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散歩道|4

 タコがいる。広大な湖面の、その底の方に見え隠れしている。そこに住まいをつくって、岩陰からでたり隠れたり、何かをとって捕食したり、寝たり夢を見たり寝ぼけたりしている。数匹で家族になって、一緒に暮らしたりしている。漁師が仕掛けた蛸壷には、気をつけないといけないのだが、生来の性質から、あのフォルムにはどうしても惹かれてしまう。気づくと軟体の手が数本入り込んで、そのまま、のたりのたりと、身体中がツボの中へ……そうなるといけないから、自意識をツボから遠ざけるように、マインドトレーニングを怠らないようにしている。つまり、ツボを見たら敵と思え。ツボは悪。そこに収まってはいけないし、我々には伸び伸びとした大海があり、もっと居心地のいいスポットで日々憩うことができる。ツボに甘んじるくらいなら、ツボより魅力のある寝床をしつらえるべきだ。

 さて、思想とは、何なのか。明確なかたちがあるのか、分からないけど、軟体の頭のように軸があって、考えはじめると徐々に広がって、軟体の手足が伸びていく。彼らのかたちは、考え方によく似ている。タコは、どうも海から畑にあがってきて、大根をひきぬいて食べたりするらしい。

 八子さんが、随分たって、あの僻地から帰ってきた。ずいぶんと陽にやけて、手にはトランクと、干したタコのようなものをぶらさげている。というか実際に干したタコをぶらさげている。それは現地でお土産にもたされて、においが移るのがいやだったからそのまま手に持っていたという。

 そんな話をあなたは、かれの発信するニュースレターの最後の便で知った。本当のところは、現地から帰ってきて感じる違和感のような諧謔を、自分の身で示したかったんだろう。ニュースレターはかれこれどれくらいやっていたか。はじめは割と定期的にきていて、1年をすぎてからは段々と間遠になり、忘れた頃に送られてきていた。あなたが住所をかえてからは都度転送されて、こないだ着いたのは去年くらいか。藁半紙のような繊維の立った紙に青いインクで刷られていた。その次が今で、八つ折りのパンフレットのようになっていた。最後の方はかすれ気味で、あまり判読できない。

 久しぶりに会いたいなと思って、あなたはその日を過ごしていて、何かにつけ八子さんのことを考えてしまう。ふと本を手に取って、彼とこの本の話をしたいと考える。窓の外を見ても、彼の立ち振る舞いを思い出す。少しモサッとした感じの陽にやけた風貌で、けれども目はやさしく清々しい雰囲気がしている。鏡合わせの部屋でも、安藤が同じ角度で外を見つめて、誰かを思っているのかもしれない。

 あなたは、机の下から電話をとった。それは黒電話の受話器のようなかたちをしていて、スマートフォンのジャックに差し込む。ねじねじとしたコードをひっぱって受話器を耳にあてて、机の上においたスマートフォンで番号を押す。

「1、2、3、4……何番だっただろう」

 八子さんに電話をしてみようと思っている。たしか、歴史の教科書にでてくる年号に似た連番があった気がしている。そのような数字を押したら「これですか?」と機械に言われて番号がでるかと思ったけれど、そういうこともなさそうだ。年号の手がかりとなる教科書を見つけることもあやしい。もはや夢だったのかもしれないという気もしてくる。履歴とかメールも、どうもよく分からない。何か、紙などに書いた気もするのだけど、分からない。その紙はたしか薄い汚れた手帖だったのだけど、それをどうしたのかも分からない。

 分からないことが多すぎる。

「ねえ、あの、何か、むかし旅につかっていた手帳があって。薄い黒っぽいやつを。見かけなかった?」

 あなたは、違う部屋にいる太助さんに、そう聞いている。そんなことは分からない。もうずいぶん経っているし、この家に住むより前のことな気がするから、前につきあっていた人に聞いてみたら? と太助さんは感じる。

「あの、押入れに突っ込んだ、段ボール箱にでも入ってるんじゃないの? けっこう前でしょう」

「そうかもしれない」

 けれどあなたは、どうもこの椅子から立つのが億劫で、和室の押入れまでいくのがためらわれた。メールボックスを見つめ直したら、あるのかもしれない。そう思って履歴をたどっていく。5年前、6年前、7年前……。見ていると、アシスタントのYとのメールが出てきた。件の村にアクセスするための行き方とか、いつ着くかといったやりとりが。

 「私はここにいる。電話番号をおしえてほしい」

 メールをYに送ってみる。文面も整えず、そのままを送っている。Yは仕事が早いから、だいたい数秒で返事が帰ってくるはずだった。

 それを見た瞬間のYのことを考えてみる。パ、と何らかの液晶画面に、もう誰だか認識できない人からのメールがはいる。件名は空欄。はて、誰だったろうか。アドレスに名前が入っている、そう、あなたの名前が。あと、当時のやりとりが七、八年越しにそのまま続いている。その履歴の内容をみても、誰だか思い返すことはできないかもしれない。

「どなたでしょう」

 あなたはあなたの名前と経緯を告げる。あのときの村に過ごしたこと、ふと久しぶりに写真を見て、八子さんを思い出したこと。

「うっすら思い出すような気もするけれど、私はいま八子さんとは縁を切って、今ここにいるんです」

 そういって、真っ白い雪原に一頭のイヌが、ただ舌を出して佇む写真をもらう。犬のハァハァいう呼吸がそのまま白い煙みたいに立ち上る。そうとう寒いところなんだろう。

「ここは、とある前線基地です。寒いんです。私のこころは凍りつきそうで」

 急にウェットなことを言う人だ。新しい何かに巻き込まれているのだろうか。

「どうしたらいいのか、分からない」

 分からないと言って新しい僻地にいるYと、どうしたらうまくやりとりできるのだろうか。あなたは一旦メールをするのをよして、タバコを吸いにキッチンへいく。

 隣の部屋には太助さんがこたつでぼんやりとスマートフォンをいじって変な音などをだしていたが、気づくとすうすうと寝息をたてている。

 向かいの部屋では、安藤はパソコンをいじって何かを考えるような、考えないような感じで、アニメなどを漫然と見ている。安藤はスマートフォンをいじって、いつもの波の動画を飽きもせずに見ている。彼女に言わせれば、日常見ている景色なんかより余程ドラマがあって面白いそうだ。こちらの二人の方が、何か流れている映像をみて時を過ごすのを、好む二人だった。

photo 阿部さん

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