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近況|19

 ところでSというのは太助さんが同居していた、いわゆるパートナーだった。そういえば一緒にいたころも、よく揺れていたんだった。電話がぷいぷい言い出したのも、ちょうどその頃じゃなかっただろうか。そうしてその頃から、手元を見つめて過ごす人が目立つようになった。ぷいぷいと言えば画面をみて、人々の声をチェックする。万事を確かめる。いつしかぷいぷい言うスイッチはなくても、手元の画面をみて、合間に手元ではない景色を見るようになっていた。そうして発話をしないから、徐々に内向していく。中には、ぷいぷい言うのをかわいいと思って、ペットのように電話を愛でる人もいた。太助さんはそんな街の様子に何ともいえない不安があって表にでるのがこわく、どうしよう、こうしようと部屋のなかで歩き回っていた。
 そんなときSと、自転車にのってすこし遠出をした。走っている間も時折ぷいぷい言うけれど、走っているから、全然気づかない。Sがななめ前を、慣れない地図を見ながら走っていく。今とおなじ五月晴れに、すこしずつ気が晴れていった。それで、太助さんが好きな画家の作品を見に、街外れの喫茶店へ行った。そこは、その画家の絵をたくさん飾っていることでひそかにファンがいて、彼女はその画のなんとも言えない空気感にほだされていた。太助さんは、絵が好きだった。特にこの画家のような余白があって静かで、どことなく浮遊感のあるものが。「いいじゃない」そう彼もいいながら眺めては、ビールの中瓶を飲んでいた。何か、すでにある自然や景色を、こうパズルのピースを動かすように組み合わせた、不思議とフラットな作品で。そう、さっき見ていた浮島が動くのに似ている。あれも地震で多少動いたんだろうか。
 そう思い出ばかりしていても仕方ないのだけど、太助さんはそういう気分になってしまっている。公園から戻る途中には、小さな川と、橋があって。そこでは彼が川を眺めていたことを思い出しながら川を眺めてしまう。川はなにかいい。かれは川の端っこ、流れの淀みにたたずんでいる鳥に注目していた。夜だというのになぜそんなニッチなところに気がつくのだろう。一緒にすこし眺めていると鳥は「どうぞ」と言って、やがて飛び立った。かれは鳥がいなくなったそこをしばらく眺めていた。どうぞと言っていたのは、どうぞ眺めてくださいと言ったのだろう。
 そうして川はとうとうと流れる。かれと私はすこしその後の川を眺めていたけど、そんなに面白いものでもなかった。「おれは少し、面白かったよ。ただ川を眺めているふたりというのが、よかった」ずいぶんさっぱりした言い方だった。ほんとうにそんなことを思っているんだろうか。何か、そうした、俯瞰した景色感を面白がることの多い人だった。斜に構えていて何だこいつと感じることも多かった。
 どうして今日はこう、Sとのことばかり思いがいくのか。黒い部屋の効果やろか。あ、遠くでサイレンの音がしている。この地震と同じくらいのときから音がしていた。火事なのだろうか。

 浄悟にはサイレンの音が近づいてくる。何台も消防車がやってくる。あれは近くにくると相当いかつく、路をふさぐ。近所からわらわらと見物が出てくる。家族連れなどもいて、マスクをして、楽しげに道に並んでこちらを見ている。駐車場を挟んだ先の古いアパートの前に、少女とおじいちゃんとお父さん。なんだか昭和みたいだ。空はちょうどきれいな夕暮れをしていて、その明るさにほどよい。見られる側になるのは心外だが、ほのぼのと彼らが楽しんでいる様子は悪くない。
 というか、こちらを見ているのは、こちらの建物で何かが起きているのだろうか。入り口あたりになにかどかどかとやってきて、踊り場のあたりがかしましい。階段でも大きい音がしている。とっさに、ピアノの彼が感極まって放火でもしたのかと思う。そうだったら面白いが、そこまではしないだろう。いや、あまりに唐突だけどそういうこともあるのか。しかし、どうしたらいいのか。こうゆうときは外に出るのかな? でも何も異変はしていないわけで、知るかと思っていつも通りに下を履いて、部屋にもどる。

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