散歩道|12

[ブレと揺れ]

 対岸で安藤は、まだくしゃみを引きずっている。繰り返しくしゃみをしているわけではない。くしゃみをしたその迫力に、自分が衝撃をくらっている。どうして、くしゃみをしたんだろう。肌感覚では分かっている、向かいの部屋であなたが、こちらの話をしている。私の髪型について話しているという様子が、ありありとした雰囲気で伝わっていた。勘違いかもしれないけれど、遠く外れてはいないだろう。ただ、それを口にするのは何となく、ためらわれる。口に出したら、これまでのルールがなくなって、均衡が取れなくなっていくんじゃないかって。

 渡辺のつまびくピアノの音がだんだんとリズムをなくして、間遠になってきている。

「ね、どうしたの急に。くしゃみなんかして、何か怪我でもしたの。口のなかを切るとか。出血をしたとか」

「あ、『隣人』がおれの話をしているんだよ。気づいたんだよ。この髪型のこととかを言ってるんだなとか。でも頭より早く身体が気づいてくしゃみになったわけで、後からそう思ったんだよ」

 聞かれたから、つい応えてしまった。これまでにそんなにちゃんと話してなかったのに、言葉にしてしまった。どうしても、口にしたくなかったのだけど。

「ああ、でもたまに話してるみたいだよ。なんか、ちょうど同じ傘を持っているから、それを持って待ってて、話すきっかけにしようかなとか、さっき言ってたでしょう」

「えっ……」

「前もそういう話って、してなかったっけ? 酒を飲みすぎて忘れてるの」

 渡辺はそんなに気にしていないし、むしろクールに状況を見定めているようだった。

「だからそろそろ潮時なんじゃないかと思ってて。わたしも仕事がかわるし、あなたも人が苦手だから、もうきついんじゃないかなってうすうす思ってた」

「引っ越すということ?」

「まあ、ゆくゆく……」

 ちょっと早くない? と安藤は思ったけれど、渡辺の方が冷静なことに今さらながら驚いて、次の言葉がでてこなかった。けれど、ここは借りているだけだし、居心地がよくたって、いずれはそう、引っ越すんだろう。安藤はもう物件や、住みたい駅の環境などを調べはじめている。もともと見るのが好きだからか、少し離れた駅の一戸建てや、この近間の一軒家の二階の間貸し、一フロアに一部屋のマンション、膨大なストックがすでにあった。

 四人は気づいてないけれど、二つの部屋の間には、つがいの鳩が暮らしはじめていた。夜になると二羽が寄り添って、ベランダのふちにしゃがんで寝ている。昼にパタパタと近くを飛び回っては帰ってきて、何か餌を食べている。ときに一瞬、パタと羽を広げて、まぐわったりしている。

 そこは、互いの部屋の境界線なので、二つの部屋の行き来がいつも見える。あ、あなたが動いて、階段をおりて、外へと歩いていった。あ、安藤が肩にかばんをかけて帰ってきたり、その後に渡辺が歩いてきたりしている。とはいえ鳩としてはそこまで人の営みには興味がないものだから、ただ、人間が行ったり来たりしていると感じるばかりだった。両部屋の異なりといえば、ただサイズ感が違うくらいで、人としての雰囲気や佇まいは、だいたい一緒のように思えた。けれど人である以上あまり関心がなく、やはり異なるのは、居場所の方角くらいだ。北側と南側とにいる。

 そんなときにはたと大地が揺れる。地震みたいだけれど久しぶりで最初は分からない。ゆっくりゆっくりと揺れ、高く育った蘇鉄の木が揺れる。鳩ははとはとと飛んでいく。渡辺はソファに座って揺れをかみしめている。あなたは移動していて気づかなかった。

[音と空間]

 あなたの客人は翌日にバーでライブをして、帰っていった。そこはななめの小道のビルにある、小さな部屋で、いつだかあなたたちが我を忘れるほどに酒を飲んでいて、隣人か分からない隣人とエレベーターミュージックを話していた店の、違う階の店。あの録音を流していた店主も、聞きにきていた。ギター一本、アンプ1台で、色々な音の色を出していた。時にしずまったり、うるさかったり、あの手この手でいろいろな音を出して、何事かつぶやくように歌っている。何を言っているかは、聞き取れない。けれども昨晩のこの世の話をそのまま音で繰り返すような、感じがしていた。ギタリストは水を飲んでいたのが途中から透明な酒に切り替えてきて、音がゆったりと、ひずむように歪んで、のびていく。だんだんと、客席の方を見ずに、ギターと対話や思索をしていくように、内向的な小さな音を出す。

