散歩道|6

[植物との出会い]

 知らぬ間に日々は過ぎる。意味のないことを勝手に繰り返しているのではない。出たり入ったり、繰り返すたびに、景色はすこしずつ新しくなっている。息や、気象なんかもそうだ。世間も色々と、あわただしい。ただ戸を出入りするだけでも、どこか前のときと少しばかり変化している。

「ちょっと今日ここで、多めに光をあててあげていい?」

 ある朝、太助さんはそう聞いた。あなたに言ったのか、それとも手にもった植木鉢にむかって言ったのか分からなかったけど、あなたは「うん」と適当に応える。

 植物について太助さんがここと言ったのは、リビングルームの窓際の真ん中のあたりで、たしかに普段置かれている位置よりも、たっぷりと、しかし程よく、光を浴びせることができるだろう。日当たりは、対岸の部屋よりいいらしい。自分も鉢にはいって浴びたいくらいだ。

 その植木を手に入れたのは、数年前、あなたの地元の駅前通りを歩いていたときだった。えんえん歩いていくと、椰子のような樹が目につきはじめる。まあ椰子のようにばか高い感じではなくて、そこそこに低くて、街にフィットしている。

 話していると太助さんの職場に最近「椰子」と書いて「やこ」とよむ人が入ったという。やしこでも、やすこでもない。その職場は、街中のフードコートのようなところだった。グリップの効いた床で、勢いいさんだ子が前につんのめって転んでしまうから、フードコートだけどハードコートみたいだと太助さんは言って、笑っていた。何が面白いのか分からないけれど、やこはホールで日夜グリップをきかせて、あっちへ運びこっちへ運びと行き来しているのだという。

 歩いていると椰子の木は、馴染んでいるようだけど、どうもよく考えると違和感もある。それは、この通りの木のことだ。これらはもっと熱帯な場に生えているんじゃないだろうか。そのエリアには、どうも、しんとした気配がある。あとで聞くところによると、ある聖地にもその樹はよく生えているらしい。たまに家の角に立っているだけだったのがだんだんと増えていって、15分くらい歩いて小さな川をすぎると、ほとんどの木がそれになっている。

「川だね」

「そうだね、川はいい」

 さらに行くと、何か密集する気配がしている。たぬきの合戦場かと思うくらい、樹々が密集していて、その中空に、何か開けた一角がある。そこでたぬきではなくて15名くらいの男女が集って、ぼそぼそぼそぼそと話している。

「あれは……何だろう」

「知らないよ、聞いてみたら」

「聞いても分からないんじゃないかな」

 太助さんが耳をすまして聞いてみると、彼らは何だかぼそぼそぼそぼそと囁いている。目を合わさずに皆、手元にある小さなリモコンみたいな機械を見つめて、禅問答のように繰り返している。新しいコミュニケーションのかたちなのだろう。撮り鉄みたいなもので、いわゆる現実に興味がないというのだろうか。いや、撮り鉄こそ現実を真っ直ぐに見つめ続けているのだという意見もあるだろう。

 その先にいる人に手をふる練習をする人や、駅のホームで傘をふるみたいに、手だけでゴルフの練習をしている人もいた。あなたは何か、思うところがある。サークルで行き交う小さな声に、身体を横にしてじっと耳をすませて、立ちすくんでいる。

 それは二人が出会って間もない頃の出来事だった。ぼそぼそ言う彼らの姿も、影のように思い出されるが、どうもあなたには、くせになってしまうところがある。濃密なコミュニケーションというか、独り言というか。独り言ってコミュニケーションではないのか? 考えていると妙に落ち着く。

 その町にいった帰りの花屋で、太助さんは樹の苗を気づくと買っていて、今はずいぶん、若木くらいに育ってきている。あなたと太助さんの互いの無意識の部分にふれるものが何らか、あったんだろう。ついでにそれに合わせて多肉植物はどうか? と考えていたようで、いつのまにかキッチンにはサボテンが大量に育っている。

