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「近況報告」

ふと、昨年書いた小説をまるごとアップします。
街中のベランダと、いくつかの二人の話です。
いつも何か書いていますから、もし興味ある方いたら
お気軽に連絡もらえたら! 冊子版もあります。
(写真:カバーのartwork & design by genn hiraqui)


1

その先にとびきりの狂気があるぞ、と聞いて、太助さんはベランダで過ごしていた。
 やがて狂気に出会うのでは、と半ばこわく、半ばわくわくしながら。
 かの女がしているのは、そこに出してある折りたたみのイスに座って、本を読んだり、イケアのティーポットにいれたお茶を飲んだり。イスは、ナイロンの生地で、安いのだけど、肘置きもあって深々と座れて、けっこういい。この住居は、ベランダに凝っているのかコンクリートに何かつるりとした塗装がされていて、床がタフだ。だから、ずっといても安定感がある。半年以上過ごしているのだけど、飽きない。
 それで、その先には何があるのだろう。さいきん値上がりしたタバコをすいながら、ぼんやりと考える。
 「狂気といっても、たかが知れているのだろう」そんな声もしているが、聞いていないふりをする。誰が喋っているのだろうか、うん。わたしが喋っているんだろう。気を取り直して、また空を眺めてみる。

その先では、浄悟が狂気について考えていた。
 ほんとうの狂気を見せてやろう。かれはふとそう考えたものの、いざほんとうの狂気となると……、どうしようもない。それは、誰が見ても面白いものではないだろう。訴えられるかもしれない。というか、見る人のことを考える時点で、もういけない。といって、しっかりとしたベランダから、部屋の中へ入ってしまいます。

たとえば雲を見ていても、雲のその先はどうなっているのと、太助さんは思う。昔の人は、その先にもののけがいる。だいだらぼっちがいる。その先に知らない国があると考える。思いが、移動をつくる。
 かんがえようによっては、その先じゃなくて手前も妙だ。このベランダを仕切るツイタテや、ベランダの下の部分……外壁のつづきになっている下のところだって、意外と未知だ。
 ベランダで子が遊ぶ一方で、もしかしたら、壁の下だけで育てられている子もいるだろうし、洗濯物を干している陰で、法にふれるものを陰干ししてもいるだろう。あるいは、バーベキューをしている陰で、だいぶ年輩の大人が赤ちゃんプレイをしているとか、官能的な試み。いけない。幻想的な方向に思いがそれていく。いけないことはないのだけど、わたしの考えたいこととは違う気がする。頭の髪の毛をわしゃっとさわる。そのままくしゃ、くしゃと解きほぐす。結った髪が解け、するりと肩におちていく。すると、頭がすこしすっきりする。
 昨日は茶番みたいなショウをテレビで見たあと、口直しに映画をみて、明け方に寝たところだったから、まだボンヤリする気がする。気がする、というのは、本当にボンヤリしていたらそれがボンヤリしてるか分からないから。
 映画というのは、さいきん凝っているこの国の監督のデビュー作。それはある種の儀礼を、コミカルにショウのように、密度の高いユーモアを織り混ぜて扱ったものだった。テレビの茶番もそうしたショウをしていることには変わりない。けれど密度が全然異なっていた。

雲が、次第に厚くなってくる。小さな羽虫が飛んでくる。鳥も高度を落として、頭上のすぐをいく。
「わ」浄悟は声を出して驚いてしまった。椋鳥とかならいいけれど、小柄なカラスだった。雨でも降るのだろうか。電柱の上のいつものスズメは穏やかに、送電線の合間の巣へとくるりと入る。
 かれの下半身は露出されている。これがかれの日課で、日常と近いところで手頃な非日常をすることで、ある種の興奮を得ている。けれど非日常に慣れてしまったら、それはまた日常になるのだろう。ここは幸いにして最上階で、すぐ近くにはより高い建物がないから、上から不意にのぞかれる不安はない。もちろん下からだと床にさえぎられて見えないし、目かくしも腰のところまである。すこし離れた先の高いベランダから、望遠鏡などで見る人もいるかもしれないが、わざわざのぞき見て文句を言うことはないはずだ。だから安心して露出しながら、道ゆく人や街並み、空などを観察する。時に、視線をさとられないようにサングラスをかけて、近くのベランダをゆっくり眺めたりもする。
 面白いのは特に、向かいのアパートの右手、すこし下にある部屋だ。カーテンをつけていないから、夜でも部屋の中がそれとなく見える。壮年の二人はリビングルームに食器を並べ、食事をする。食事の後は食器を棚に片づけて、そこで本を読んだり、テレビを見たり。二人の会話をしたりしている。かたかたと食器が触れ合う音、ぎしりと床がきしむ音、男のつぶやき、女の世間話。その音は聞こえない。無声映画のように、楽しんでいる。音が聞こえないのがいい。しかし質のいい盗聴器みたいなもので聴き始めたら、私の日常も新しくなるかもしれない。二人は昨日は、遅くまで熱心にテレビに見入っていた。どうもスポーツか何かのイベントのようだった。スポーツというのを、よく聞くけれどそのよさを感じたことは一度もない。
 そう考えるかれの下半身は裸だ。それはスポーツではないのか、スポーツなのか、微妙なところを行き来している。その、身体をむきだしにしている。
 こうしたスタイルは世間にあいいれないし、何かあるとコトだと承知しているが、だから楽しめるのだろう。冬に備えて、コンパクトな火鉢も用意している。炭火でじっくりと暖める本式のもの。気がかりがあるとしたら、同じ階のベランダから姿がのぞくことだろうか。何かのひょうしでちらり、生肌が垣間見えてしまう可能性はある。おそらく上に着たTシャツからのぞく腰の部分だ。しかし、もし見えたとしてもそっと、見なかったふりをするのではなかろうか。つっこまれたとしたら、風呂上がりでたまたまこうなっていたことにしたらいい。やあ、失敬などと言って。
 顔を合わせたこともないし、ここまで会ってこなかったのだから、これからも会わないだろう。そもそもいるかも分からない。ベランダの間のツイタテというのはうすいから、逆にお互い、ふみこえないように気にしてしまうもの。そうじゃないかな。

太助というのは、かの女の両親が、男でも女でもいい名前を考えてつけられた名前だった。それはどうだろうか、他にもゆえんはあるというが。両親は、それぞれ文化的なバックボーンの太いひとたちで、ある種文化的とみなされたりするが、別の角度で見たら、いくつになっても何か精神的なものをこじらせつづける二人ともいえた。今も街中の家で暮らしていて、ときに遊びにいく。ついでに家族構成を言うと兄がひとりいて、兄は山奥でテントサウナをするなどやんちゃをしていたが、数年前に結婚して、子を授かり、丸くなって。最近離婚をしたらしいが、その様子はどうも分からない。メイというか姪はわたしに似ているとよく言われるが本当か。その子の名前はいまパッとでてこない。そうする間に太助さんは、ああ、外の風をいれようと思った。それはどこだろう。買い物があったんだった。
 かの女は半分露出したアパートの階段を降りる。夏なんだな。草木がもう、そうなっている。水気を帯びた土の匂いがそうだ、これまで考えていたことが、そうした実感でうやむやになっていく。
 そうして、スーパーにむかって歩く。家の前の駐車場では、男がタバコをすっている。砂利がしかれた地面の上で、斜め上を眺めながら。いくつかの木造家屋やマンションなどが囲むそこはふだん車はほとんどおらず、ベランダから見ると、みんなの中庭みたいで。男は小柄ながらずんぐりと首が太くて、鼻筋の通ったバシッとした顔立ちをしている、北欧の映画に出てくる人みたいだ。太助さんは、黒い布のマスクをしている。流行り病の時期なものだから、人たちは公共空間ではマスクをするのが無言のうちの慣習になっていた。そういう空気になって、その空気を、マスクごしに呼吸していた。話すときは、マスク越しにそうした空気を振動させるわけで、こもって、伝わりにくいこともある。でも誤って聞こえても、大体なぜか意思は伝わるものだ。見えるのは、お互いの目ばかり。しぜんと、目でコンタクトをするから疲れる。疲れたときは皆、額の生え際あたりに目をやる。あとはマスクの紋様なんかを眺めるので、そのためにキャラクターや凝った紋様、あるいは実際の顔を精巧にプリントしたマスクなども一部の愛好家のなかで流行っていた。
 ずんぐりした男は、タバコをすっているからか、何もつけていない。そんな彼をいぶかる目で一瞬見ていたことに、通り過ぎてから気がつく。体温はどうなのだろうか。咳やくしゃみはしていないか。目つきはどうだろう。うわついたところはないだろうか。そんなかの女の視線を察してか、彼もかの女の方を眺めやった。空中でひととき、視線が交錯する。マスクをしていない彼も、どこか気まずそうに感じられた。
 「そういえば、あそこの奥の部屋」
 彼が立っていた駐車場のその奥に立っている古い寮のような大きな木造家屋の、一階の角部屋が、しばらく前から空き部屋になっている。
「あの部屋、改装されて雰囲気がいいのに、どうして人が入らないんでしょう」
「そうだね、ぼろいけど、光の入り方がいい」
「いくらくらいなのかな、家賃」
 そんな会話をしているうちに、男の鼻が徐々に縦に伸びていく。がっしりとした骨格に、鋭い目つきは相変わらずだが、そこに軟体動物が乗っているように、くにゃりくにゃりと伸びる。どうにもマヌケな雰囲気になってきている。
「あ、鼻……」
 そうしているうちにもどんどん鼻は細く長く伸びていって、タバコを喫う手に垂れる。なんてことないように、男はそれを引きあげ、肩にかける。
「たまに伸びるんだ。どうしてだろうね」
 かの女の歯は緊張をおぼえて震えてカチカチといった。それは初めて話すひととはよくなる癖で、身体が反応をしているんだろう。カチカチという音が何かの言葉かと感じて、男は聞き耳を立てる仕草をした。太助さんは「まぁ、どうも……」と言ったことを曖昧に言いながらその場を離れる。正確にいうと、震えているのは顎で、それによって歯が鳴っていた。カチカチというリズムは男と別れた後も通奏低音みたいに口の中で続いている。突然のことに驚いてしまったのだけど、決していやらしい感じではなかったし、ただ普段の習慣として、しぜんと鼻が伸びたと感じられた。すっ、とまた元に収まる様もしぜんとイメージできる。
 というのは想像で、そういったやりとりを彼としてみたらよかったと、歩きながら思った。そんなひとの物語があった気がしたが、一体それが何なのか、すぐには思い出せない。それか、北欧の伝承にあるかわった生き物みたいな感じもある。だから北欧とわたしは感じたのだろうか。でも、そもそも最初の段階で無視されたらつらい思いをしていたのだろう。

浄悟の方は、ベランダを一度よして、部屋に戻っていた。戻ると、もう下の服はきている。公共性のある場で外気に接していない限り、落ち着かない格好をつづけていても仕方がない。イスにすわって、淡々とパソコンをさわる。その先には、幅広い世界が広がっている。色々な人たちが、どうこうそうこう言っている。出品者たちの呼吸も観察される気がする。かれらの世界は、地下茎のように、足をひろげている。見える言葉と見えない言葉で会話が繰り返されている。かれはそんなことを思いながら、色々な地下茎をたどって、色々なのぞき窓をのぞいては、閉じて、のぞいていく。
 たとえばかれが深く影響をうけた著者のインタビュー、さくっと作れるおつまみのレシピ。気になるものがあると、プリントアウトしたり画像を保存したりしておくけれど、それを後できちんと読んだり、見返すということはほとんどない。ただそうした中で、お気に入りのレビュアーが書いたラーメン店のレビューは折にふれプリントアウトを見返していて、アーカイブにおけるひとつの成功体験になっている。同じ系列のラーメン店を全店制覇し、それでもなお、家の近くのその店舗については行くたびにレビューを残す。どうして残すかというとそれが彼の生活の記録であり、また初めて食べたその麺への鮮やかな驚きを、いつまでも忘れないようにするためだという。そうした前置きを毎回しながら、常に同じ麺類を注文し、豊富に揃う薬味の使い方を毎回変えてはレビューを残す。店への文句や店員へのクレームなどは一切ない。気持ちのいい批評だと、浄悟は感じている。
 かれは何か、インターネット上にものを書く仕事をして生計としている。だからそうした寄り道と仕事とが渾然一体としていて、いつも何をしているのか、自分でもよく分かっていない。時に取材を行なったりすると区切りはつくが、最近はそういうことも少なくて、何か、すでにある情報をまとめてテキストにするようなことをしている。けれど仕事は途切れず、どうにか続いているらしい。


 
 道を行くと人たちの手や足、顔や声が、そこここにのぞく。太助さんはそんな人たちの声に耳をすませてみる。音楽的な一方でまた模型のようでもある。思えばあの鼻の男はいくらか飄然としていて、よかった。
 スーパーに入ると、機械的な音楽に合わせ、どうも血や呼吸のめぐりが、より機械のようにる。つまり異なる種類の狂気が流れている。言い過ぎかもしれない。見方をかえると、明るい音に合わせて、人たちはそれぞれの目的に向かって、愉しげにカゴを持ち歩いている。一次生産物、それを加工したもの、さらに加工して二次生産物、備蓄ができるもの、それで三次生産物、日々の楽しみをつくるもの。あの通り、この通り。それもまた街のかたちを簡潔に地図にしたみたいだった。
 あるいは、ひと自体も街の縮図であったりもする。骨があり血があり、何かが循環している。時に寄り道し、何もないところで佇む。汚れはたまるが時に洗われる。人が出ていったり入ってきたりする。自浄作用が働く。チラシや、お客様の声が書かれた張り紙などを見つめる。そうして生活をつくろうとしている。生活とはどこまでが有機的なものなのか。
 太助さんはそんなことをボヤボヤボヤボヤ考えながら、この世をたしかめるように、カゴをもったり、カートを押したりして、路を行く人々の顔をのぞき見て、顔色、血色、マスクの有無など判断を繰り返している。このひとはどうか。この子はどうだ。それぞれに個性が立っている。オジサンは、じっと豆類の加工食品の棚を見つめている。あの人は、出汁パックを見つめている。子はグミを見つめている。だいたい皆んな行儀よくマスクをしていて、顔がよくわからない。喋っている声も、くぐもってよく聞き取れない。どうも息が詰まる。早くあのベランダへ戻って喫煙したい、わたしは何をしているのだろうか。このマスクというのは、無言のマスクをしているのが普通なんて、どうも不自然だ。疫病といえど、しないのが普通という世の中も、あるはずなのに。
 そうしていてはいけないいつまでも抜け出せなくなるから、セロリ、シメジ、ササミ、セセリ。さ行の肉と野菜をほどよく買って、トマトと豆乳を買う。それを適当に出汁で煮て、スープにするつもり。いつも場所を忘れる卵売り場を見つけるのに一回りしてきたあとも、先のオジサンは同じ棚を見つめている、背の角度は変わらぬまま。たしかに、お揚げにも色々な種類がある。味の染みたもの、そうでないもの、刻まれたもの、味わいの異なるもの。そして値段と油の質。しかし、何もない同じ一角を見つめるのと、そう変わらないのかもしれない。それか、ただただ放心している。15度くらいの角度で、何かはまってはいけないループにはまっているのかもしれない。けれどこう、15分も同じ棚の前でいられるというのは、逆に豊かな精神設計を感じる。その先に、たとえば今夜の夕飯設計。もしくは、その先のよく分からない日々の設計が空中に存在しているのかもしれない。そんな佇まいには、憧れるものがある。ただ彼の目には、どうも光がないようにも、感じられる。でもわたしからそう見えたからといって、楽しんでいないとは限らない。
「フクロは、いりますか」
「いえ、いいですこのフクロがありますから」
「入れましょうか」
「いいんですか、どうも」
「いいえ」
 そうした会話を店員と交わす。メガネをかけて、頭には修道女のような頭巾をかぶっている。もしかしたら修道女なのだろうか。人の持ってきたフクロにわざわざ詰めてくれるというのは、もはや慈愛というか、過剰なサービスなんじゃないか。彼女の後ろにはカートをおしたオバサンがいる。見回すと、ほかの店員も同じ頭巾をかぶっている。制服なんだろう。