 聞き終わったあとに、そういう音のある心地について、歩きながら振り返りたいと思っていた。どこからどこまでが演奏となのか。ひょっとしたら、彼がギターをひかずただ沈黙しているときなども、演奏だったのかもしれない。旋律が、どうやってその空間になっていくのか、観客はどう関係していくのか、その空気の変化について。

 空気の変化が、何か新しい気分をもたらしたのか、あと、春だし。一緒に聞きにいっていた太助さんは、久しぶりに音楽がやりたくなったみたいで、久しぶりの友人に声を掛け合い、バンドの練習に。あなたはいつもの散歩に出ているのだろうか。

[散歩道(3)]

 あなたというのは、一体どこにいるのか。決して、これを読んでいるあなたなどではない。誰なのか、それはわたしにしか分からないのだろうか。わたしにも、分からない。ある、思い描いている人はいる。長身で、はにかんだような笑みをしているような、長細い感じの人だけれど、割と骨格はしっかりしている。陰になっている細い目の奥がなかなか読めない。いつも夢で見る街で、いつも会うみたいに、そこにたたずんでいる。

 それであなたは、散歩をしている。ここに書くのはもう何度目か、あなたの頭の中でいつものように言葉がゆれている。そちらからあちらへ、いつもの方向へと、歩いていく。歩くリズムが、頭の中を心地よく揺さぶって、何かと何かがつながりそうになっていく。たまに、自分の手をひらいて見つめてみる。爪を切ったばかりで、その爪のかたちを、何度も見たくなってしまうのだ。

 何をまた考えているのだろう。何も考えていないのかもしれないけれど、そもそも考えるということも、よく分からなくなる。もしかしたら道が考えているのかもしれない。道は散歩をするために、そこにあって、散歩を繰り返すことで、何かが醸成されていくと人はいっているけれど、道が、そこの道特有の思考をうながすということもあるだろう。

 歩いているのは仕事柄といったけれど、どんな仕事なのだろうか? 何かを考える仕事なのだろうか。それってたとえば、企画屋みたいなものなのか。それとも、人を使う何かなのか。あるいは一人だけで、何かを処する仕事なのか。車を使って何かを集めてどこかに運ぶ仕事かもしれない。

 でもそれって何事もそうで、考える人は誰だってそうしているし、考えようとしていなくても、それはそうだろう、歩くことで、リズムを取り戻そうとしている。それは一人でも二人とでも用途は異なるし、三人以上ともなると、歩く宴会のようになってしまって、ときに一人は後ろに下がって黙々と、前の二人の話を聞いていたりする。

 思想とすれちがうこともたまにある。思想は我関せずといった感じで、イヤホン越しに誰かと大声で喋り続けている。頭のなかは別の世界におきながら、前に向かって淡々と歩いている。

 と思うと向こうのほうから、自動で走るキックボードに乗って滑るようにやってくる人もいる。リュックを背負って、スマートフォンで地図を確認しながら前を見たり画面を見たりしながら前方に滑っている。その人もあなたのことを通り過ぎて行き去る。そのスタイルもまたひとつの思想なんだろうか。

 そうしてエクササイズをすることで、頭の回転を取り戻そうとしている。取り戻した回転は、時間とともに回転数を増やしていくのだけど、いつだかまた回転数が落ちてくる。

 するとまたいつもの字があって、

 dive

 といっている。もう繰り返すのはよしたのだろうか。でも、潜ったところでどうしようというのか。何に潜るのか? あの金釘文字も、自分で読むために、自分で描いているんじゃないだろうか。大した字じゃないし、そこに飛び込みたくなるようなものでもないよ。けれど、どうも、忘れるに忘れられない味がある。 

 into life

 ふとそんな言い方がよぎる。よぎるから、ちょうど持っていた太字のマジックペンでそう書き足して、来た道に逆に歩いていく。


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