 そのサボテンを眺めながら、二人は夜を過ごす。いつかの思い出話をしたり近況報告をしたり、何かを視聴したりしている。あなたがとくに好きな話は、太助さんが小さい頃に兄たちが僕、僕と自分のことをよぶのを聞いて、自分も僕といっていたけど、幼稚園の様子にあわせてあたし、と自分を言うようになっていたという話。なにか皆がいっせいにオヤツに呼ばれたときに、うれしくてつい「僕も僕も」とかけよっていったら周りがちょっと引いて、恥ずかしくなったそうだ。

 過ごす中でも、頭の中では何かが育まれているのだろう。サボテンだけじゃなく、吊るされている苔玉のようなものや、小さな柳みたいな植木だったり、イモ科の何某か大きな葉っぱをつけるものもいる。そうやって、植物に囲まれて過ごしているから時折、何かに見つめられているような感覚もしている。感覚しているというだけで、実際は、私たちが植物を見ているから、見られていたら楽しいと思っただけなんだろう。でも空気がほどよく浄化されて、私たちは心身が健康になっているんだろうか。

 二人でいる二人というのは、誰にも興味がない。互いが互いを気にしていて、その中で話が完結していく。いつしか一人と一人だったのが、お互いにワンアンドハーフ、1・5人くらいに感じられるときがある。ときに勝手な演劇のようになって、いつか本当かどうか分からないくらいに、没入してしまう。そうやって二人だけの世界が深まっていき、その熱気に息苦しくなって外気をいれたりしている。

 夜にあなたはそうしたことを思い描いている。気づくと太助さんはこたつに入って横になり、寝息をたてている。

[ななめの散歩道]

 対岸の部屋の植物は、渡辺が好きで育てているものだった。もう少し小ぶりな草が主で、盆栽みたいなのもある。たまにハサミで枝振りをととのえて、生える樹木のミニチュアみたいな感じに、小さな樹木を育てていく。あまり上手じゃないからタイミングなどはよく分からず、だんだんと鹿の角みたいに左右に大きく広がってきている。それもそれでかっこいいんじゃないかと感じている。

 そうしてあなたは、散歩をしている。こんどはななめの道を歩いている。縦横が多く組まれているこの町のなかで、珍しくそうした矩形を切って斜めに走っていて、それに合わせて周囲に家などが立っている。斜めのかたちの公園なんかもあって、打ち捨てられたベンチなどが、転がっていて、人が酒を飲んでいる。

 歩くことが何かにつながるというわけじゃない。けれど缶ビールを飲みながら、何かを頭の中で転がしている。冬だった。空気が乾いているからか泡がまろやかでおいしい。

 通り沿いに、いつも眺める部屋がある。一軒家の二階にあるその部屋は、おそらくその階だけを間借りしているような風情で、二人の男女と猫が暮らしている。よく開け放されていて、和室の部屋の鴨居や、窓際におかれたパソコンに向かう男性の姿などがよく見られた。時には数人が寄り集まって酒なんかを飲んでいる。猫は黒猫で、白い靴下をはいてるような文様で、よく窓越しに外を眺めていた。そこの二人と一匹もまた、誰かほかの二人と一匹を感覚しながら暮らしているのだろうか。いや、もう少しオープンで、快活な感じもする。その日は雪も降りそうな張り詰めた空だったけど、すこし開いていて、隙間から、暖色の灯りで照らされた天井や壁なんかが見える。洗濯物が、室内に干してある。そういえばあの部屋は、風呂などはあるのだろうか。一階にでもあるのか。すると間借りではなくて、一軒まるごと借りているのだろうか。

眺めていると、景色の下の方が気になってきた。すると、

 Dive dive dive DIVE

 家の下のブロック塀の低いところに、今度は、4回書いてある。もっと遠くへ潜った方がいいということだろうか。それか、もっと沢山なのか。文字が前と違う場所に描かれていて、さらに増えているのだった。書体もよく見れば、少し異なる。小文字が混じっているのだけど、どうなのだろう。何か複雑な抑揚をつけようとしている。これは何らかの作家的な取組なのだろうか。その練習なのか。この筆跡の歯切れはいいのだけれど、こう大小つけて書くというのは、少し考えてからこうやったんだろう。最後に強調して、ダイブするという動きを印象づけたいのだろうか。素人ではなくて腕におぼえのある人の仕事なのだろうが、どうも面白くない。仕事だ、と何気なく言ったけれど、こういうときの「仕事」とは何なのだろう。属する職業上の職務とかではない。あるいは、金銭の発生するような行為でもないのだろう。