その一方で、浄悟はベランダと部屋を出たり入ったりしている。その度に、下を脱いだり履いたりして忙しい。いつもそうだ。何か、抑揚がほしいのに家を出るのは億劫だから、行ったり来たりしている。今度は、小声でうたを歌ってみている。部屋のスピーカーから現代音楽を大きめのボリュームで流している。聞くひとによってそれは単なるノイズになるかもしれない。しかし、その曲を知っているひとからしたら、何か楽しい気分にもなる。人が出す色々な音をサンプリングしたその曲は、見知らぬくにや、行ったことない商店街で流れる音楽のよう、伸びやかで心地よく、それでいて何気ない音だ。うっすらとベース音が響く。その曲に合わせて、かれはなにを歌うのだろう。ふふ、ふ、くぐもった声でほそぼそと口ずさんでみる。言うまでもなく下は裸で、内界が外界と直に触れている。これが、ああ、抑揚のない一日に程よいノイズをもたらして、精神の平衡を保ってくれる。

わたしたちは喧騒から喧騒へとジャンプする。それで街の空気はがくがくと転調していく。ひとしきり買い物を終えて太助さんが戻ってくると、どうも同じ階で音がしている。かの女が好む音楽に似ている。人の声、唇を震わす音、叫び。先のスーパーをもっと騒然とさせたような喧騒をサンプリングして、精妙な律動がしている。ゆるくなったり、刻んだり。ようするに、しぜんなカオスをしている。それが、聞き覚えのあるレコードの音だった。
 マンションの階段をのぼる間にしていた風の音、小鳥の声、洗濯機を回す音、何か炒める音、子どもの遊び声、ベランダに干した布団を叩くような音。風通しのいい音が、その音楽と調和している。どんな音楽なんだ。でも、そのような楽曲であるとしか言い方がない。
 何なのだろう。わたしがこの音楽を流していたわけでもない。近所の人が流している音なのかもしれない。それは、いつかふとジャケットが気になって買った、映画のサントラ。街中の男女を映したモノクロームの写真に、細く洒脱なゴシック体でタイトルが書かれている。
 流しているのはもしや「お隣さん」だろうか。顔を合わせたこともないし、いったい存在しているのかも、知らなかったけれど。太助さんはすこし鼻歌を歌う。部屋のドアを開け、買いもののフクロをキッチンの床に置く。この家は二部屋あって、手前が小さなダイニングキッチンで、奥の部屋はやや広めになっていてそこで過ごしたり、仕事をしたり、寝たりしている。

ほのかな音に浄悟は気づく。遠くの部屋からちらと聞こえた鼻歌が、今流している曲に呼応したように感じた。「たったった、たった……」と伸びやかで透明感のある、女性の声。けれど、気のせいだろう。鼻歌って、何にでも呼応するから。流している曲は70年代、あるマイナーな洋画のサントラにひっそりと使われていた前衛音楽で、誰も気にも留めないものだ。いや、そこに気を留めて愛好するひとたちはたしかにいるのだけれど、身近にはあまりいないと思う。しかしひょっとしたらということはある。それはちょうど、あるシーンで路上を行く主人公の背後で流れている音、それをバックにシーンが切り替わるときに、主人公の妹のような雰囲気の女性がひそやかに鼻歌を口ずさむ。その鼻歌をなぞるように鼻歌がしていたと思った。
 そろそろ、日が陰ってきた。その映画のDVDもあるから、流していようか。それを眺めながら、何かああ、骨でもいれてスープを煮込むのも悪くない。スープ皿にスープをよそって、スプーンで食べる。その映画みたいに、たまにパンを浸して。

太助さんの部屋では、音がかすかに聞こえていたけれど、日が暮れるに合わせ、聞こえなくなった。街は、だんだんと静まってくる。こんなに静かだっただろうか。さっきも音の話はしたけど、わたしが小さい頃などは、延々ともっと車や何かの音がしていた気がする。あと煮炊きの音や、若い家族の声、老人の咳払い、やかましいくらいに。疫病が流行る前は、もっと盛っていた。そんな気がするが、実際のところはどうだったか、忘れてしまった。こうやってベランダに座ることもそう、なかった。すこし座って、日の終わりを眺めてみる。す、す、すん、と口中で口ずさんでみる。歌のつづきだ。風の音がする。木々が揺れる。
 遠くの部屋で灯りがともる。もうすこし先の高いところにある部屋は、いつも2時や3時まで、こうこうと明るい。すこし赤や青の照明なんかも灯っている。そこには、かの女の好きなミュージシャンのK氏が住んでいるんじゃないかと勝手に想像している。ふつうのベランダの三倍くらいの長さで、ゆったりしている。バスタオルなんかが、タオル掛けにかかっている。時折ベランダ越しにひとの影が動く、一人か二人。子のいない夜型の夫婦かなと思う。氏にも、子はいないから。

浄悟も、そのベランダのことは気にしていた。夜中にベランダからのぞく先には、何とか興業の大きな看板があり、右上に目をあげると、そのベランダがあった。真夜中にいつもひそやかに、楽しげだから、ときに双眼鏡をつかってのぞこうと試みるものの、すりガラスがはめ込まれているのか、その姿は見極められなかった。本当に、Kなのだろうか。彼はこの街に住んでいるという噂があったし、その耽美なスタイルを思わせる、絶妙に悪趣味なシルエットのランプがあった。一度無性に気になってそのランプの写真を望遠レンズで撮り、画像処理をしてフォルムを描き出し検索をかけたものの、どんな商品か、どこで手に入るのかとかは分からなかった。


 
 そうして、鍋でスープを作って食べて、夜に過ごしていると、まだもの寂しいから、太助さんは外へ出て、ひとけのない道を歩く。すこし行った先に、よく歩く道がある。街のつくりに対して斜めに通っているから、斜めの道とかの女は呼んでいた。この繁華街を横切って、意外なほど遠くへと続いている。あちらからくるひともいれば、こちらからくるひともいる。歩いていると、いろいろな言葉が行き交う。屋台もよくでていた。ホットドッグやケバブもあればたこ焼き、モツ煮。韓国風のフライドチキン。シーシャを吸う台もあった。葉脈のように連なっていく路地を入り込むと、もっといいものを喫う場所もあるんだろう。あとは、そこに小屋をつくっている住人もいるし、犬や猫もいて、あらゆる生き物が行き来して過ごしている。ねえ、一杯どう、と声をかけられて、かの女は目を合わさずに足早にいき、知り合いのやっている小さなカウンターバーで、リキュールをソーダで割って一杯もらう。カンパリだっただろうか、もう覚えていない。片すみに、うっすら見覚えのある人が二人いるが、どこの誰だったか記憶にない。
「どこかで飲んできたんですか」カウンターごしの知り合いが飲み物を出してくれる。
「いいや、まだ一杯目。今日は一杯だけ」
「めずらしい」
 二杯目を頼むころに、奥の二人の男のことを思い出す。彼らはうぞうぞと映画の話なんかをアップテンポで続けている。最近とあるチャンネルで配信している往年の名画だという。顔見知りではあるが、とくに声をかけたりはしない。ただこう、同じ空気が続いているのを確認しておくだけでもいいんじゃないか。
 半ば露店のようなここからは、道にあるカラオケやクラブの嬌声が聞こえる。愛らしかったり、喧嘩だったり、もつれ合う様もある。かの女は二杯目をゆっくりやりながら、それらを遠くに眺めている。アルコールがまわってやや血のめぐりがよくなってくる感じがする。これくらいがちょうどいい。今また「一杯どう」と言われたら、ついていって飲むだろうか。相手の雰囲気によってはそれもあるかもしれない。見ると今度は、男と女の二人が同じ店の客引きをしている。人通りの減ったここらだから、やる気がなさそうにぼやきながら。ぼそりぼそりと路や空を眺めながら飲んでいると、ベランダの空とはまた異なる味わいがしている。
 ここに、たとえば電気の精みたいな隣客がいて、目にはよく見えないけれど電気が人のかたちをしていて、近ごろの電気の流通事情を聞いたり、暮らしについて話したりする。そうした出会いが一つあってもいいと感じている。二人の酔客は今度は件の疫病の話をしている。大声で知識を確かめあうように。

真夜中に一度、あの高いベランダにひとの気配がすることがあった。そう浄悟は、ベランダで考えている。その奥にはいつものように色のついた灯りがあって、その前を影がゆっくりと動いている。何かがキラリとひらめくようで、K氏が暗視鏡でこちらを観察しているのかもしれなかった。こう、きっとどこかでピントが合っていて、どこかで破調していて。露出しながらうそうそと過ごしている私と、それ以外のベランダで過ごしているひとたちを見ているのは、なかなか、楽しいのじゃないだろうか。こちらが灯りをだしていて、夜であれば、きっと私をありありと望遠できるだろう。
 小さなクモが部屋に入ろうとしている。ゆっくりと光の方に向かっていく。すこし目をはなしたうちに、おや、白い壁の上の方までのぼっている。そのまま壁を伝っていって、天井に棲みついて、巣でも張るんだろうか。それもいい。私もそうなりたい。

「おはよう」そう太助さんは口に出してみる、起きたから。どうも明け方から曇ったり降ったりしていたみたいだけど、うっすらと陽が出てきている。温度が上がって、音圧が高まっていくのを感じる。ドラマチックに言ってみたものの、朝はいつもそんな感じで脈拍の音を感じながら何かカーテンを開いたりインスタントコーヒーや牛乳を飲んだりと忙しい。縦長の部屋の、仕事場にしているところから反対側のほう、今日もまたガラスのサッシを開ける。そうすると、すこし異なる景色が広がっている。天気はぱたぱたと移り変わる。腰かけて一息つく。
 雨がやんだばかりで、あまり洗濯ものは出ていない、まだ朝の涼しい空気も感じられる。いつも子を遊ばせている大きなベランダの家族もまだ出てこない。そもそも、ベランダで過ごす人って意外と少ない。洗濯か、タバコを喫う人か、植物に水をやる人。というのもそんなにいない。どうしたことだろう。
 あ、いけない。イスが濡れていたので、ズボンのお尻が湿ってきた。
 子どもが遠くで遊ぶ声がしている。かの女はズボンを履き替えてきて、イスにバスタオルをしいて座る。そこまでしてベランダに過ごしたいのかという向きもあるが、日課を大切にしようとしている。すこし、本でも読もうか。架空の旅行をいろいろとする本。そのストーリーは、類推から成り立っている。類推のある場所に向かって、類推しながら計画を進めていく。それで彼らは結局、類推の先にあらわれた山へ登ろうとする。しかし、類推って何だろう。

類推とは、アナロジーと呼ばれる。ほんとうのところアナロジーの意味を知らない浄悟も、ベランダに出てきている。今日は天気があやしかったから、外に出ようと思ってなかった。それでも出てくると空は、雲がかぶさって、また雨が降りそうになってきている。遠くの大きめのベランダに、子と母がでてきたところだ。ベランダで遊ぶのだろう。お父さんは出てこない。忙しいのだろうか。その手前では、洗濯物を取り込む人や、わざわざベランダに出てきて、雨をたしかめる人ら。ツイタテごしに、いくつかの動きがばらばらに、連続して行われる。人とツイタテが、点と線のようになってくる。人と人とが、そうやって、細やかな断絶をはさみながら、区切られている。区切られてどこまでも続いている、果てしない頸椎みたいに。
 見ていると雲はどんどん厚ぼったくなってくる。そこに陽が射して、うすく虹が出る。大きく太く、長い半円が。と思うと手元に開いたページに中くらいの雨粒が落ちてくる。1日の始まりはいつも週刊誌だけれど、薄く降りはじめる。文春を閉じて部屋に投げ入れる。それで外を見ていると、斜め左のひと気のないベランダに、ふいと人の影がでてくる。彼は漆黒のマスクをして半身のりだし、洗濯物をすっと取り込む。そのマスクの材質は、何かヌルリとしていて、従来の繊維とは大分ちがうように思われる。もしかしたら黒漆でヒルの皮をコーティングして、ひもをつけて、そのヒルで口元を覆っているのかもしれない。いやはや。彼はそのままカーテンで閉ざされた部屋の中へ。用心深く、空気に用心深くなっているみたいに。病が流行っているらしいが、空気はそこまで強いのだろうか。
 あるいは、プライバシーの観点から彼はマスクをしているのかもしれない。それはある意味正しいけれど、ある意味では間違っている。いずれにしても、観察の対象になってしまう。観察されたとて、何も悪いことは起こらない。むしろ観察してくれとさえ思う。ほんとうは私たちは観察し合って、日々の鬱屈をストレッチしようとしている。

あ、あの人たちは何だろう。太助さんが見つめるすこし先、広めのベランダというかテラスに煙が立っている。よもやバーベキューではないだろうか。ああ、そこだけ何か、お店の一画のような素敵な感じになってきている。あの空間に、幾人かが出たり入ったり。鉄板に肉を囲んで、肉を食い、酒を飲んでいる。白いご飯も垣間見られる。その香りを嗅いでみたいところだけど、距離的に難しい。きっと、いい肉なのだろう。煙が立っている。空を換気扇に、薄曇りのなか彼らは、緑色した缶のビールを手にしている。雨は止んでいる。しかし軒というかテントの屋根だけみたいな日除けがあるから、彼らはあまり気にしていない。
「晴れたね」
「雲が動いてるね」なんてそんなことを言ってるんだろう。
 その集団は、仲良しのような感じで、いつも連れ立って何かをしている、いつかその下を通った時もワイワイとか何かやっていた。誰が何を喋っているのか、よく分からない。学生なのだろうか。彼らは、部屋に戻って何をしているのだろう。

浄悟も、違う角度から、同じベランダに注目していた。部屋の中でグループは、音の消したテレビをただ何を言うでもなく口を半分くらいあいて、見つめていた。ドキュメンタリーでは、40年間好きな女装を続けて、今も楽しく過ごしている一方で、妻とは別れ、今もその妻のことを考えているオジサンがでていた。オジサンというより、オジイサンなのか。彼は昭和の少女マンガのような格好をしながら、下町のオッサンみたいに自らの愉しみを下町のオジサン調にちゃきちゃきと語る。そうして母の墓に「もうすこしで行くから見守ってくださいね。長らくお騒がせしました」と語りかける。道ゆく市井の人たちが何人も、その前を行ったり来たりしている。
 見つめる彼らは、テレビの音量を上げたり、下げたりしている。番組が終わりそうになると、模型のような目をして、「1、2、3、4、5……」って模型のようにリモコンをさわってチャンネルを切り替える。目は開きっぱなし、口も開きっぱなしで、閉じる機能を必要としていないようで、「ウェルネス」などと、もとの文字より大きいルビを読み上げている。そうして彼らはそのままお互いの顔をみないで、関係のない、身近な人間関係の話を始める。そういやタカハシ・ヨシコがさあ。誰だろう。そんなフルネームで呼ぶことってあるのか?
 それはすこし、悪意のある想像だったかもしれない。そんな動きの一方で、もう一つ別の方面で動きがある。向かいの、の低いビルの最上階で、ひとがピアノを弾いたり、音楽をしている。浄悟の知人が前に借りていた部屋なのだけど、さいきんどうも空き家になってて、ろくに管理もされていないから、彼は勝手に入って、スタジオにしているらしい。そこで奏でるピアノの音がしている。淡々と打楽器みたいに、心地いいリズムを刻んでいる。
 その男は浄悟の友人で弾き語りをするミュージシャンで、さいきん、ピアノに凝っている。そこにはピアノが放置されているから、弾いてみたらと、すすめたのだった。こうして過ごしていると、時折彼が弾きにきていて、聞こえてくる。彼は淡々と、頭の中にある音をなぞるようにひいている。ジャズなのだろう。ゆったりとしたグルーヴが、心地いい。
 もちろん、そんな時も浄悟は下半身を露出している。これは単なる癖みたいになってきているが、ふだん外気に触れない内界をさらすのは、空気に対する感覚をやしなう。手近な窓を観察していると、今日もまたかの壮年の夫婦がいい味を醸している。彼のピアノのせいだろうか、男はギターを出してきて、それをつまびいているけれど、音は聞こえてこない。表情を見ていると、すこし照れながらさわっているようで、決して悪い感じじゃない「アハハハ」という妻の嬌声まで聞こえるみたい。頭の中の楽譜をなぞるように、ゆっくりとたしかめながら、一音、一音、弾いている。
 さて、もしお隣が同じ向きで、かの部屋のピアノを聞いていたとしたら、ツイタテをはさんで、浄悟の尻を見つめている格好になる。ないだろうけど、もしそうであっても、ケアには気をつけているから、大丈夫だろう。こうばしい香りなどはしないはずだ。おや、コーヒーの香りがしてきている。これはまたフレッシュな「薫り」というところだろうか。

