散歩道|8

[何かによる抽象]

 生活とは、結構、抽象的な思考じゃないだろうか。生きるとか、暮らすとか。元々は考える必要はないことだけれど、どうも、皆が言うからそこにあるように思える。絵画が、絵具か何かが画面に筆で塗られて重なっているだけなのに、何か皆が「描かれている」と思ってしまうから、実際にある出来事のようになっている。ほんとうはただ、一瞬一瞬の現象が毎日毎日、続いて重なっているだけというのに、そう見えてしまう。ある時にたちどころに消えてしまう、かりそめのかたちなのかもしれない。けれどもどこかに何かはある。懐かしさとか?

 一方、世界では魚がさばかれている。巨大な市場みたいなところで、無数の魚を、無数のオバチャンが、さばいて切り身を製造している。床には無数の切れ端が落ちている。頭とか、尻尾など。それを千匹以上の猫たちが常に狙っている。ふっと目を逸らすとその瞬間に一匹、二匹、猫が切れ端をかすめとる。かすめとってそれをくわえて、他の猫にうばいとられないように颯爽と走って、自分の寝床にもって帰る。それを食べるのは今すぐなんだろうか、それとも、少し置いて味が馴染んでから、夜寝る前なんかに食べるのだろうか。そうした選択が、残されている。

 オバチャンとしてはそんなことは些末な出来事で、淡々と、切り身をベルトコンベアに載せては、加工場へと送ってる。そう、手を動かす合間にふと家庭のことや、この先の日々のことなんかを思い描いては、一切れ、一切れ。魚の生臭さが、マスク越しにも伝わってくる。手袋は脂でぺとぺとしている。切り身を、ベルトコンベアに乗せて送っている。自分はそんな切り身を食べたいとは微塵も思わない。切り身は工程を経て生命感を失っていき、結局はあのパックに詰められて、スーパーマーケットの棚に並んでいる。たまに買うけれど、その切れ端には猫も見向きもしない。

 たまに、切れはしを狙って居つく猫を好んで、餌付けして仲よくしているオバサンなどもいる。どうやって限られた猫に届くように餌付けをしているかは、詳細は定かではない。うまくエリアを区切って、切れ端をだしているんだろうか。かの人にとっては、今ここにいることを楽しみたいし、どうも生活や日常のこともあるけれど、猫と過ごすことを選んでいるみたいだ。そうではない無数のオバサンたちとは、一線をおいて、あまり仲よくはしていない。

[飲んだ後]

 猫を餌付けするオバチャンのように、バーの喧騒を残して、あなたは家路についている。またいつもの道を歩いているうちに、頭の何かが転がっている。

 いっとき飲みながら夢を見ていて、オバチャンの景色を夢に見ていたんだった。夢もあなたのことを見ていたかもしれない。それで溶けきるその前に、あなたは店をひとりで後にしていた。二人がどこに住んでいるのか、どういった部屋なのかとか、聞くまでもなく、いつしか酒と音楽に消えた。

 いつも眺める二階の部屋が、今朝はどうも落ち着いている。さすがにもう寝静まっているのか。けれどどうも、人のいる気配がしないし、猫の気配もしないし、どうもごちゃごちゃしていた雰囲気の窓辺も、すっきりと片づいている。ひょっとしたら、引越しでもしたんだろうか。そうなるとまた、景色も変わっていく。変わる景色を日々見つめていくのか。

 そんな明け方に帰ってくると、飲み散らかしたあとの部屋の床に太助さんが寝ている。連絡はもらっていた。集団がやってきて飲んでいたんだろう。でも飲み残しなどはなくて、きれいに飲み干されて、使った食器なんかは流しにまとめてある。行儀のいい酔客だ。太助さんは背面をかたむけた座椅子に座ってそのままあおむけになって、口を開けて、目も半分開いたままに、寝入っている。テレビでは何か、再生したのだろう映画のディスクの、オープニングの画面がずっと流れている。何か再生する場面などを選ぶところで、中途半端に選びそうになっている画面で…………

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