写しで相対しているということはなかった。植物の種類も異なっている。

 あなたは何をしているのだろうか。ただ淡々と職場でパソコンをいじって、誰かとやりとりを繰り返している。ときに何か文字を打ち込んだり、新しいものについて、紙に図案を描いて設計したりしている。他の人の都合で時間がずれて、妙な空き時間ができたときは、瞑想的な音楽を流してタバコをすったりしていて、あちらのエレベーターのような時間を短く過ごしている。

 思想とは、スープを煮込んで、見つめていることにも近いかもしれない。ときに塩やスパイスを足したり、バイブスや具材を加えたり、かき回したり、手を動かしていく。動かすうちに、香りがかわっていく。あたたかく、煮込まれていく。セロリの匂いがあなたは好きだ。

 安藤はエレベーター通いを繰り返しているうちに、だんだんと、何かを醸成しているみたいだ。酒だろうか。いや、頭の中の何か、得体の知れない考えを徐々に膨らましているらしい。それは、エレベーターが好きな少年の物語であるらしい。エレベーターが大好きで、色々な型のエレベーターを訪ね歩くが、老成していつしか、同じエレベーターだけを好んで通うようになる。老成したと周りからは見られていたが、実は恋をしていた。恋をしているのは、そのエレベーターに乗ってくる某か、あるいは、エレベーター自体なのか、それともエレベーターにいる時間そのものに恋をしているのか、よく分からなくなっていく。恋って盲目だから。そんな物語らしい。そんな物語を夢想しながら、世界の様々なエレベーターが上下する動画を、たんたんとみていた。これはもう癖のようになっていて、気がつくと時を忘れるほどに見つめ続けている。


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