10

今朝は実は死について考えていた。昨晩、夜型の太助さんは帰ってから映画をみていた。死にかけの映画監督が、妻や愛人、医者や看護婦、仕事仲間を巻き込みながら大きく死んでいく、どちらかというととても明るい話。それを見た直後に、知人のパートナー、つまり一緒に住んでいるひとから急に電話がかかってきた。何回か、居酒屋で一緒になったことがあった。夜中に突然倒れて息をしているのか曖昧で「あ」と思う間もなく救急車を呼び、一緒に乗ろうとしたら件の流行り病のため同行できず、それでどうしよう。「あ、死んだ」って思ったんだけど、息は戻ったみたい。どうしようもないのだけどどうしよう。という電話。あのひともカラリとしていてそれだけ話して切ったけれど。
 だからわたしもいつか、いつの間にかそうなっているんだろう。そんな時、どうしているのか。考えているうちに時間は経って、仕事もあいまいに、何か画面上で始まっている。ボタンを押すだけでいいから、ただ押して、それなりに時間を区切って、稼働する。つまり稼ぐために何か絶え間ない動きを続ける。
 その合間に、太助さんは挽かれた粉でコーヒーをいれて、ベランダに立ちながら、ツイタテのその先、となりのビルあたりで奏でられるその音に耳をすましている。コーヒーはいい。味わいが立体的で、その味をときほぐしているうちに、落ち着くものがある。音は、すこし前から気にしていた。ベランダの先の方からしている、軽快な音色。あれはきっと、セロニアス・モンクが好きな人のピアノだろう。不器用だけれど、呼吸に、弾き方に、佇まいがある。そのあいだも、近所の子の声、車やバイクの音、風の音。そうした音が流れやがて合奏のうたのように聞こえてくる。
 思えばそうゆううたが聞きたいから、ここにいるのかもしれない。ここにいるけど、ここにいないような気分を。一心に求めることで、変わりたいのかも。でも激しくとぶことには躊躇があるから、エクストリームな方へはいかない。だいたいここでうとうと、うたた寝するくらいが気持ちいい。でも、いい飛び方があったら教えてください。そんなところを行き来している。そのうちに、いずれ死ぬのか。
 しかし、このツイタテの先には、どういうひとがいるのだろう。そもそも誰かいるのだろうか。今はしないけれど、昨日の音楽もそうだし、たまに仄かな気配がしている。にわかに、気になってくる。

ここでいうツイタテというのは、仕切り板とよく呼ばれている。これは戦前からだろうか、戦後からだろうか。とにかく、人たちが街に集まって、すみかが集合し、そうした住宅が普及し出した時代に、生まれてきた。人々は簡単に打ち破れる数ミリ厚の板だけで、互いの暮らしを仕切っている。境いめは、あるようだけど、本当はない。
 浄悟はコーヒーの香りと午後の日差しを感じながらビールから飲み始め、日暮れる頃まで、ゆっくりゆっくりと、飲み続けている。ここで開ける缶の本数も、もう何本になるだろう。積み重なる空き缶は、ベランダの一画四分の一くらいの面積を占めている。日にさらされて白けた缶の表面は、味わい深くもなくはない。その隙間ではビールの飲み残しがこぼれて、だんだんと成分が蓄積されていったんだろう、土のようになっている。そこに苔が生えて、最近では長い草も生えてきている。どうしてこんなに育つのだろう、この季節の生命力なのだろうか。不思議に感じながらその草を眺めたり、かたわらに置いた本を読んだりしている。今開いたのは、フランスの最近の作家の、作家というか、学者なのか、貴族なのか。そんな書き手が書いた、夢日記のような小説のような曖昧な本だ。庭を一つのモチーフにしながら、人や植物が行ったり来たりしている。人より植物が主役なのかもしれない。
 なかなか気が入らず、読んだり読まなかったりしていると、
「ちょっと、散歩しようよ。たまには」って、P(ピアノの友人)からテキストで連絡が入っている。すこし眠みがあったし、ちょうどいい。たまには体に風を通さないといけない。

11

 季節に空いた穴に、マルジナリア。太助さんは、日々の余白をさがしている。ああそれで無意識に「お隣さん」をさぐろうとしている。するとどうも気配があるのか、ないのか、わからなくなってくる。その先のピアノのトツトツとした音も、だんだんかすかになっていって、やがて消えた。また静かになったそこで、コーヒーをすする。スマートホンをながめる。そこでは死や生の話が、雑な物言いが、インスタントな喜びが繰り返される。だから極力遠ざけているのだけれど、つい、見てしまう。それは何なのだろうか、新しい気配を感じたいのか。新しいとは何なの。どうなの、何か言ってくれないのか。
「犬や猫の写真が多い。大きい犬を飼いたいなと思うけど、人より大きいようなのは大変だ。でもそんな犬をもって気を調えているヒトもいるし、オンラインの犬・猫をたくさん眺めて癒されるヒトもいる」そう、友達はいつか話していた。
 彼女がベランダを好きになったのは、日々のトーンがこう、以前と変わってからだった。疫病が流行し、外出にためらいが出てきた。だんだんと流行も落ち着いて、その習慣はゆるんだものの、以前とは感じが変わってきている。だいたい外に出なくても暮らしていけると多くの人が感じたため、外で人が集まるという機会が減ってきた。だから予定をテキストやテレパスで決めあって、この時間にここに、とすり合わせて人は集まっていく。遊びの予定を立てるのが好きじゃないかの女としては、段々と外に出るのが億劫になってきた。それでふと洗濯機をまわしながら、ここにイスを置いてはどうかと考えて、以来、愛好している。外なのか内なのか、この中途半端な感じがいいという気がする。
 そうしていつものように、コーヒーをすすりながら空を眺める。気候はいいが何かむなしい。生っぽい風がコーヒーを持つ手をなでていく。このティーセットは、いつだったろうか、近所のさびれた商店街の食器屋さんで買ったものだ。それは、あちらをすこし行った先の斜めの道の、特別洒落ているわけでもないし、人が集まるわけでもない通り。白い陶器の肌に黒猫の絵が不器用に描かれている。黒猫については思い入れはそんなにないが、持ち心地がとてもよく馴染みがいい。

浄悟は部屋をでて階段をくだる。脱いでいた下を履いて、下にいく。するとPがそこにいる。彼は穴の空いたズボンやリュックに色々な布でツギハギをしていて、それは一見するとおしゃれに見えなくもない。
「何してんの、今日は」
「いや、別に……ふだん通りかな。仕事したり、しなかったり」
 Pはどうも最近むなしくなり、ピアノばかり弾いているという。どうしたんだ、むなしい人ばかりで。彼が自転車できているから、そこにある自転車を出す。ときに盛り場にいくのは面白い気がする。人の顔を、さいきん見ていないから。電車でいうと二駅先くらいの街へ、いきたがっているから、一緒に自転車をこぎ出した。こうゆうの久しぶりだな。自転車のかごには、過去のビールが入っていて、それが苔むしている途中だった。きっとベランダにある缶のように残りの液が垂れて、それが何らかの滋養になり、カゴの網目を苔が覆っているんだろう。このまま覆われて、新しい何かになるのかもしれない。私たちは途中の計画をし続けている。

12

今日も日は暮れなずむ。
 太助さんの方ではピアノの音もお隣さんの気配もまったくしない。街の方ではほのかな喧騒がしている。それでかの女はそこにいて、ぬれているサンダルではなく玄関から持ってきたツッカケをはいて、山の本のつづきを開く。誰も知らない山がそこにあるという。チームを組んで、人たちは向かっていこうとする。しかし、計画段階で手間取っている。山がどこにあるか、誰も知らないから。けれども彼らは喧々諤々とやりあって、行くための計画を立てている。何か、精神の力を使って。それはいい。しかし話はなかなかすすまない。たばこに火をつけて、思い切り出すのではなく、ひかえめに喋りながらしぜんと漏れるような感じで、煙をはく。うすく青い煙は空にきえていく。本の中でもそんな感じで皆たばこをすって、床に捨てていて、床は四分の一くらいが吸殻に覆われているという。

Pと浄悟の二人は自転車にのって、声をかけ合う。移動は、思いをつくる。自転車は気持ちがいいけれど、思考には向かない。スピードが速いから、肉体的な動きになってくる。声はだんだん大きく威勢よくなっていく。酔っ払ってるときと一緒だ。喉を震わせて大きな声を出して、それが伝わっていてもいなくても気にしない。
「あの象の像」
「ああ、あの木彫の」いつかPが街角で拾って、浄悟の家に置いていったものだ。
「まだあるのかな」
「家の前に立ってる」
 そうそのかれの建物の下のゴミ置き場のところに、いつでも置かれている。ゴミとして置いたつもりが、建物の一部みたいに見做されて持っていかれてないみたいだ。
 すこし行けば、繁華街となる。けれどどうだろう。いつもならうんざりするほど人だらけの界隈が、まだ日暮れ頃だというのに、ずいぶんすっきりしている。半分以上の店はシャッターをおろし、街灯ばかりが照らす。人はぽつりぽつりと、道端にしゃがんで缶ビールなどを飲んでいる。灯りのある店では、テイクアウトを出している。店頭で店員さんが、お弁当や惣菜などを手売りしている。いかがですか、ウマいですよ、そんな声。あとはぼそぼそぼそぼそとしている。ふりむくと、建物の壁にそってたくさんの瀬戸物のタヌキが、なぜだか亀甲縛りのようにひもに縛られてそこに立っている。目が合う。きみは何、どうしているの。
「私はタヌキ」
 茂った街路樹のしたで、雨にぬれた陶器の肌がうすく光っている。どこか、官能的にも見える。大きめの性器のあの袋の表面が、ぬらぬらとしていて、つい触れたくなってしまう、こう下から撫で上げるように、持ち上げるように。目線はそこにあてたまま、たぬきに話しかけてみる。
「ヘンなところにすんでますね」
「そりゃ失礼だね」
「いや、こんな町中なのに、何か田舎っぽいというか。そんなことが面白いっていうか。そういう意味合いのヘンだったんです」
 そう街路樹がずいぶん茂って、道は古い道で、ここだけ古びたチーズみたいになっていた。ふと、中学生のとき近所の林で、すこしだけ下部を露出してみた日を思い出す。そのときのことをPはたまに話に出すけれど、あまり覚えていない。現場に居合わせたわけではなくて、浄悟がそうしたことを、話したのだろう。たしか、中学生かなにかだった頃、人けのないその林で、秋口の風がすがすがしかった。人通りもなくなった時分に、服の中からすこし出してみる。黄昏時、ロングコートの下。みられるかもしれないという緊張感と、我が身を晒す開放感とが入り混じって、いい時間を味わった。今はよほど、マイルドになったのだな。
「あんたの方がヘンでしょうよ」
「そうかな」
「ようは林の中でアレを出してたって。そこまではギリギリいいとして、クールな感じでふりかえるような話じゃないでしょう」
「快楽にピュアでいたいんだ」
「つまり快楽を振り返るにあたって、そこに背徳感があるからよかったとかそういう話じゃなくて、純粋に混じり気のない快楽そのものについて考えたいと。掘り下げたくもないけど」
「そうかもしれない」
「調子のいいやつだ」

13

太助さんのベランダでは、今度はピアノとは別の場所から、エンジンみたいな音色がしている。洗濯機を廻しているのだろうか。いや壮大に広がるような旋律がしている。ベースの音と、重奏されるエレキギターのビート。これはあれだ、あのバンドだろう。あのバンドはギターを40本くらい並べて、男や女が数人でビートを刻む。それで声をあげて。いつか、そんな自慢のギターを全部盗まれたと聞いたことがあるけれど、その前後の音色の変化は、重層さと軽やかさと、お互いの異なるよさがあった。ひょっとしたらそのバンドと洗濯機と、両方同時にまわっているのかもしれない。男女の混成の声が、躍動している。そのバックに流れる機械的なビート。何だか、元気をもらえる。音が、上下左右に連なっている空間に穴をあける。ふと目が合う、声をかけ合う、場合によっては、作りすぎた料理をおすそわけしたり、一杯だけ飲み交わしたり。近所づきあいがもっとあってもいいんだろう。けれど人はたんたんと無関心なふりをしている。わたしも、洗濯しようか、そうかの女は考える。

浄悟と一緒に走ってきたPはタヌキには目もくれずに、とろんとした目をしてストローでストロング飲料を吸う。彼もタヌキのようなところがあるが、彼のピアノは、私なんかよりちゃんと、本当の狂気を見つめているように感じられる。なにかをなぞりながら、ひどくうつろなところを見つめている。一定のリズムを刻みながら、どこか遠くに音は歩いていく。それはかたわらにいると、どこかふてぶてしくも投げやりにも感じられる。そういうものなのだろう。
「お前は皆に変だって思われていたよ」という。さっきの、林の話だ。彼はゆっくりゆっくりと、楽しそうになってきている。まだ二本目くらいだけど、久しぶりだからか浄悟も酔いがまわって、口数が増えていく。
「正直な行動だったのだけど、まあ、露悪的なところはあったのかもしれない。子どもだったし」
「だからといって、罪はかわらないだろう」
「なにが罪なのか」
「さあ……」
 でもあれがきっと、遊びの始まりだったのかもしれない。すると今ベランダでやっているのも、遊びの続きだったんだろうか。
 浄悟の方も徐々に、楽しくなっていく。見ていると、奥まった一画に、仄かに盛り上がっている店がある。けたたましいリズムが遠くから響いている。ブラジル風のサイケな感じで、パーカッションもしている。
「おいあっち、いってみようよ」Pはそちらの方にふらふらと歩いていく。飲みにいくのだろう。通りの路地の奥の方の、小さな店だ。静まっている店が多い中で、こうこうと灯りをともし、道に人がはみでて盛り上がっている。「あ、あ、あ、あ」とドラムのリズムに乗ってるみたいな男女の声もしている。彼は、そのまま戻ってこないんだろう。私はどうしようか、そう考えて、浄悟はもうすこしここで座って、タヌキの目線に目を合わせようとしている。どうやっても、タヌキは虚空を見つめているようで、うまくいかない。あの目は笑っているのか、いないのか、いまいち判然としない。

14

このところどうだろう。洗濯機をまわしながら、太助さんが思うに、人たちは気づかぬままに内向きになっている。出かけたところで、余程じゃないとぶらぶら歩きをする先がないし。人と会うことにも、何だか何かがあって、人たちはよく画面の中で会っている。テキスト化した自分とリアルタイムな声でコミュニケーションをするけれど、どうもどこかが、ちぐはぐだ。音と光のスピードの落差のためなのか。そこに味や共にすごす空気はなく、みんな画面に飽き飽きしている。だからここぞとばかりに、人はあなたの内側を見るようになっている。内側はぎざぎざしていて、意外と見るべきところがある。掘り込んでいくと、たくさんある。
 話は変わるが、この間歩いていると新米らしい壮年男性の辻占いがいて、目が合うと何だか人がよさそうに、にたりと微笑んでいる。飲んだ帰りの人を、そうやって呼び込むんだろう。お客の方も、何だか楽しそうに受け答えしている。人あたりの上手なひとなんだろう。けれどそれって、どうも違うのではないだろうか、うまく言えないけれど。辻占いが膨大に増えたと聞いたが、そうやって指紋のようによく分からないところに入り込むひとも、また多いらしい。指紋というか、何、手相。