 そのようにしてあなたの思考が横に転がっていく。

 横に転がっていくついでに、そこにある脇道に入ってみる。ここも斜めの道になっている。ここのは小道で、ひと気もせず、何か考えたり、転がしていくのにちょうどいい。学校のようなとても高いネットの壁で区切られた施設と住宅の間を、ずっと細く続いていく。灯りは少なくエキサイティングな気がする。

 ふいに、八子さんのことが頭をよぎる。そう彼とこういう暗い道を一緒に歩いたことがあった。彼への連絡はおざなりになってしまったけれど、どうしているのだろう。Yに教えてもらったアドレスにメールでも出してみようか。

 道の先で、八子さんが何かをやっていてもいいと思った。ずっといくと、かれの居場所のようなところへたどり着く。かれは、その道沿いに何かを話しつづけて、いつしか、そこに住む人たちみんなと交流を持って、何かを生み出そうとしている。こんにちは。こんばんは。と、出る人出る人に向かってそう言っている。庭だったりベランダだったり、ときに窓を開け放してテレビに向かう人であったり、そこにいる猫と遊んでいる人と。ふざけたまねをして、人の過ごすかたちを、外からのぞき見しようとしているのだろうかと感じた。

 あるいは、かれが件の字を書いたんじゃないかと思うふしもあった。かれはしゃれた字を描くのもうまかったし、この国での住所はあなたの近所だったし、そういえばタコの写真もどうも見覚えがある場所のような……妙に親近感のある景色だった。

 そう考えはじめると、考える頭が燃焼していく。この道を通ってかれが歩いているさまを思い浮かべる。ふとそこにメッセージを描こうとしたときの、その手つきや、何ならタコをここにぬらぬらと水をひいて歩かせて、そのままに数日間一緒に過ごして、水を与えず、干物にした残酷なさまも思い浮かぶ。すこし、言い過ぎだろうか。しかしかれには、必要とあらばそんなこともやってしまう、思い詰めたようなところもあった気がする。時折見せる、かげりがあった。

 「こうした道を歩いていて、ふと八子さんのことを思い出しました。たしかこんな道を一緒に歩いたことがあった。もしお時間があれば、お茶かお酒でも一杯どうでしょうか」

 歩いて、そんなメールをひとつ打ってみたが、まだ送っていない。そんな送り方ではまだ足りないと思う。アドレスはYからきいていた。もっと歩くと、何か見えてくる気がしている。それかもう少し、あたたかくなってからだろうか。

 対岸の部屋の渡辺も、実は八子さんの作品に出会ったことがあった。育てている盆栽のような隣に、小さな掌サイズのタヌキの置物がある。裏には何か刻印がされているのだけど、これはあるとき、あなたとは別の場所での八子さんの作品で交換したものだった。そのときは初めは鳥のオブジェだったのが、だんだんとタヌキのかたちに変わっていったらしい。八子さんはタヌキが好きなのだろうか。

 あなたが部屋に帰ると、太助さんはこたつに横になり、寝息をたてている。

[八子との対話]

 八子さんは帰ってきたと思わせておいて、すぐに飛び立っていった。また異なる国の、もう少し街中の一角で、考えごとをしている。あの田舎とは違って、人のエネルギーがガアガアと路上を行き交い、見知らぬ人同士が大声でニュースで見た天気や世の情勢、新しいテレビコマーシャルの話をしている、そんな元気な街だ。かれの過ごしてきた場所は村や、古くからある商店街、露天など静かな場所だったから、戸惑いつつも新しい息吹を吸収しようとしていて。

