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社会人としての研鑽に終わりはない(多分)

ジャス子です。どうも半年近くぶりのnoteらしく、自分でも一体今までの期間何をしていたんだろうかと不思議に思っています(いや、仕事だろ)

一応書こうと思っていたことはあったようで、メモ帳に色々ネタを見つけたので一つ取り上げてみた。

アウトプットはインプットと相関性がある。当然の話だ。昔、とある建築のクライアントに関わっていた時、早い話が「設計がダサいので売り上げが伸びない」という話が出てきた。実際にそうだったのだが、ダサいという言葉はとても便利で、なぜダサいのか、何をどう変えればいいのかの説明は簡単ではなく、何よりこの個人の美的感覚や造詣に関わることほど言語化も理解を得ることもとても難しい。センスを否定することは個人の美的感覚を否定することでもあり、対企業においては非常に慎重にならないといけない。

クライアント先の社員は一生懸命設計し、「これはカッコイイのではないか」と提案してきた。しかし、それらは顧客にとってはデザイン性があるものではなかった。設計した社員は何がダサいかは理解できないが、自分の作品の良さを饒舌に話すことが出来たため、その場の雰囲気で同調する社員も多かった。

前述の通り、インプットの量が少ないことも一因であると考え、私は設計部と一緒に国内の有名どころ・ニッチなところ含めて建築ツアーを毎月企画しては、社員達を連れ出した。見事に顧客は知っていて見たこともある建築物を見たことも聞いたこともないという社員も少なくなかった。しかし彼らは言った。自分たちは1回しか家を建てないであろう顧客と違い、桁違いの家を見てきたと。そして業界歴も長く専門的な知識もあると。

確かにその通りだ。設計の専門知識がある顧客は圧倒的に少ない。しかし、私はどの業界に置いても”顧客の方がよく理解している”という状況はあると思っている。もちろん医療知識などにおいては医師や看護師の方が上だろう。特殊な法律もある。しかし、私は今まで色んな業界を見てきて、顧客は世界中の商品やサービスに触れ、試し、研究し、その良さや悪さを知っている。スイッチングコストが低下している今の世の中、いい商品の共有は瞬く間に行われ、例え使えば評価されるものであっても、情報の波においては目に留まらないものはあっという間にフィルタリングされ消えていく。

企業が自社の会社、商品、サービスのことばかり考え、過去の知見にぶら下がっている間に顧客はもっと色んなことを目に見て触れているのだ。そして企業の抱える基準は顧客の基準より低いケースが多い。

企業がどれだけいいと思っても、顧客の目に留まり、手に触れ、体験してもらい、そして評価してもらわなければそこに価値は生まれないと思う。そしてそれらの実現のために会議室で一生懸命汗水たらしたとしても、最終的にお金を払う顧客に良いと思ってもらわなければ、そのプロセスに想定するほどの大きな意味はその時点ではないんじゃないだろうか。

貴方の基準は顧客の基準と比較してどうだろうか。過去の業績、経験は結局過去のものであり、現時点の基準や知識はどうだろうか。そう考えると社会人としての研鑽の旅は終わらないな、と改めて実感した。

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