浄悟のいる路のあちらとこちらで、知らぬ間にユニゾンがしている。あちらの音楽が共鳴して、こちらの音楽がまた、早くなっていく。ある一時リズムがそろって、えも言われぬグルーヴが生まれる。それを感じているのは私だけなんだろう。それは、斜め上からこの情景を眺める、路上にいたひととはまた別のタヌキの見解だった。そのひとはとなりの路に面した古いビルの屋上にいて、大地を眺めおろしている。大地といったものの、たかだか5階か6階だから、大した大地ではなかった。だけど空が広かった。氏が感じるところによると、太助さんのところと、浄悟が今いるところとで、共鳴がしているらしい。
 浄悟のいるストリートでは、音楽のなかで、人びとがとけていく。そう思えば、そんなサインは、街の中いたるところに散らばっている。あのお店もそう。静かなところと騒がしいところと、繊細なところと荒ぶるところと、いろいろが溶け合っている。様々なサインを旋律を、刻み込んでいく。そうしたサインもまた人みたいで、ひともまた、色々な出来事をかかえている。浄悟はもう随分飲んでいたから、ここで水を飲んでは遠くに喧騒を見る。眠いし、そろそろ行こうかと思いながら、それは帰るのか、店に行くのか。微妙なラインをいっている。このまま寝てしまいそうだな。Pはなかなか出てこないから、きっと店内でふところに入り込んで、いい感じにやっているのだろう。
 変にリアルタイムでそのことを感じて、言葉にする必要はない。あなたが受け取っていることはあなたの中で消化されて、やがてそこを出ていくよ、そうタヌキは考えている。いつしか彼の目線は浄悟の方を見やっている。その思いがいつかとどく。

15

「はい、おはよう」
 また朝がきてそう言って、一日は始まる。35度3分。今日も平熱で、太助さんの熱は低い。一応はかってから、仕事についている。数字はたしかだから。ここのところ、仕事は画面の先で進んでいる。ときにそこで人びととやりとりをする、たんたんと。こうなると人たちは機械のように感じられる。たまにその関係に、穴があいて風通しがよくなる。そう、ふとしたことから始まる長電話、絶え間ない雑談、ときに何か堰が切れたように話しこんでしまう。
 お互いがお互いを、へんに遠慮して気にしあっている。遠慮をカバーするには、距離感を見定めないといけない。けれど画面上では目と目がコミュニケーションをすることが難しい。相手の人を眺めながら、なるべく核心には踏み込もうとしない。急なおふざけなどはしない。でも人はいろいろあるもので、色々なチャンネルの中に、自分のリズムをあてこんで収めている。見方によってはベランダも、そうしたチャンネルの一つなのかもしれないな。というか、わたしって一体何をしているのだろう。こう仕事をして、てきとうに区切りをつけて、ベランダで読書をする。植物を育てる。目に見えない猫ににゃんと呼びかけて、ひざの上でころころさせる。
 そうして仕事の合間に、ここに出てきている。ここに出てくる合間に仕事をしているというときもある。今朝見た夢のことが、ふと頭の後ろの方を流れる。悟り切ったような黒人の男の子がいる。彼は深海のように覚めた目をしていて、何か、たんたんとその道を見つめている。道には不動のオジサンと、誰かがいる。「どうしようか」そうオジサンはひとり呟いている。同じ姿勢をかえない。スーパーで見かけたオジサンでは、ないだろう。彼はけっこう、やんわりとした喋りとは印象の異なるかっちりした見た目をしていて、そうずんぐりとした首筋と、硬い質感の鼻筋をしている。その二人の言葉と目線の雰囲気的な行き交いを、少年は透明な瞳で見つめる。いや、少年以前の、何かちいさな、そう50センチにも満たないくらいのサイズの存在だ。さほど大柄でも小柄でもないかの女の、半分くらいしかない。けれどすっとしたロウソクのようにそこに立ち続けている。何も言わない。けれど全部わかっているようにも見える。何が、わかってるんだろう? そこで景色は立ち消える。
 ああそういえば、件のとびきりの狂気は、どこにあるのか。ピアノの音はほのかにそんな気配がしたけれど、もうやんでしまった。けれどこう、人智をこえる何かではなく、人が弾いているのだなと思わせる素ぶりがある。その先に、たとえば常軌を逸した即興演奏、ありえないほどの静寂、空が割れるような爆音、尋常じゃない低音などがしていたらよりよい狂気に近づくのだろうか。その先で「ああ、音楽が歩いている」といった、これまでに感じたことのない感じ方をするとか。どうだろう。それかもしかしたら、もっと近くにあるのかもしれない。たとえば身体の一端や身体を流れる水分など、えらく身近なところ、このツイタテとか。
 空気は静かなままで。人の声などは遠くにするけれど、風で木がそよぐ音や鳥がねじれる音、何か金属質なドアが開き閉じる音などがしている。それは静けさというフィルターの奥にあるように聞こえる。また誰か、音など出してはいないのだろうか。オールディーズもいい。サザンなどもいい。わたしは何だか、効果音がほしい。音声や映像、あるいはネオン管。それか、いつものテレビの中にあるの。街にはいろいろなサインがあって、人たちの声がしているの。

なら私が音を立てようか、気のきいたレコードでもまわそうか。そう浄悟は感じる。しかしとびきりの狂気はどこへいったのか。かれはそれを見せてやりたいと思っていたけれど、じっさいのところ、そこまで接近してはおらず、すまないと思う。Pにしても、かれは結局その先一歩手前で横にそれて、斜めの道をえんえんと歩いて、どこまでも回り道をしていく。そんな雰囲気がある。それは誰かの住所に向かって歩んでいるのかもしれない。しかし微妙にずれていき、最初はわずかなずれだったのが、目的地に着く頃にはずいぶん遠くへ離れていって、ほとんど異なる番地になっている。だから行き着かず、そのままその歩みが、彼自体になっていくみたいだ。徐々に螺旋状にいわゆる狂気に向かっていくのか、どこにも向かっていないのかは、分からない。ただキザハシへ向かい続ける動物みたいに、どこかへと向かい動いている。キザハシって何か分からないのに言っている。
 でも狂気を探そうと思えば、もしかしたら、手近な階などにあるのかもしれない。たとえば数階下のベランダは、黒い布を全面にしいて、表からまったく見えないようになっている。特に音は聞こえないけれど、そうたまに、子どもがすすり泣くような声などがする。もしかしたら、声をおしころした若い女性かもしれない。あるいは光が苦手な人がそこに閉じこもって、色々なフィルムや音楽を、流し続けている。それは、狂気なのだろうか。ただの、黒い布で丁寧に覆われた部屋というだけかもしれない。その中で、打擲、罵倒、ああ、あるいは、儀式、もしくは、秘戯めいた撮影、度を越した映写。どんな雰囲気なのだろう。

16

その部屋のことは、太助さんも気になっていた。真っ黒く覆われていて、外から見ると、何だと思う? 路上から見上げても、何もわからない。かの女のいる四階の部屋のちょうど二階くらい真下で、ベランダの下の外壁まで布でくるんでいるから、よほど気にしているのだろう。境いめは、グラデーションだ。けれど、外からみると異様だ。
 包む黒い布はテントの生地のようで厚く、すこし艶があって、ときに何かが垂れてくる。水滴かと思うけれど、夜のかけらかもしれない。それとも布の切れ端なのか、何か水着の素材みたいな。ぽたり、と、タールのように、ヨダレのように。他のベランダにさわることはなく、地面にまっすぐ落ちていく。得体は知れない、漆黒の真っ黒いかたまり。ふつうの断片なのかもしれない。それが何なのか、確かめたことはない。かの女はそれをきれいだと思った。行間に消えていく影のようで。
 
 浄悟はあるとき、ふと気になって、その部屋がある階に行ったことがある。一フロアには、広間のところにドアが二つ、左か右か突き当たりにもう一つ。三世帯が居住しているのがスタンダードらしい。だから二階分の階段をくだり、その真ん中の部屋が、あの黒い部屋のはずだと思う。右側は傘立てがあって、左側の奥まった部屋はベビーカーなどで雑然としている。みんな生活する時間がまちまちなのか、なかなか顔を見かけないというのは、自分が言えたことではないけれど。それで真ん中の部屋の前には、不自然なほどに何もない、打ちっぱなしのコンクリートの床が。表札にはYと金釘文字で書いてある。Yなんておかしい。偽名じゃなかろうか。それに、金釘文字と言ったけれど、どう描いたって金釘文字に見えるだろう、Yなんて。

17

果たしてあの中はどうなっているのだろう。太助さんが考えた中で一番まともなのはスタジオだった。あの中で、撮影をする。グリーンバックなどがあり、VRなども収録する。若い女性が踊ったりする。よもや何か、卑猥なものではないだろう。それはむしろ普通で、普通はつまらない。共依存のカップルなどがいても、いいかもしれない。黒い布で包まれた中で、日夜、何かご飯を作って、食べたり。けんかをしたり、仲なおりしたり。その様を後日別な映像と合成して、勿論、人には見せず好きなように楽しむ。あるいは、もしかしたら会員制の鑑賞室で、またとない高価なスピーカーをつかって非常にレアなレコードを回して、マスクをして距離を保った人々がそれを鑑賞する。ときに、感極まって涙する人もいるとか。
 こう適当に考えているけれど、ああ、どうだろう。わたしはいつかそういうところにいたんじゃないかな? そうたしか、7、8年まえ。彼と、彼というのはJといった。Jとはパートナーというか、いわばまあ男女のつきあいをしていて、その何かで、こうした秘処にいた気がする。散々飲んで、わあ、わあ、と声をあげて二人でその場で過ごしていた。ハプバー、とかではない。何か催しが行われていた、小さいけれど熱狂的な。人が所狭しと大勢いて、そんな人が集まっていること、最近はたえてないから思い出せないけど、一歩ゆけば見知った顔が見えて「久しぶり」なんて声をかけ合うような場で、いま思うと人が多すぎてこわい。そう誰かのパーティだったのだろうか、招待客たちが集って、酒を飲んで、バンドが音楽をやってるのを見ていた。知り合いが急に踊り出したりしていて、それを手を叩いて楽しんで見ていた。そうして酒を飲んで遊んでいるのは、楽しかったけれど、それ以外ではどうだったか。どうも調子がいいばかりで暮らしというものがなかった気がする。何にもない日というのが、あまり思い出せない。だからなのかな、二人は長くは続かなかった。
 
 お互いに、次の言葉を読み合うような交信をしている。口を閉ざしているものの、前の会話で出した言葉や、そのあとの余韻、それと手のふりかたとか。このように心が動いたから、次はこう。その次はこう、そう想定しながらやりとりを続ける。そんなコミュニケーションというものも、あるだろう。
 その階のドアの前にやってきた浄悟は、好奇心のおもむくまま部屋のドアにそっと聞き耳を立ててみた。はらはらしながら待っていたけれど、何も物音はしていない。ひとがいる気配もない。そこからぬるりとした瘴気が出てくることもなかったし、不意にドアが開いて誰か顔を出すなんてこともなかった。そのまま5分くらいねばったのか。分からないけど途方もなく長い時間に感じた。けれど何ごともなくて、そのまま戻った。
 またいつものように下半身をだしてベランダにたってみると、上空から何かがぽたりと垂れて、地面に落ちていった。黒くて、ぬるりとした何か。どこか、プラスチックめいた艷がある。VHSの中身を油で煮込んでコンフィにして、それをベランダから投げているような風情だ。その上に階があるとしたら、それは住人にとってかけがえのない行為なのかもしれない。けれど上には階はない。それか、無意識のうちに天から降ってくる食物とか、あるいは飛行機から垂れるタールとかなのだろうか。ところであの黒は、いつか向かいの家にみた洗濯物を取り込むひとの、マスクと同じ黒だった気もする。
 何なのか、いぶかしく感じながらも、またベランダに腰掛け、たまには本をひらく。すこし昔のミステリーだ。それはミステリー然としながら、何ら謎のない話。ただ緊張感のなかで、人々が暮らしている話だった。は、と垂れる水滴に緊張がはしる。キッチンにおかれたナイフがはた、ときらめく。突然、誰かに肩を叩かれる。影が見つめているような感じがする。けれど、特に事件が起こらないままにしめやかに閉じていく短い話。
 読んでいると、黒いものがまた頭に蘇ってくる。あの黒いものは、気にした私に向かって垂れてきたのだろうか。「狂気なんて少なめで、気配があればそれでいい」そう言ってるのかもしれない。こう考えていると、またぬらりぬらりと落ちてくるんじゃないかという気もしてくる。けれど特にそういうことはない。黒い部屋のなかで、いつか過ごしている自分の姿を想像してみる。そこには少なくとも二人は管理担当がいる。もしかしたら家族経営かもしれない。その管理者のもとソファに座っていると、色々な指示がなされる。けれど、その指示は何も分からないし、実行してもしなくても何も言われない。ただ何かモノリスのような矩形があり、そのさまをただ見つめている。コーヒーマシンがあるけれど、コーヒーを一杯入れるのにも緊張感がはしる。きっとうんざりするような、けれど賃金はいいし、居ついたらなかなか億劫で出られないような、場所なのだろう。なんて面倒くさい。

18

 風がふくのは階上につれて強まっていく気がするのは、本当なんだろうか。太助さんはいつか風で洗濯物を落としてしまったが、ちょうどその黒い階あたりで姿を消した。黒くて、ラフなあしらいのすこしついた、ゆるっとした長袖のTシャツ。消えて、地面も探せど近間には落ちてはいない。どこへ引っ掛かったんだろう。見当をつけてそのフロアにいくものの、チャイムを押しても誰も反応しない。階段から身を乗り出して見てみても、見当たらない。そう、大事にしている服ではなかったし、そのままにしている。たしかJと一緒にいる頃に買って、何となくよく着ていて、その頃には部屋着にしていた。そうした洗濯ものが積もり積もって、風雨で、ああした黒々したベランダスタイルになったのかもしれない。なら、落とした服がでてこないのにも納得がいく。
 そんなことを考えていても仕方がないから、すこし風を通そうと、隣町まで散歩がてら歩いて、公園のベンチに座って、飲酒を始めている。まずは缶ビールを。それから缶の、ストロングではないサワー類。近くでは、行き交う様々な男女がいる。二人連れで、一人連れで、ときに大きい犬などを連れて、過ごしている。あの黒い部屋はいつも外へ行く途中に目にする。降りる途中にちらっと見えるのと、道に面しているから、通りからも見える。目に馴染んで、いつも素通りしていた。きっとそこを通る誰の目にも慣れているのだろう。けれど、よく考えると妙だ。
 そこから滴れる黒みがぽたぽたしているから「狂気なんて少なめでいい」なんて言うのは「夢は小さくていい」というのと同じじゃない? そんな気がする。けれどわたしは何を求めているんだろう。そこにいて楽しかったら、それはそれでいいんじゃないかな。きっと多少の狂気では、今の日々と、そうかわらない。だからそれが積もって、ああしたベランダになっているんだろう。気持ち悪い。
 この公園は、池がいい。大きな池を見ていると、浮島のようなものが風に流されて、みぎに、ひだりに、秒速10センチくらいでゆっくりスライドしている。それは島なのか? 島上には白っぽいススキのようなまっすぐな草、緑色した長い草、青っぽい草。うすいグレー、うすいブルー。色彩は日にさらされて、白っぽく輝くようだ。眼を細めると抽象画のようにも見える。今どきのペインターが、色々な気持ちを込めてゆっくりとこしらえた小さな画面。そう件のJも絵を描いていて、いつかそんな絵を描いていた気がする。今は何か、描いているんだろうか。
 手前の地面では、黒っぽい二羽のカモがしゃがんで塊になっている。片方を、すこし大きな片方が追いかけているように見える。そうした鳥を見て、Jは「一発やらせろって言ってる」と言っていた。野卑である。彼はそのフレーズが気に入ったのか、そのあとイヌを見ても鳩を見ても、二人連れの人たちを見てもそのように言っていた。「一発やらせろって言ってるよ」彼は得意げな子供みたいに、繰り返している。面白くなると、すぐにはまってしまう。大して意味はないんだろう。実際のところは何か考えていたのか? たとえばわたしへのセクシャルなアピールだったのか? そんなことは知らない。その時節はどうも暑苦しかったし、そんな雑な声を聞きたくなかった。輩というのは、2秒に1回はやらせろと思う、そんな俗説も思い出された。奥の方には、昔ながらの連れ込み宿が奥に見えている。葉がさわさわと揺れる。夜にひとりで来ても気持ちいいのだろう。そんなことを考えていた。
 すると、不自然なほど大きな、ぷいぷい言うブザーの音が、携帯電話からしている。
「ぷい、ぷい」という。
「ぷい、ぷい」と、近くのベンチにいる人もそうだ。ブザーが共鳴するように鳴り響いて地震を伝える機械的な声がする。あ、あ地震。そう思うのと同じくらいに、ゆさゆさと地面が揺れている。すこし大きい。みんな、落ち着かなく周囲を見回している。ゆれる、ゆれる、ゆれる。ゆれる、収まる。立っていられないという程ではなかったから、そこまで巨大な規模ではなかったのだろう。