 かれが考えていることの一端はこうだ。これまで、過ごす日常そのものを考え直そうと試みてきたけれど、それって結局、私小説のような域をなかなか飛び出せない。かといって最小公約数を狙えばいいというものでもない。私がそこにあるのは必然だから。だから、その私の日常自体をずらすことを考えてみよう。それで、そのプロセスを作品として見せるのはどうか。いや、作品にするという考え方もノイジーだ。じゃあどうするか。あの、映像をずっとまわしておいて、思うことをひたすら話して、聞く人は聞いてもらうとか。けれどそれも他力本願でクールじゃない。そう思いながら、街に過ごし、ノートに何かを書き続けている。市場で食べ物を買ってそのまま食べたり、時に調理したり、ぶらぶら散歩したり、気ままにやったりしながら。

「えーっと、何が特別で特別でないかというのもですね、考えてたんだけど、ここに過ごしていると、よく分からなくなってくるんです。ここは、非日常。でも、いつしか日常になるのかな? 日常になったら、いけないのかな」

「はあ」

「たとえば移動するだけでも、楽しいんです。電車なんかでもみんなガアガア話しまくってて。でも考えてみたら大勢で移動するのって、知らない人と間近に、同じ体験をできるわけで、そこで会話が起こらないのも逆におかしいし、そこで話にならない方がむしろ不自然に思えたりするんですよ。そうやって特別な日常が、特別じゃない文字通りの日常になってきていくと、どうなっていくのか。今考えているところです」

 あなたは八子さんのメールをYからきいて連絡をしたところ、ちょうどひましているというから、パソコンごしに会話してみているのだった。画面越しに語る八子さんの目は前よりもいくぶんか落ち着いていて、どこか遠い斜め上くらいの空間を見つめているようだった。魚類めいたその目つきは、ぎょろり、ぎょろりとうろついて、空間にスケッチをするようにゆったりと動き回っている。そこに新しいかたちが生まれていたり、いなかったりしているのだろう。

「ここは……こう、隔てられていて、まだ外に出られないのだけど、街の喧騒はとても感じます。熱気というか、なんだかムンムンしてますよね。それだけでも何かいいなと感じる。やる気がでてきそう。ここにしばらく過ごして、また見える景色が変わってくるんでしょう」

 画面の後ろの方にはぐちゃぐちゃと垂れている電線があって、そこを大きな鳥や、ときには猿などが平気で歩いている。そこに、サッと雨が降る。きりのようにはらはらとしていたのが、気づくと真っ直ぐ線になって雨が落ちている。スクリーンにハサミをいれて通すみたいに、空にそのまま縦線がはいるようにさらさらと、落ちている。自然にスムースに、雨が降るのが慣れているような土地なんだろう。画面越しに話しているのだけど、少し一緒の場所にいるようで、落ち着いた気分になる。見つめ合う、間ができる。あ、そういえばあのななめの道のことを聞きたい。きっと違うだろうけれど、道で見た字のことを話したいとあなたは思う。それと、最近気になっている思想ということについても。「あ、八子さんさ」といった途端に、画面が切れてしまう。電波が悪くなったんだろう。でも、今もなにかをやろうとしているんだなと感じた。下がり気味の眉に、決然たる何かを。そういう顔なだけかもしれないが。

 ところで、その人が過ごす部屋の窓というのは、その人と大体同じサイズをしているらしい。渡辺と安藤の過ごす部屋の窓はだいたい140から160センチくらい。あなたと太助さんが暮らすのは、170から180センチを前後していて割と長身だった。八子さんのいるところは、175センチくらいだった。例の二階にみかける二人暮らしの部屋も、だいたいそれくらい。ちょうど横たわって骨格を伸ばしたところが、窓にはまるように設計されている。また、身体感覚に合う窓のある部屋を意図せずしてあらかじめ選んでいるというふしはある。

 一方で鳩小屋などはそうでもないが、あれは大体彼らの骨格にそって丸くなっている。ふだんなかなか見ないスタイルだけれど、肉体を上下左右から見るのではなく、側面から見て輪切りにしたときに、うまく入り口に入り込むように作られている。そこから首をだして、様子をうかがって、よさそうだったらそのまま飛翔していく。それは、窓というより出入り口なんじゃないかという人もいるけれど、一旦は気にしないで話を進めようと思う。


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