浄悟もああ、ゆれている。建物がゆらゆら揺れて、揺れに合わせて、下半身も右に、左に、ゆっくり、ゆっくりと、3度ほど揺れた。いや失礼。けれどかすかな動きで収まったところをみると、そこまでの大きさではなかったみたいだ。近間の人々の窓からも、あのブザーが鳴り響くから、緊張が伝わってくる。ぷい、ぷい、とするあの音は、スリッパのかかとでフローリングをこする音ににている。
 遠くで、けたたましいサイレンの音がしている。火事なのだろう。火は見えない。地震で何かがどうかなって、そうなったんだろうか、けれどそれが火なら、もうすこし前から立っていたのだろうな。

19

 Jといた頃も、よく揺れていたんだった。電話がぷいぷい言い出したのも、ちょうどその頃じゃなかっただろうか。そうしてその頃から、手元を見つめて過ごす人が目立つようになった。ぷいぷいと言えば画面をみて、人々の声をチェックする。万事を確かめる。いつしかぷいぷいと言われなくても、手元の画面をみて、合間に手元ではない景色を見るようになっていた。そうして発話をしないから、徐々に内向していく。中には、ぷいぷい言うのをかわいいと思って、ペットのように電話を愛でる人もいた。太助さんはそんな街の様子に何ともいえない不安があって表にでるのがこわく、どうしよう、こうしようと部屋のなかで歩き回っていた。
 そんなときJと、自転車にのってすこし遠出をした。走っている間も時折ぷいぷい言うけれど、走っているから、全然気づかない。Jがななめ前を、慣れない地図を見ながら走っていく。今とおなじ五月晴れに、すこしずつ気が晴れていった。それで、太助さんが好きな画家の作品を見に、街外れの喫茶店へ行った。そこは、その画家の絵をたくさん飾っていることでひそかにファンがいて、かの女はその画のなんとも言えない空気感にほだされていた。太助さんは、絵が好きだった。特にこの画家のような余白があって静かで、どことなく浮遊感のあるものが。「いいじゃない」そう彼もいいながら眺めては、ビールの中瓶を飲んでいた。何か、すでにある自然や景色を、こうパズルのピースを動かすように組み合わせた、不思議とフラットな作品で。そう、さっき見ていた浮島が動くのに似ている。あれも地震で多少動いたんだろうか。
 そう思い出ばかりしていても仕方ないのだけど、太助さんはそういう気分になっている。公園から戻る途中には、小さな川と、橋があって。そこでは彼が川を眺めていたことを思い出しながら川を眺めてしまう。川は、いい。彼は川の端っこ、流れの淀みに佇んでいる鳥に注目していた。夜だというのになぜそんなニッチなところに気がつくのだろう。一緒に眺めていると鳥は「どうぞ」と言って、やがて飛び立った。彼は鳥がいなくなったそこをしばらく眺めていた。どうぞと言っていたのは、どうぞ眺めてくださいと言ったのだろう。
 そうして川はとうとうと流れる。彼とわたしはすこしその後の川を眺めていたけど、そんなに面白いものでもなかった。
「おれはすこし面白かったよ。ただ川を眺めているふたりというのが、よかった」ずいぶんさっぱりした言い方だった。ほんとうにそんなことを思っているんだろうか。そうした、俯瞰した景色感を面白がることの多いひとだった。斜に構えていて何だこのヤロウと感じることも多かった。
 どうして今日はこう、Jとのことばかり思いがいくのか。黒い部屋の効果やろか。あ、遠くでサイレンの音がしている。この地震と同じくらいのときから音がしていた。火事なのか。

浄悟にはサイレンの音が近づいてくる。何台も消防車がやってくる。あれは近くにくると相当いかつく、路をふさぐ。近所からわらわらと見物が出てくる。家族連れなどもいて、マスクをして、楽しげに道に並んでこちらを見ている。駐車場を挟んだ先の古いアパートの前に、少女とおじいちゃんとお父さん。なんだか昭和みたいだ。空はちょうどきれいな夕暮れをしていて、その朗らかな様にほどよい。見られる側になるのは心外だが、彼らが楽しんでいるのは悪くない。
 というか、こちらを見ているのは、こちらの建物が火元なのだろうか。入り口あたりにどかどかと人々がやってきて、踊り場がかしましい。階段でも大きい音がしている。とっさに、ピアノのPが感極まって放火でもしたのかと思う。そうだったら面白いが、そこまではしないだろう。いや、あまりに唐突だけどそういうこともあるのか。しかし、どうしたらいいのか。こうゆうときは外に出るのかな? でも何も具体的異変はないわけで、ひとまずいつも通りに下を履いて、部屋にもどる。

20

 サイレンの音が高まっている。これは何だろうか。天災なんだろうか。それとも、どちらかというと人災なのか。太助さんが川の、橋をわたって、もうすこしいって、家に戻ってくると、建物の周りに消防車が集まって、消防士や警官などが慌ただしく行き来している。人だかりがしている。黄色いロープが張られて事故現場のように。
 どちらかというと火災だったみたいだ。皆、マスクをして、何だか非日常だという顔をしている。日常か非日常かなんて、もう分かったものじゃない。けれども、火も煙も立っていない。あの黒い部屋だろうか。焼身自殺でもあったのだろうか、そんな声もどこかでしている。それは、言い過ぎかもしれない。
 建物からほとほとと人が出てきている。こんなにいたのか、知らぬ顔ばかりが皆マスクをしていて目を伏せていて顔はよくわからない。長い顎ひげがマスクからはみだして、のぞく人もいる。すこし白髪が混じっている。顎ひげの白髪というのは、あれは何なのだろう。まだ若い人でもけっこう白髪が目立つ。何だかガビガビとして、頭髪と同じ毛ではないのだと感じる。髪の毛よりも太いからああして針金みたいになっていくんだろうか。わざわざ白髪染めをするのも面倒だろう。薬のつけ方もよくわからない。
 そうした人たちが、一定の距離をおいていて、この彼らの隔たりが世帯ごとのまとまりを表現している。だいたいが、一人か二人で暮らしている。時に三人くらいの若い家族もいる。ペットは、いない。
 そうしている間も警官や消防士が行ったり来たり、ホースを伸ばしたり、車を誘導したり、何だか慌ただしいリズムをつくる。散歩している頃の方が落ち着いていたけど、時にはこういうこともあるのだな。黒い部屋のひとも、いるのだろうか。いるのかわからないお隣さんも。

ひとは世界を見て狂い方を調律して、呼吸を調えている。どこまでどれくらいの感じで狂って、でもそこまでは狂わないで、といった度合い。けれども、爆弾が落ちたわけでもないのにそんなに大袈裟に、どうしたのだろう。浄悟は部屋のパソコンで、さいきんやっているゲームの続きをしていた。今風のオンラインのものではなく、むかしやったテレビのロールプレイングゲームを、ダウンロードしたもの。そこには人との繋がりなどは生まれず、ただ、単独の世界が更新されていく。あなた一つの画面で次々と、話が展開していく。人たちはだんだんと強くなり、あなたは一緒に旅をする。気づけば時がゲームの中の時間を基準にして、すぎていく。
 そうしていると、すこし騒がしかったのがだんだんと静まって、いつも通りの静けさになる。ベルが鳴り止む。サイレンが鳴り止む。あの黒い部屋がどうなったというわけでもない。ふるふるとあの黒が震えていたとか、黒いものがたくさん落ちてきたということもない。諸氏が連絡をすませ、引き上げていく。地上は、住人たちでごやごやしている雰囲気がするが、どちらかというと静かで、物々しいのが去ったから、随分しんしんと、暗く静かに感じられる。単に、何かの誤作動かボヤだったみたいだ。
 黒いのはいつものようにひとつぽたり、と落ちてくるくらいで、誰も気にはしていない。表にでていた人たちが、ヤレヤレと階段から戻ってくる。さいきん使われてない彼らの筋肉が、音を立てて軋んでいる。おそらくオトナリサンもいるのだろう。今日は何だか、おさかんだな。

21

 見えない炎の中で、わたしたちは呼吸をしている。それは真っ赤に燃え盛った空気を吸っているわけで、そこにいるとしぜんと、肺が焼けつくような感じがする。体温も上がっていく感じがする。心拍数が上がっている。心臓に炎症が起きている。炎症を休めるために、タバコを喫う。飲酒をする。手仕事をしているひまもない。道端にはストロング飲料の空き缶。
「ねえ、燃えちゃってさぁ」男が電話で話している。レシーバーを耳につけているけれど、ひょっとしたら、虚空の友人に向けて一人で話しているのかもしれない。
 火事というものの、ボヤだけだったみたいで、火の香りはするけれど大したことはない。いや、薫りというのだろうか。それか、スメル。人が久しぶりに道端にでてきて、外気を取り入れた。やってきた救急隊が淡々と帰る。かの女は手にしていたコンビニエンスストアのコーヒーの容れ物を気づけば握りしめすぎて、氷がとけた水が手元にこぼれていた。それくらいだった。
 たしかにそう、今日は色々ある。言葉にはしなかったけれど、太助さんは公園からの戻り道にまた歩きながら缶のチューハイを飲み干して、そのうえでアイスコーヒーを手に持っていた。人だかりを見て、このまま引き返して、飛行機にでも乗って遠くへ行こうかとしたけれど、億劫でよした。曖昧な思考になってきている。
 部屋に戻ってすこし横になって、そのまま夢を見ている。知人のいる劇団のテント芝居をみにいく夢。誰と行ったのだったか、思い出せないけど、友人の誰かと。芝居の装置で、火がでていた。ちろりとした火。それがやけに鮮明だったことを覚えている。あとは、公演の帰り際にちらりと目にした立て看板の字。その合間に歩いていた、真っ暗なひとけのない道。あるいは舞台のそでみたいな道。
 それでまたベランダへ出てきて、遠くの道で車が行き交うのを聞いている。電車の音もごとごとと、どうも遠くの潮騒みたいな感じがする。目をつむっていると、そのまま、大きな空が広がっている感じがする。
 そんな余韻。結局のところ、世界は同じ呼吸を保っている。それは、どこからやってくるのか。絶えぬ潮の満ち引きのように、朝が来て、起きて、働いて、昼が来て、何か食べて、夜になって、寝る。ここから景色を見ていると、そんな行き来は変わらぬように思える。灯のともり方や洗濯機の廻る音、食卓の香り、入浴する雰囲気、ゴミを出す音、スイッチを切って床につく空気。鳥の声、虫の音、曜日と曜日。飽きることなく繰り返されている。それは潮の満ち引きに連動しているのか? 車の流れもそうなのか? どこかでつながるのだろうか。
 けれどもそれは、わたしが過ごす日を投影しているだけなのかもしれない。イマジネーションの家に包まれたままにそこに過ごしていて、ベランダにしゃがんでいる。半屋外で人らは仕切られ、暮らしの断面をかいま見せる。横顔には人のディテールがある。植物の鉢などで整っていることもあるし、居つくうちにたまるものを放置していることもある。
 近くのベランダに、ふと人影が動いた気がした。白い影がふわりとはためく。それは、ただ風に揺れる洗濯ものだった。果たして、そうだろうか?

炎は一体どこへ消えたのだろうか。空気の中へ閉ざされていったんだろうか。もっとやって、閉ざされたこの部屋に香りを届けてくれたらよかった。そんなことを考えてはいけないとツイタテの先の人は言うのだろうか。
 人と人は、そうやって区切られていて、区切られているから人になっている。みんなそれぞれのひとつの小さな民族になっている。はみ出したものが、屋外にはみ出していて、ひいたところからその景色を見たら、きっと自然が生み出した抽象的な造形に見える。蜂の巣のような? その中には、言えなかった言葉、出せなかったゴミ、果たせなかった約束、投げやりなメール、乾燥した洗濯物などが蓄積していて、人たちは表に出られていない。置かれるものとして、植物の鉢、干物の網などは素敵だ。タバコの吸い殻やビールの空き缶など、ただ居ついているうちにたまってしまうものもある。そこから出るときも、何か悪いことをかくしているみたいにマスクをつけて、あたりを見回して、ゆっくりと確かめながら歩きはじめる。
 そう浄悟はぼんやりと考えている。

22

だから何だというのだろう、何も言っていない。そう太助さんは思う。わたしはやっぱりただ、モヤモヤを突き破っていくものがほしい。風を切ってその先へ行きたい。そうして部屋の中から、開け放ったベランダの先を眺めていると、何か起きるんじゃないかという気がしてくる。ほら洗濯物だってそうだよと言うふうに、手をふっている。
「あなたはどうしてひとみたいに見えるの」頭の中で言葉を反芻している。たんに、ひとみたいなかたちをしているからだろうか。それかひとのいる景色を見たいから、そうしているだけなのだろう。お店や街頭なんかで、人がわさわさと言っているだけで、不思議と安心するものだ。
「わさわさ」わさわさと言っているように感じられる。
「そう言ってるんだ」
 かの女はふだん幻を見るタイプではないのだけれど、酔いすぎたのか、どうも洗濯物が話している。ゆらりゆらりと、ゆらめきながら、午前2時台の空に舞い、そのまま中空に飛び抜けていきそうなTシャツが。
「話してるんだよ」
「一体どうして」
「いや特に、何も意味はないのだけど。わさわさ」
 
 夜はだんだん、ふくらんでくるようだ。それは脳という国が特定の化学物質を送り込んでいるのだろう。そんな景色のうえに、闇がかぶさっていく。と、呼応するように、今夜もきているPのピアノがだんだんとボリュームを上げていく。近所から何か言われるんじゃなかろうかと浄悟はすこし気に病む。けれど近所のいえはけっこう、繰り返す疫病騒ぎで国に帰ったのか、うるさくない。もともとが多国籍な人が集う街だから、目立つ人もそう目立たない。
 浄悟が家族と住んでいた街は、とても安らかだったけれど、どうも同じみたいな人ばかりで、面白くなかった。それで、ここへ一人住んでいる。ほんとうは、よく過ごしにくる人がいて、一人と半分くらいで住んでいたのだが、いつしか一人で、ベランダで下半身を出している。
 すると、
「ポンポン、ポポポン、スッポンポン 
「ポポポ
 鳩ではなくて、彼のピアノがしている。テンションが高まってきて、夜空に響いている。一度引き払って、部屋に入る。そこからでもすこし聞こえる。それくらいの感じで聞いている。

23

 洗濯物の呼ぶ声のかわりに、かのピアノが呼吸を深くしていくように、だんだんと大きくなってきているのに、太助さんは気づく。ピアノが揺すられて脚が軋む。そのまま夜が軋んでいるみたいだ。闇が深くなってきて、雨もたまさかに降り落ちる。この街は人が減って、前よりも暗い。もともと昼みたいに明るかったのが、今はふつうの街の夜になっていて、青白い街灯のあかりが照らすのがよく目立つ。道行く人の姿も減っている。
 しんしんとする静けさに反比例するように、ボリュームが増す。ガン、ガンと肘で叩きつけるように、速く、速く音を立てて、息を吐く。一人なのだろうか、道ゆく酔客に呼応して、もっとそのまま増えていく気がする。彼はイスのうえに立ち上がり鍵盤を足で弾いて、破壊しそうな勢いで高く嬌声をあげてスキャットしながら、気持ちよさそうに。ドラムやベースの音も呼応するように、どこかから響いているみたいだ。それは、建物の共鳴なのだろうか。何だろう、わたしは何か、知らぬ間に幻覚剤でものんだんだろうか? 体を動かしたくなってくる。ナワトビでもしてみようか。そこに引っ掛けてある、百円均一の店でふと買った縄跳び。持ち手は軽いプラスチックで、小さい頃にもっていたような気がする。それで軽やかに運動などしようと思っていたけれど、ただ引っ掛けてあるままになっている。イケアで買った白い、トレーが3段ある小さなワゴンに。そこは明日使うマスクをかける場所になっている。

ピアノを窓の外に聞きながら、浄悟はもうすこし郊外に住んでみようかと、考えてみる。商店は日暮れとともに閉まる。飲み屋などもやってせいぜい0時か。あとは身近に、山や川がある。週末には無免許運転の車で、そうしたところへ行き、イスにすわって釣りをしたり、川で、ボートに乗って流れる人を眺めたり。あるいは、山あいに湧き出す秘湯などに身をひたして、浮世の垢を流す。流すと思っても、そんなにないから、単に汗をたっぷりかいてスッキリするだけなのだろう。風呂の傍には、クーラーボックスに冷えたビールなどをたっぷり用意して、それを順々に開けながら、気づくといい按配になっている。そうして、家にかえって、結局インターネットなどを見る。画面に疲れると、一旦それを落として、窓外を眺めながら一服し、携帯電話で誰かとやりとりをする。
 ということを考えながら、ピアノはいつしか頭からきえて、今度は配信の映画などを眺め始める。ほどよいところにほどよいものが揃っている。それはもしかしたら、郊外に行っても、そう変わらないのではないだろうか。都合のいいところにいて、そこにこもっているというだけだ。
 しかし郊外へいって何が違うかというと、人が少ないから人の顔が立ってくるというのはあるかもしれない。ひそやかな露出で興奮するということも、あまりないのだろう。人が多いからこそ、いい刺激になる行為だ。
 それか旅にでて、旅先にこもるということもある。ある地域には、旅人のふきだまりがあるときく。大麻などを楽しんで、あとは果物などをたまに食べて、日々過ごしているという。そうゆうところに、もう何年も住みつづけるひともいる。そうなると、自前で集団でも町でも作りそうなものだが、そうはならず、ただただいるだけで、何もしない。それも今と、そう変わらないか。だけど、場が変わるときは面白いだろうな。

ええっと、現実はいつも斜め上から始まる。その通りかもしれない。向かい側の斜め上に過ごすK氏もまたベランダを愛好し、地上の動きや、他の窓辺を観察して、楽しんでいた。半裸の男と、素朴な透明感のある、淡々とした感じの女性の二人が目に見えないやりとりをしているのを眺めていた。ときに裸眼で、ときに望遠レンズで追って、夜には天体愛好家の望遠鏡のふりをして、暗視鏡をのぞいていて、見える時は極力、かれらのその奥の暮らしぶりも見ようとしている。奥行きがあるとまた味わいが変わる。
 上から見る分には、意外と気づかれないものだ。かの二人はどことなく動き方が似ていて、ときおり出てきてはイスに座り、本を開いたり、空を見つめたりしている。二人は、すれちがいながら、お互いのことをなんとなく空気で認知している。そうして抽象的にいうと、日々の真ん中にある空虚な穴を見つめて、そこにはない何かを求めている。何か物足りないから、頭の中でウロウロしているわけだ。僕もかれらと、そう変わらないだろう。年齢だけ、一回りほど先をいっているだけだ。
 眺めながら、ふと、電話でもしようかと思う。さいきん黒い受話器を買った、むかしの固定電話のような。あれで電話をするのは落ち着く。手元や画面をみながらでは落ち着かない。顔が映るとうるさい。
 電話の画面上の数字を1、2、3と押すと、受話器の方もプッシュ音がする。かけると、ワンコールで出てくる、長い友人だ。今どうしているのか、給付金はどうしているのか、マスクは何と言っているのか、隣人の声は聞いているか、忘れてしまった呟きはないか。そうしたことを話している。
「おいおい、生き霊どうしの会話みたいじゃないか」
「生き霊みたいなもんでしょう。あなたも俺も」
 そのうちに、もう一人のプレイヤーであるピアノが音を高めていく。何かスキャット調の叫び声も聞こえてくる。哀しい響きがあって、いい。そう思って、受話器で話をしたままベランダへと出ていく。電話口の声と自分の声と、ベランダの空が混じり合う。ジャン、ジァンと激しいピアノの音がしている。どちらがどちらか分からないだろうね。相手は「道路工事でもしているの」とあどけない。あちらは今、どういう時間なんだろう。

24

太助さんは一息ついて、また飲むのか。ジンをソーダで割っている。そんなふうで、あらためて狂気について考えていると、今ふうの狂気というのは、どのようなものなのだろう。ブルーに全身を塗りたくって、ベランダから跳躍する。それは使い古されたモダンにすぎない。では、地上からベランダへと、逆戻りに跳躍する。それを動画に撮る。それを逆回しに再生して、跳躍しているように見せる。だけど世界は逆回りをしているとか。それは一見狂気じみているように思える。でも、そうゆうヴィジョンはよく流れていないか。むしろ、世界が全て線描でストップモーションをしていて、マンガの景色みたいになっているとか……。安価なドラッグで見えそうなヴィジョンだ。
 けれど作為が感じられる時点でいけない。狂気も、ハードルが高くなっている。どうだろう、むしろ、低くなりすぎて、気にもされていないのかも。昨今、人はかんたんに狂気をたしなむ。だってこの画面に文字が映っていて、音声も流れて、情報を得ているなんて、一昔前から考えたら充分狂っている。手元で映画が電波で見られるというのも、その時点でどうかしている。でも、そうじゃない、狂気を考えるなら手元ではなく全身的な、旬のトビウオみたいに生きのいいやつがいい。そう、あなたの顔を無言で小一時間見つめたあと、無感情に笑っているとか。それとも、たとえばこのツイタテを叩き壊して向こうへ行くとか……、大したことないか。でも実際にそうしてみたら、何かかわるかもしれない。ささやかな前進として。
 何だか日中の仕事のことや、思い返していたJとのことなどが、リールを逆回転するみたいにフィードバックしている。こうゆうときはあれだ。飲んでいるのに、新しい酒を飲みたくなっている。まだ飲むのか。ああ、あの店にでも行こうか。行けばまた見慣れた顔が並んでるのだろう。それもまた、億劫だ。
 
 そういえば前は、どこか過ごす場所が変わるなんて、こわいし、面倒で仕方がなかった。過不足なく落ち着いているというのに、どうしてわざわざ荷物をまとめて遠くへ行くのか。なのに、どうして今は、移り住むのが面白いなんて考えるようになったんだろう。思考にデフォルメがほどこされていないか。こうなったらこう、と経験を重ねた末に、ああ移動するのは結局、楽しいと感じていたものが、いつしか移動とは楽しいと短絡化している。  
 浄悟はそんなことを思いながら、またここだ。ベランダに出てきている。夜も更けて、ピアノの音階はあちらから、こちらへと転調しながら、徐々に落ち着いてきている。そういうチャイムみたいに。今日はここにいてばかりだったけど、いろいろあったような気がするし、そうでもなかったような気もする。ここは普段と異なるはずなのに、だんだんと普段になってきている。そんなことは、ないだろうか。飽き始めているのだろう。そろそろ、新しいドアを開けるときなのかも。それは、何か。今と反対に、上を脱いで下をはくとか。それはむしろ普通で、いいのかもしれない。また空気への触り方が変わってくるのだろうか。

そろそろ、地平のあたりから仄かに明るく、朝陽がでてこようとしている。それはビルなどに遮られていたって、いつどこだって変わらない仕草で。空気の粒がだんだんと光を帯びていく。街灯や門灯、町の灯りは、いつごろ消えるのか。何か決まりはあるんだろうか。朝の陽のなかに白々しく灯っていて、いつの間にかただの光のかたちになっている。そこだけがあの余韻を保っている。彼の部屋にはあまり関係ないのだろうけど、お互いの部屋から見える街灯の色を確認しあって、K氏の電話は終わった。僕のうちのところはどちらかというとブルーで、彼のところは薄い黄色だった。もしかしたら電燈は同じ色をしていて、二人の目の質や考え方によって色の見え方が違うということはあるだろう。
 彼は実は、あの真っ黒い部屋のオーナーをしていて、今日もそこにいるみたいだ。あれだけ閉ざされているから、きっと時間の進み方も独特で昼も夜もなく、灯の見え方だって人力の補正がかかっているのだろう。もしかしたら、全く同じ灯りを見てそう言っているふしもある。
 彼はあの部屋で、始終VRで異なる世界を見たり、チャットをしたり、プラネタリウムを眺めたりしている。物書きの仕事もその中でやっているという。彼が元気なとき、部屋からはポタポタと黒い何かが滴れる。今電話している間なんかは、ぐいぐい滴れていたのだろう。それはその部屋の体液なんだという。というか、黒ずんだ室外機の水とかだろう、おそらく。何かいいことがあったのか、ずいぶん元気だった。世界はもっと広いはずなのに、彼のなかではこの半径四百メートルくらいで全てが完結している、村みたいな感じだ。いや、彼の世界はもっと僕が思うより広いのかもしれない。地下茎めいてどこまでも根をひろげていく。もしかしたら、ぼくたちの方が地下で、彼の方が地上ということもある。
 僕のところの長いべランダには、パートナーの灯す青や赤のライトの光がほのかにはみ出している。それをみてあの二人は何か感じているみたいだ。僕が音楽をやったり、その妻は占星術をしているとか、何だかそういったこと。
 そうして僕は音楽を考えているけれど、あのピアノの音はよかった。ワァという声も、突き抜けるようで。彼の心の色なのだろう。さいきんあまり耳にしない、乾いたブルーズというか。

25

日めくりの暦をめくっていくように、ふたりの日々は過ぎていく。そのうちに浄悟と太助さんは、意図せず二人それぞれ、すこし旅行にでかけていた。何だか言葉にならない圧迫感を感じていて、そこにいつづけるのが虚しく感じられた。だから何日かここを離れて過ごせば、気も晴れるだろうと月並みながらそう考えたらしい。
 浄悟は、すこし離れた街へ、知人が移住したからそこへ遊びにいき、盛り場にでては三日三晩、飲み屋街で酒を飲み続けている。今いるディストピアとくらべたら、どうも快活な印象で、まるで流行り病などないみたいだった。三日目まで常に飲み過ぎ続けていたので、最終的には胃腸が参って水ばかり飲んでいた。
 太助さんは、近間の海の方へ。海では、鶏を育てる家に部屋を借りて、鶏の世話をしながらレコードをきいていた、数日間。その部屋の持ち主のおじいさんは売れない役者をしていたが今は半隠居で、鶏を育ててたまに市場に卸して、あとはこの家をシェアハウスのように貸し出して、何となく暮らしている。海の見える家で、そこにある昔の歌謡曲やジャズのレコードをかけかえる。針を落とす、ゆっくりと回転を始めていく、音がたつ。そこにある空気が、音楽が揺れているのと一緒にゆれていくような感じがする。感じがするというだけで、実際にはそうではないのだろうけれど、そんな錯覚をする。けれど音は必ず、空気を揺らしているのだろう。そこに後ろの方から波の音などがザァとする。鶏がコッ、コッ、と鳴る。そこに耳を立てながら、ブランデーをすする。これはいい過ごし方だと満足感を覚えたけれど、二、三日そうしていると、やはり飽きる。そこでそのまま過ごす自分の姿というのは、どうも想像がつかなくて、心はもう帰り始めていた。無性に、ひとに会いたくなった。それも普段あまり会ってないようなひとと一杯やりたいと感じる。しかしそこにはかの女以外、鶏と海しかいないのだった。
 そうしてどちらも、三日間だった。実際にそとに出てみると、風の通り方や、街の空気が異なる。何か人の立ち方や首の回しかたも、ちがうみたいだった。すこし息が楽になった気がする。けれど、結局吸い慣れた空気を吸いに戻ってしまう。

26

ここから順番がかわって、浄悟の方が先に話すようになる。
 すこし昔の小説に、二階や廊下、お風呂や屋上を別々に借りて、電車にのってお風呂や廊下などを行き来する話があった。お父さんと娘が、そうした想像をして、面白がるというエピソード。ちがったかな。実際に別々の要素を賃貸してみて、行き来して、暮らしてみる話だったかもしれない。
 夜に旅先からかえったかれは、ソファに横になり、その方法をつかって、別のベランダへいってみようと思う。そこは広さ10メートルくらいあるから、庭みたいだ。ベランダというか、テラスという方があてはまる。それか、屋上。くるくると、鳩の声がすこししている。
 その小説を書いた作家は、二つの名前を使い分けていた。浄悟は、自分自身のままで二つの世界を行き来したいと思う。その先のテラスで、あっちへ歩いたり、こっちへ歩いたりしながら、景色を観察している。すこし先のホテルの窓や、その隣のパチンコ屋の屋根、遠くの雑踏などを。広いものだから、見える景色にも抑揚が多い。
 気づくと、あなたもそこにいる。あなたというのは、まだ見ぬオトナリサンのことだ。ツイタテは消えて、あなたは白いソファに腰かけて、いれたてのコーヒーを飲んでいる。顔をあげた。
 「あ」「あどうも」と目が合う。かの女はそのまま何も言わず、視線を斜め上の空間へとスライドさせた。気づくとかれも同じソファに並んで座っているのだけど、目は合わないまま、互いに同じ角度で斜め上を見ている。視点がどこかで交差しているのかは問わない。
 空はうすぐもりだけれど、まだ陽が高い。飲んでいるのは、いつしかグラスに注いだ酒になっている。あなたのは、いつかの続きのジンソーダだろうか。他人のような、身近なような、どこかで会っているような、そうでないような、けれども同じ空気を呼吸している二人でそこにいるのは、馴染み深い時間みたい。浄悟もゆっくりと、口にふくむ。柑橘系の端正で味わいで滋味がある。
 浄悟はもう一口酒を飲もうと手にとって、口に液体を含むと、足にとさりと重みが加わる。温もりが感じられる。あなたの足がそのうえにふわっと投げ出されていて、あなたは目を私の顔に合わせている。ソファの隣から。
 何だか、都合のいい展開だ。ここからどう続くのか訝りながら、浄悟は陽の射す中で座っている。白いソファや木のサイドテーブルは、どこか見慣れた雰囲気がある。年代物で味わい深く、かれが育った家のものと似ていた。そこで太助さんはどこか投げやりに親密そうに、斜め上の彼方の空間を見ている。その先に誰にも知られない部屋があるみたいに。
 人と人はそうやって、会ったり、会わなかったりする。それもまた、グラデーションなのだろう。浄悟はそのとき下をはいていたか、どうだったか。いつも通り露出してた気もするが、夢だからむしろ逆に、はいていたかもしれない。定かではない。けれどゆくゆく、こう広いと落ち着かないところもある。というか、自由すぎて落ち着かない。世間とつながっている感もつよい。

夢のこともきみの下のことも、わたしは知らない。太助さんは同じ夜の中に、空を見ていた。海が残響する気配がする空に、まだちろりと火がある気がする。その火は撮影現場のようにライティングされていて、地上の小さな火から白々しく煙が立っている。どこか嘘っぽい、マッチをすったあとみたいな空気がしている。その下には、また真っ暗な舞台裏の道があって、あの黒い部屋に続いているんじゃないだろうか。その道の表側には、たくさんの、ステージに向いた人らがいて、みんなその舞台の動きに合わせて、うろうろと体を動かしたり上下左右したりしている。それは後ろ姿だからわかるわけであって、前から見たら意外と分からないかもしれない。それに、舞台とお客の境いめだって、グラデーションかもしれない。演じるフリをしている人を、見ているフリをしているだけで。そうだね、このベランダを仕切るツイタテだって、本当はあってないようなもの。そう考えているとだんだんと、ツイタテが薄いものに感じられている。かんたんに踏み越えていけるし、いざやろうと思ったら、トウフのようにくずおれるのだろう。やっぱり、この何ともいえないツイタテを破壊することが、わたしの今後につながるのかもしれない。今後とは、何だろう。
「はい、おはよう」
 あの、先のベランダで、今日はお父さんと子が遊んでいる。ときにお母さんも一緒に。やけに早起きしてしまいそのまま朝になったかの女は、それを何ということもなく、眺めている。

27

浅い眠りを寝過ぎたのだろうか、寝る姿勢が悪かったのか、浄悟は体が痛い。どう痛いかというと、肩のあたりが硬く締まっている気がする。こう、何かゆるめようとしても余白がない感じ。あと、腰の左下のあたりも落ち着かない。内臓が悪いような感じ。余裕を見せるふりをして、足を載せさせすぎたのだろうか。こう、一度その辺りを伸ばそうと思うけれど、そういう気分にもならない。仕方がないから、そのまま窓をあけて、よたよたと外に出ていつものベランダのイスに座る。下はまあ脱いでおく。水もないし酒ももたない。タバコも吸わず、ただ漫然としらふで空をみてみる。曇り空だが、どんよりっていうより、どこか抜けた感じがある。雨の気配はしていない。
 ふと、蒸気で、水気に濡れているような窓のことを思い出す。それはそうして、人を蒸す部屋の窓で、時折そうやってしっとりと水気に満ちていることがある。大抵、その窓を眺めているときは随分と心落ち着いていた。この凝り固まったからだをほぐすためにも、一度訪れたいと感じた。しかしそこにも人は多いのだろう。どうもそれが、億劫だ。人がいることで億劫になる自分が億劫だ。

太助さんは部屋に戻ると、また画面の先で仕事が始まっているらしい。そこにかの女は入り込んでスイッチを入れて「はい、います」と言って仕事を始めておく。いつもの時間、いつもの体温。画面の先にはチームの人たちがいるらしいが、本当にそうなのだろうか。隣の住人がなにをしてるのかも分からないのに、果たして彼らがそう、何かのために前向きな活動をしているなんて、本当だろうか。息づかいが見えないところで、ただうずくまっているばかり。有り体にいえば、前に進む感じがないんだ。そんなことを言っているのは、何か飽きてきたからだろうか。というかどうして皆、やる気なんかだせるんだろう。
 ところでお隣さんは、ふだんは一体何をしているのだろう。何か勤めているのだろうか。あるいはフリーランスなどで稼いでいるんだろうか。そんなことを思いながら、足は冷蔵庫へと向かい、もしものときに蓄えてあるビールを1本、それと棚に入れているポテトチップスを取り出して、何も考えずに飲みはじめている。よく冷えた星印のビールと、あの、ノリシオのポテトだ。これがあればいつでも、頭の中のテニスゲームを始められる。フォアハンドで打ち込んで、バックハンドでダウンザラインをぬく。太助さんは物事をテニスでたとえるのが意外と好きで、そうして頭の中でゲームを組み立てていく。
 お疲れさまです、件の企画どうですか、あの人に発注しようか、さいきんどうしているんだろう、ダメ、全然面白くない。はいているデニムの生地を手のひらでなぞる。深入りのないやりとりが淡々と繰り返されていき、かの女の頭の中では圧倒的なペースでゲームが展開していく。もう5対1でセットポイントくらい。けれど本当は何もしていないから、時間が経っている分だけ負けが越していく気がする。でも本当に、そうだろうか? 勝ち負けなんて、誰が決めるのか。そんな仕組み、人が決めたんじゃないのか。

28

浄悟は何だか手持ち無沙汰に、テレビゲームの続きをする。あまり気がのらないが、これが一番らくで、とりあえずステージを先に進めないと気が済まないから、やっている。ドット絵で描かれるキャラクターたちが言葉を発すると、何だか日常出会うひとよりも、身近に感じられる。そう私は彼らと旅をしている。そうして気づけば数時間。疲れてくると、何をするでもなく、ベランダから世間を観察してみる。今日は老夫婦は、動きはない。まだ寝ているんだろうか、それとも早くから出かけたりしているのか。孫の顔を見に行くとか……。
 都合のいい夢をみると、ひきずってしまう。心はどこかでオトナリサン、に期待しているのではないか。あくせくした気持ちを抑えようと、ここに出てきているのかもしれない。見えない臓器みたいな機械が、我知らず働いているんだろう。そこにはうっすらとした下心もある。というか、下心の方が先なだろう。
 色々あったような気がするが、景色は何も変わらない。いや変化はあって、実は、下をはいている。こうしていると、まっとうな気がして、やはり下腹部ではなくて空を通じて私たちは世間とつながっているのだと思える。物理的に下の方にも、何か意識が脈打っているようにも思える。夢の効用だ。

気づくと太助さんはビールを飲み干して、焼酎を割ったのを立て続けに何杯も飲みながら、きんぴらやほうれん草など、つくりおきの菜をつまんでいた。先ほどの勝ち負けを考えながら、飲んでいる。逆かもしれない。考えながら飲んでいるというより、飲みながら、考えている。初めはライトにマイルドに、けれどもだんだん深みに入っていく。瞑想的な一瞬のあとに、ゆったりと頭が割れて、手近なものへ思いがいく、雑に。どこからどこまでが自分の空間なのか、どこから他人の場なのか、曖昧になってくる。境いめは、グラデーションだ。
 これは昼から酔いに酔っている。いけない、仕事をしているのだから。仕事をしているということに、なっているのだから。どこかでそう感じるものの、いい具合なのだから、とめどない。というか、仕事をするといっていなかったら、このまま酔いどれていても何の支障もないだろう。わたしひとりいてもいなくても、半日くらいは支障のないそんな現場なのだし、あまり考えるのはよそうか。結局日々にうんざりして、ベランダに逃げているわけだ。ここにきてもそうやって世間を考えていることに、うんざりしてしまう。だけど、今日の空はいい。薄曇りで、静かな中で鳥が鳴いていて周囲の生活音がしている。一息ついて、焼酎と絞ったレモンと氷とソーダを同時に飲んで口の中でレモンサワーを楽しみながら、空の空気を身体にいれている。パソコンの画面はしばらく前からスリープして、ぱくぱくしている。

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浄悟はそうやってベランダでもぞもぞしながら、実はまだ夢を反芻している。夢には続きがあって、たしか、こう続く。屋上から屋内にはいるところはドアが並んでいて、ドアをあけるとまたその先にドアがあって、好きなところを進んでいける。その先はそれぞれに異なる道すじがある。道の壁には窓があって、窓には色々なビジョンがある。たとえば美術館の絵。頭を抱えたり、うつろに手を伸ばしていたり、どこか人の無意識のような、狂っていくような様が描かれている。印象的なのは、どうも、川においたボートの上、うずくまったようなひとが顔をのぞかせていて、手を水に向けてさしのべている景色だった。髪の長い女性の空虚な様は笑っているようにも驚いているようにも、あるいは何も感じていないようで、かれはよく覚えていた。人の顔って、どこかそんな虚ろなところがある。そんなふうに感じた。そうした、今風の絵画だけでなく、すこし旧世代のおおらかな、けれど濃密な風景画、何か時間の流れみたいなものを思わせる抽象画、恋愛のメタファーみたいな古典的な人物画もある。絵画ばかりではない。見渡す限りが全て窓で、そのビジョンには写真もあれば、シアターの映像もある。小さなレコードショップでライブをする音楽の集団などもあり、あとは犬、猫、ポルノ。何の変哲もない街頭の景色もあった気がする。何てことはない、文字に書かれたら、そうした様々なのぞき窓を見たということで収まってしまうのだけれど、そこで移ろう無限の入口を見つけた気がした。
 その窓はどれも、ノックすれば、動き出す。そうしてその場に現物があるみたいな臨場感がある。というか実際にそうなのかもしれない。空気が通っている。そうした窓が無数にあって、そこから人それぞれのルートを通っていく。その先でも根が別れていって、いろいろな矩形をした世界を感覚的に選んでうつろう。隅には、小さな検索窓もある。
 回廊をうろついていると、うつむきがちの人たちがいる。みんな立ちながら、窓を眺めて立ちすくみ、そぼそぼと歩いている。その窓の中は、決まって海か近間の公園の池みたいな、水面にみえる。近間の人で何か目を合わせることもなく、それぞれの水面を見つめる。遠くから見るとその様は、同じ水から目をつかって養分をとる植物みたいにも見える。外から見たらかれもそうなのかもしれない。
 と思えばもっと工程を簡単にして、掌の小さな窓の水にみいる人もいる。それは個人的なサイズの水面で、何かの調査のための器具にも見える。本当にただの小さな水槽なのかもしれない、無機質で、硬質で。水の底の方に、私たちをあやつるものがあるかもしれない。それを近くで、見ている。ときに聴覚に直結する器具もあって、外の音は入ってこないみたいだ。
 それか、水の底にはまた無数の窓があって、その先から、その先へと、たどって、たどって、また別の世界を旅することができる。その先はまたどこかで大体繋がっている。同じ道を考える人たちが集まって、時に何かを共有する。ひとつものに対して、みんなで話したがっている。そうして、またうつむきがちの人たちがいて、無数の景色をのぞいている。けれどももう「見る」ということすら気にしなくなっている。繰り返すうちに段々と、テーマは普遍的になっていって、人の大きな源流までさかのぼってしまう。その過程にも色々な物事があったりする。

うん。気つけに、道ばたでジャンプでもしてみようか。太助さんはそこにあったナワトビを手にいつもの階段をくだって、すこし歩く。見上げた空中はつながっている。人たちのベランダも、つながっている。けれど窓は閉ざされたままでカーテンなんかがかかっている。聞き耳を立てていると、窓の中やマスクの中でも、言葉少なに何か言い始めている。みんな画面のなかで、会話のデイトレードをしている、ぼそぼそぼそぼそとみんな。
 かの女はもう顔を覆うアレをしていない。息苦しいし、空はつながっているのに、風は通っていくのに、あれどこで止まっているんだろう。どこに抜けていくのだろう、どこにも抜けていかないんだろう。それで、わたしはどこで跳ぶのが一番いいのだろう。あのオジサンのいた駐車場だろうか。何か精神の窓みたいなところを開け放って、彼や、道々あっている人たちに、快活に接し続ける過ごし方も、あるんじゃないだろうか。そうたとえば、姿の見えないお隣さんや、あの黒い部屋になんかに。上気した頭でそうイメージしている。

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いつものように、色々な暮らしがある窓々を眺めながら、浄悟はそんなことを考えている。この仕切り板を隔てた隣人にすら、興味を持たないで。いやほんとうは持っているのだろう。こんなに同じ空気をシェアしているわけだから。どうしてそこに私の目はいかないのか。ただ「見られないように」と思っているばかりで。本当は見られたいんじゃないだろうか。
 どうにも手持ち無沙汰で、床の灰皿、吸いさしのたばこにカップから水をすこしかける、するとうすく火はけぶって、そのままゆっくりとたばこが倒れる。その先に、最近排水口から特に長く生えてきた草が立っている。日に晒された空き缶の山の奥で、日差しを浴びて真上に伸び始めている。
 緑の色あいを眺めていると、落ち着く。そうしてそのまま、視線をさげていって階下のベランダにかかる樹の様子などを見ていると何だろう。どうも、葉っぱではない何かグレーの塊が揺れる。陰の中だから見えないのだけど、双眼鏡でのぞいてみると、灰色をした何かがあって、ハトみたいだ。枝を組んで巣をこしらえて、すわっている。あれだけ普段おちつかない鳥が、目を見開いてたんたんと、何かをあたためつづけている。何かは、モクモクしている。ひなどりなんだろうか。居どころはたまに風で揺れるけれど、しっかりと樹に絡みついて、安定感がある。いつからそこにいたのだろう。鳥は世事に見向きもしていない。暖められる子と暖める母とそれだけで、充足する機械のようになっているのか、もしかしたら、生き物のようになっているのかもしれない。ずっと見ていると、いつか時間の流れ方が変わってくる。
 とはいえ、今日はどうするんだろう。何か食べ物などを買いに行く必要はある。そうしたら、出ようか、出まいか。出たらどこへ行こうか。誰かに会おうか。会いたいのか。そう考えるものの何だか面倒だ。あるいは、やはりここで下半身を出しておこうか。

「あ、ああ! あ~」
 ある演奏家がやっていた。小さな居酒屋のライブで、音に乗せて、高らかに、さけぬように、ほほえみながら。演奏のクライマックスで、空気は熟し、膨張していた。かき鳴らされるアコースティックギター、氷の入ったグラスが立てる音、何かの物音、イスに立ち上がってスキャットみたいに叫ぶかの女。開ききる口、振り乱す髪。
 それでまたうたに戻る「バンジージャンプ。立ち止まってたら………」
 ジャンプ、ジャンプ……、ジャンプジャンプ。太助さんそんなことを思い出しながら、縄跳びを跳ぶ先を探している。道端か。公園か。あるいは川端か、川自体か。スーパーか。駐車場か。階段か。それかベランダか……狭かろう。酔った頭であくせく戸惑いながらも覚めた視線が自分のなかにあることに空虚な思いをする。いっそ、縄跳びに花火をつけて、柄から火花を出しながら跳ぶとか、楽しいのかもしれない。それで子供は踊る。虫や小さな動物なども踊る。
 そうしていつも狂気のきざはしにふれることはない。ふれると、それはどう表現したらいいのだろう。行為とか、情景とかで表すのか? ああいつまでもわたしの頭の中は、冷めたようなつまらない感じなのだろう。そう太助さんは感じていたのだけど、じつはその周りは、かの女の圧力でガラスはヒビ割れ、アスファルトは数センチへこみ、上空ではカラスがガアガアと騒ぎまわっている。

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空気は徐々にかわいていって、鳩は一心不乱に一点を見つめている。ひなどりをあたためている。それは、いつからいつまで。巣立つまでなのだろうか。時間を鳥は、何も気にしていない。私もそうありたい。そう思うとその下に、がらりとサッシをあけて、まただ。またヒルみたいなマスクを干すひとがいる。黒くて、ぬるりとした。どうしたものだろう。決して悪いものじゃない。けれど、それをどうしたいんだろうか。そんなものを干して、何が楽しいのか。実際してみたら、楽しいのかもしれないな。
 近間の路上でどうも、小さな異変が起きているみたいだ。ふだんからひと気のない通りが、さらにしんとして、カラスが飛び回り、小さな地鳴りがしている。電波障害が発生している。どうしてだろう。誰か異変を起こすようなまねをしているのだろうか。狂気とはほど遠いようでいて、平常な狂気にさらされているそんな町で、誰かが何かを壊そうとしている。そうした異分子にむかって、鳥たちは反応しているみたいだ。いいじゃない、もっとやろうと。グレーと黄色の混じった産毛をしているヒナたちも、体を揺すっている。でもそうやって意識を揺らされるたびに気圧されて、彼が見る景色は、ベランダ横のツイタテくらいしかなくなっていく。
 
 いいや、違う。いつだってふつうでいいんだ。足が離れていても空間には重力というものがあって、その空間にも何かが詰まっているわけで、この星や地上、あるいは世の中とかいうものから、身体を離しているわけではない。だけど気分だけでも、跳んでいる瞬間、一瞬だけ存在していないことになりたい。跳び続けることでいつしか行為に入り込んで、我が身のことすら忘れてひたすらに跳ぶ機械のように、もしくは生き物のように、なるんじゃないだろうか。一瞬だけでいいから。そんな気持ちの中で、頭はもうジャンプを始めている、そう、ここの歩道で跳ぶか。あそこの自販機の前で跳ぶか。あるいは公園のウッドデッキで跳ぶか。考えながら予行演習をしている。
 そんな景色を猫が遠巻きにみていた。乗用車の陰で寝そべっていると、ただならぬ気配がしたから、何だろうといぶかしんで、みている。ああ、きた。あの曲がきたと思う。何か、日々に鬱屈を重ねて、町を徘徊する人が増えていて、かの女もまた、そのひとりなんだろうと察しがついた。
 ええと、とりあえず跳ぶ。跳びたいんだ。そうして太助さんはナワトビをジャンプしている。もういいから、手近な道路で跳んでいる。
「狂気なんて、そもそもない。ただの言葉だから」いつか聞いたような声が、耳元で再生される。意地になって、ヒモが絡まったままスキャットするみたいに跳び続ける。息が切れる。かの女は風を切る。だが二重跳びは急にできるものじゃない。はあ、はあ、と刻むように呼吸をしていつしか、ただジャンプをしている。ただ跳んでいるだけでも、何か気持ちいい。でももう、跳ばなくてもいいんじゃないか。そんな気持ちがせめぎ合いながら、ジャンプを繰り返す。十五センチ、十センチ、五センチ。だんだん飛距離は小さくなって、その分地上から離れている時間も減っていって、いつか、ただ足踏みをするくらいになってしまうから、すこし落ち着く。
 そんな様子を、駐車場のおじさんが見ていた。スーパーの、納豆売り場の家族が見ていた。斜め上のK氏が見ていた。斜め下の老夫婦が見ていた。黒い部屋が見ていた。一軒だけやっている町中の飲み屋が見ていた。路上のタヌキが見ていた。ピアノ弾きが見ていた。火事の出火元の女性が見ていた。鳩のヒナが見ていた。むかしつきあっていた男が見ていた。川にいた鳥が見ていた。年末の川が見ていた。携帯電話が見ていた。ネットニュースが見ていた。
 どこかで感じていただけかもしれない。ある一人の昂りが気象となって大気をゆらし、日々の線にゆれをもたらす。風の方角がほんのわずか変わる。多感なわたしたちはわずかなゆれに反応して、そちらの方面に首をかたむけて、もうすこしわずかに、大リーグの野球人形の顔みたいにゆれる。それが徐々に、世間という渦を巻く。
 お隣さんは、どうなのだろう。

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そう浄悟は、追い詰められたみたいに、ツイタテを見つめている。世の中はいつも、そこしか見るところがないし、考える先がない気がしてしまう。
 ツイタテは細く薄く、有事の際には破ってこえていけるように作られている。やろうと思ったら、いくらでもぬけられる壁。でもその先では何が起きているのか全然分からない壁。壁というか、プラスチックの紙みたいに。机やテーブル、テレビ画面、イスや風呂。日常にある四角はいつも何かが載せられていて、なかなか気づまりにもなる。一方でツイタテはひときわ大きくて、空とつながっている気もするから、どうも広々として清々しい余白とも思える。浄悟には、それを全身で破り抜けてその先にいくパフォーマーの姿がみえる、そうやって道すじを作っていくこともできるのだろう。パフォーマーの顔は何か、清々しい。破れるものを破って突き進むという動きに、人はやる気なんかをもらうのだろう。普段は、破らないし、破らないために平静が保たれている。あなたも気を使って、そこにふれないようにしている。ほんとうはすこし乗り出して手を伸ばせば、相手の内臓に触われるかもしれない。けれど、それもまたエネルギーがいる。

ひとしきりやり切ったあと、やわらかに微笑んで、口の端を一瞬まげて、目を伏せて、ギターを置く。太助さんは、そんな彼女のパフォーマンスを思い出しながら、しずかに、だけど徐々にスピードをあげて風をまいて、顔をおとして淡々と、露出された階段をのぼる。呼吸は早いまま、けれどもすこし朗らかに。そうして何も言わずに自室のドアをあけてそのままそのまま、勢いにのって、ベランダへでて、ツイタテを蹴破る。一発でそれは破れて、本来のフラットな佇まいを失う。勢いは止まず、上半身をかなぐり打って右手、左手、がんがんとリズムカルに叩き続けて、上の方もがんがんとやぶっていく。そうしたらせめてこの世界の別の姿がちらりと見えるんじゃないかと感じている。そんなかの女の様子を、先ほどの皆も聞き耳をたてている。けれど、さほどの緊張感はない。まあそうなるよねぇ、と予想のつく動き方だったから。
 わたしの手は意外とタフで、傷もつくらずどんどんと紙、あ紙ではなかった、ツイタテだったものを破っていって、それはどんどん無用の断片になっていく。つまりテキストとして文脈をもって編まれていたものが、解きほぐされてただの線や点に、なっていく。分解される合間にも、
「狂気はすぐそこにある」「狂気なんてそんなない」そう同時に、声がする。どっちなんだろう。どちらでもあるし、どちらでもないのだろう。狂気という言葉も、どうももう聞き飽きたし、ほんとうのところ、そんなに憧れもない。だって、すぐそこにあるし。とびきりの狂気には興味があるけれど、ただの一つの気の調子なんだろう。平常心なんていうけれど、何が平常なのかなんて、分かったもんじゃない。それを持つわたしには大きな変化なのだろうけれど、そうなってみないと分からないもので、そんなものあるあると言われているばかりなら、期待させるだけ損じゃないの?
 でもとりあえず、アドレナリンがでている感じがする。いや、セロトニン? 理性は、感覚よりもあとにくる。だからその先に、その先にと、手をのばす。返す手が、余剰を持っていく。白い破片や黒いゴミが、我さきにと出ていっている。かの女はそれを掘り続けていて、その先がすぐに目に見えている。気がする。

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どこか天気が激しく変わる前みたいに、落ち着いたような、そうでもないような気分で浄悟はその境界を見つめている、すると、昨晩のピアノの余韻からでてきたみたいに、ガンガンと叩かれる音が聞こえる。うすいプラスチックの板を腕や肘をつかってガンガンとやっているような硬質で、かすかな響きだ。はやる呼吸を感じる一方で、淡々となわとびを飛んでいるような、落ち着いたリズム感もあり、なかなかいいなと感じる。そうゆうパーカッションなのだろうか。だいぶ近くで鳴っているみたい。はじめは大ざっぱな音で、だんだんと細かく刻むように転調して、カンカンカンカン……と、何なのだろう。何かを破壊しているのか。小さく暴れているのか。みんな、どこへ向かっているのだろう。
 
 ひとしきりやって、太助さんの脳波も落ち着いてきた。
 大きくあいた穴に手を伸ばした先は、どうだろう。そこはただのベランダで、何ということもなかった。ベランダには同じように灰色の、コンクリートで敷かれた床があって、白い、ぶつぶつとした壁面があった。開いた先におずおずと体をくぐらせると、ステンレスの柵があり、見おぼえのあるかたちの室外機がおかれている。お隣さんがいた形跡もなにもない。ソファもないし、吸い殻もない。
 狂気とこう口にすると、何かあるような気がするけれど、よく考えると、そんなのは狂ってない人が言うもので、実際に狂った人としては、大して面白くないだろう。どこからどうやって、どれくらいのペースで狂った、と聞いても面白いわけでもない。そうではなくて、たとえば本でいえば五、六百ページ一気に跳躍するくらいに、鮮魚のように埒外なところに飛びたいと思っていた。手はまだ余韻をもって、ぺらぺらになった境界をぽんぽんと刻むように叩いている。
 そうしているとだんだんと、身体の一部が変調を覚える。どうしたのだろうと訝っていると、右手の人差し指が熱を帯びて、第一関節から先が膨張していくようだ。突き指でもしたんだろうか。いいや、痛みはないし、動かないわけでもないし。そう考えている間にもどんどん膨らんでいって、しまいには手のひらと同じくらいのサイズまで、膨らんで、膨らんで、ぷ……という音をだして、ヘソのように開いた穴から中身がでていってしまう。風船から空気がぬけていくみたいに、断片が拡散していく。いやだな、膿みたいなものなんだろうか。何か細菌みたいなものなんだろうか。いいやどうだろう、飛び散っても、指先は特に変化がない、むしろ前よりキメが細かく、つるりとしたような指先が、そこにある。飛び散ったものは、目には見えている。何か青色と肌色の合間……つまり血管とその周りの、半透明な肉片みたいなものが散って……見ているとその断片が、いやだなあ……、ぴくりぴくりと打ち上げられた魚みたいに、空中で動いている。わたしはいよいよ本気で狂ったんだろうか。望むところだと理性が感じる一方で、感覚は非常に嫌悪感をもっているのだけど、あの、その断片がいよいよ本格的に動いて、空中を泳ぐ魚みたいになっている。肌色とブルーの感じは徐々に青魚というか小さなサバみたいに、変化してきた。それが一匹、二匹、三匹、数匹……増えているんじゃないかな。
 サバは周囲からも集まってきて、増えてきたかと思うと、中空に巨大な群れを渦巻き始める。人々の第一関節がふくらんではじけて、それが青魚になっているんだろう。渦巻く魚は陽光をきらきらとミラーボールのように反射して、しかし、照りつくような光線ではなくていかにも鱗の細かい光だからそう目にうるさくはなくて、何か優しい。優しい光が、うろうろと動いて、群れは徐々に移動していく。その間も各所から青魚が集まってきて、どんどんと大きい塊になっていく。遠ざかっている分だけ集まって大きくなっているから、不思議と、サイズが変わらないみたいに見えるけれど、建物との関係からするともうずいぶんな塊になっているらしい。
「ほら、沢山いるぞ、すくいとれ」
 見ていると、それを眺める屋上やベランダ、テラスの人たちも多くいる。みんな自分の指を確かめていたけれど、だんだんとそれに馴染んで、楽しそうにその魚たちのいく先を見つめている。中にはその魚をアミで確保して、グリルで焼くひともいる。それは、ふだん釣りや漁なんかで、魚に慣れている手つきなのだろう。わたしはああしたものをいつ食べたんだろうか。長らくそうやってちゃんと食べていない気がして、とても腹が減ってきた感覚をおぼえる。けれども、ほんとうのところは酒で内臓感覚がよく分からなくなってきていて、ほんとうに空腹なのかは分からない。
 どうしようか。ひとまず部屋に戻って、何か食べるものをとってこようか。けれどもこの中空からは全然目が離せない。かげる陽光のしたで、風をまくようにして、ほらまだ集まってくる。次々に小さな群れが生まれて、あちらの空へ飛んでいく。こんな景色はマンガでしか見たことがない。ふと、魚が生まれた自分の指のにおいを嗅ぐ。生臭いが、何か自分の血潮とまじって、厭ではない。そうどこか懐かしくて、母乳のような感じなのかもしれない。
 そうして匂いと、あれと、これとが相まって、ひとつのビジョンを形づくっていく。サバは段々と遠ざかって、それをあまねく中空のひとたちが眺めている。中には、断片をあやつるコツを得たのか、手遊びのようにして、気の玉のようなものをこねるひともいる。そこからは熟成した感じのサバがこぼれていく。
 そんな内海をよそにして、サバの衆はどんどん遠くへ、大きな渦を巻いて遠ざかっていくし、高度をあげていく。どうしたんだろう。天へ昇っていくのか? そんな安直な……。お隣さんは、お隣さんは見ているんだろうか。ピアノの人は。そんなこと考えているうちに、渦巻く彼らは徐々に徐々に、遠くへ。見えなくなっていく。どこへいくんだろう。けれども去っていくうちに徐々に傷が癒えるような感覚がある。みんな、朗らかな顔をしている。治るときの感覚って、だいたいそうだ。毒がぬけたみたいに、すっきりする。それもこれも、自分の身体が世間と反応してそうなったりこうなったり、しているだけだというのに。
 ……これがこのまま永遠に続くのかと思ったら、大したことない。これくらいで終わった。手にはかの女は茶碗をもっていて、そこに白いご飯かと思ったら、残りわずかになっていたいい日本酒を注いで、ときおり口にふくんでいた。大体わたしはひとつの人であって、本ではないから、ページ数なんてよく分からない。ただの妄想だった。この景色が果てるところなく、終わりのないバッドトリップみたいに続くのも、いい。それは心地よい白日夢で、終わってみると、何だか懐かしくなってくる。懐かしくなってくるというのは、原風景というのか。あるいは原風景というのが懐かしいのか。その人にとって親密なフィーリングということだろうか。安心できるし、狂気の一言もないというか。あるいは、正気とそれは、曖昧なグラデーションだったりもする。いつでも隣にあって触わることができるから、安心感がある。思えば、わたしとあなた、あなたとわたしという区別もそもそも、ナンセンスかもしれない。

34

座ってツイタテを眺めている浄悟の方では、音は徐々におさまっていった。と、気がつくと、ツイタテがゆっくり、かすかに揺れている。風もないのに、ゆらりゆらりと左右に動いている。かれが注意をそちらに向けると、今度は小刻みに動きだす。白い矩形が何かに反応して、そのままゆれている。君には、意志があったのか。すると、今度は前後に大きく揺れている。ミシミシと金具が音を立てる。ハイ、そうです、そうなんです。そう言われている気がしてくる。
 そうしている間にツイタテは上から、コーヒーに入れた砂糖がとけるように、す、すんと消えていく。どんどんと消失していって、速いなぁ。あの一瞬だけ見えた魚たちももう姿が見えないし、私たちを隔てていたペラっとした壁も、もうない。何も言わずにそうしてしまった。壁のその先にあったのは、何てことない、ただかれのいるのと同じ一畳くらいの、コンクリートの矩形。室外機があって、グレーの打ちっぱなしの床があって、ただそれだけだった。人の気配も何もない。
 何だかなあ、フラットで面白くないなあ。そう思ってながめていると、どうもその先に何かあるみたいだ。叩くような音も、そこから出ていたんだろう。そんな気配がしている。

太助さんは、自分のベランダで呆然としている。相変わらず何もなく、ツイタテだったものがぐちゃっとそこにくずおれているだけ。勢いでこぼした氷やレモンサワー、グラスだったガラスの破片、縄跳びの縄なども交じっている。かの女の身辺にくっついていたのが暴れるうちにとれた。
 とりあえずいつものイスに座って空を見てみる。いつも通りの、何てことない空。さて、どうしようか。電話でもしてみようか。それか、たまには人に会いにいく。もしくは、人たちに来てもらってパーティをする。空間に穴をあけて、そこここを行き来する。あるいは、管理会社の電話に喋って、この壁が暴漢に壊された旨をまことしやかにお伝えする……。わたしはこんなに色々と具体的に考えられる人間だっただろうか。面白いかは分からないけど。ふいに、覚めた頭がクリアに回転し始めて、もてあましている。
 あ、コーヒーでもいれようか。たまには豆から挽いてみて。豆はどこかにあった。オブジェと化しているあの器械を棚のあそこから出して。豆をそれにいれて、ごりごりと回していると、だんだんと手応えが一定してくる。粉になり続ける豆を感じていると、だんだんと気分が落ち着いてくる。人って自分の中に、機械を開発している。破調した心持ちに、ごりごりごりごりとひとつのリズムが刻まれていく。そこにあった小さな機械が育って、いいコーヒーをいれる身体になっていく。そんな気がする。廻すリズムに応じて、粉になった豆がはらはらとアレの底に積もっていく。
 挽いた豆をアレに入れて、ベランダへ座って、ヤカンから湯を注いでいると、何か、続く先のベランダで、明確な気配がしている。向こうでも誰か座ってるみたいだ。どうせなら、その先に行ってみようか。しかし、一定のペースで湯をいれていかないといけないので、目と手が離せない。そうしていると、向こうから気配がしている。それがどうもサンダルをぺたぺたと言わせながら、こちらへ向かってくるみたいだ。
 茶をいれている途中に来られても、困る。いれおわって、一息ついてタバコに火をつけるくらいで、ちょうどたどり着いてほしい。茶じゃなくてコーヒーだったが、どちらでもいい。さてどうしようか。そう思う間も君は近づいてくるものだから、仕方ない。一息に湯を注いで、そのままザバザバとコーヒーを入れていく。するとインパクトのある香りが立つ。何か、ちゃんと炒った豆なのにもかかわらず、インスタントみたいな、ひだのない、肌ざわり。
 気配は近づいてくる。その時をいかに平常にむかえるかが、最後のかけひきになっている。何のかけひきなのかはよく分からないし、もうこのまま酒でも飲み続けようかと一瞬でまた立ち戻る気配もする。しかし、室内に取りにいくのも大変だし、ここに注がれたコーヒーの薫りがする。

35

浄悟のところから一つ空虚なベランダをはさんだ先、太助さんはコーヒーカップをもってたたずんでいた。足元には、色々な何かの破片が散らばっているけど、それ以外はきれいに調えられた上品なベランダ。丁寧に過ごしていることが伝わってくる。それを急激に破壊したことも。
 かの女はコーヒーを一口すすって、目を細めて空を見ている。浄悟はずっとかけていたサングラスを外して、歩いていく。下をはいていることを、念のため確かめる。かの女が振り返った先、ふと目が合う。
「あ」
「あ、どうも」
 浄悟はその新しいそちらへ、ベランダを一つまたいで歩いていく。どうしようかなと手持ち無沙汰になりながら、そこにある室外機にすわる。あいていた湯呑みにもう一杯注いでくれた、コーヒーをもらう。軽い苦味。けれど、爽やかにぬける風味がある。
「ベランダなんて、もう面白くないんじゃないですか?」自分の手を眺めながらそうあなたはいう。
「そうですね、ここには僕の考えている出来事しかない」
「とびきりの狂気があるんじゃなかったんですか」
「探したけれどそんなの、どこにあるんでしょう。夢の中とかでもない」
「すぐそばには、なかったですか?」 
「すこしは、あったのかも」



2021年10月の稿
thanks:さいとうけいたさん、
金子由里奈さん、杉本花さん
初出:「めぬけ vol.4」
から改稿を続けている



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