5年前の自分に向けて
こんばんは。みなさんお元気ですか?
私は最近のんびりダラダラな日々を送っています。
今日は私にとって話すのに一番勇気がいることについて書きたいと思います。
私のフォロワーの方は現時点ではプライベートで仲良くしてる友達だけで、今から話すことを知らない友達もいるので驚かせてしまったらごめんなさい。でも気をつかわないでほしい。
それは私の母親のことです。
タイトルにもある5年前のこの日(2016年2月10日)、私の母親は亡くなりました。
今年だけでなく、母親の命日は毎年意識しています。
ただ今までは高校の授業や大学での活動などに追われ、当時を鮮明に思い出すことはありませんでした。むしろ思い出すことを避けていたのかもしれません。
5年前の2016年2月9日、この日は次の日が私立の高校入学試験の日でした。
私はありがたいことに中学生からの一貫校だったので高校入試といっても、エスカレーター式で高校への入学は約束されていました。なのであくまでプレ入試。
まぁプレ入試とはいえ、勉強しようという気持ちだけはあり、この日は先輩から借りた自分の学校の赤本を開きながら昼寝していました。
スヤスヤ寝ていると祖母から電話がかかってきて、私はその電話で目覚めます。
本当に突然のことでした。
祖母:
「樹梨、今からいうこと落ち着いて聞いてな。今日、お医者さんからママ今日が山場って言われてん。今も血いっぱい出ててな…。見てられへん…。今日ママに顔見せたってな…。」
私:
「うん、樹梨は大丈夫やから。会いにいくよ。」
このときの祖母の声から泣いていることがわかったし、なにより、実の娘が闘っている様子を隣でみていることがどんなに辛いことなのかが本当によく伝わってきました。
当時の私は少しでも祖母を安心させるために、「自分は大丈夫だから。」ということしか言えませんでした。
祖母からの電話のあと、
自分が動揺している一方で、「自分は動揺しているのだな。」とどこか客観視している自分もいて、でも状況を信じきれず涙は流れてきませんでした。
とにかく母親のいる病院に行かなければという気持ちが先走っていました。
病院に着いて、まず祖母と合流をしました。祖母は私をなだめるようにこんなことを言いました。
「樹梨はこれから一人でも大丈夫やんね、おばあちゃんと一緒におろね。」
この言葉は私を気にかけている言葉でありながら、祖母自身の気持ちを保とうとしているようにも私には聞こえました。
「樹梨は大丈夫。」
とにかくこの言葉で私は祖母を安心させたかった。
ただ、このとき私は母親に会っていません。
祖母や叔父は、当時中学生だった私に母親の辛い姿を見せないように、私の悲しみを少しでも減らすために母親に会わせませんでした。
当時周りの大人たちは子供の私をとても気遣ってくれていました。今考えると本当にありがたかった。
母親がいなくなるという迫りくる現実に現実感を持てなくて当然だったと思う。
もしそのとき母親の姿をみていたら、当時の私はその現実を受け入れることができただろうか。
祖母を含めた大人たちと話し合って私は一旦家に戻ることになり、本当の母親の最期に寄り添うことに決まりました。
家に帰って一人になりました。
いつ母親の状態が急変し、いつ再びかけつければいいかはわかりませんでした。とにかくすぐに出れる用意をして落ち着かない気持ちで布団に入りました。
それから数時間後、おそらく夜中の12時を過ぎていたと思います。叔父からの電話ですぐに支度を済ませ、叔父の運転で病院に向かいました。
病院に向かうまでの高速道路での道のりで私は叔父にこんなことを言ったのを覚えています。
「置いていくほうより、置いていかれる方が辛い。」
当時の自分が母の死を受け止めようとした精一杯の表現だったと思います。
病院に着くと、病室まで身体が勝手に走り出しました。
ベッドに横たわる母親の顔を見ると私は涙が止まりませんでした。
昼間、祖母たちから聞いていた母親の様子とは打って変わって母親は本当に穏やかでした。
意識もあって私の名前も呼んでくれました。
母親が叔父に、「樹梨をよろしく。」と言ったときの母親はどんな気持ちだったのだろうか。自分が最期だと理解していたのだろうか。
いきいきして生きたいと思っていたであろう母親がそのような言葉を言ったことを私は信じたくありませんでした。
何時間私は母親の横にいただろうか。私が手を握ったとき、わずかながら握り返してくれた母親の手を私は一生忘れない。母親の肌の感触、骨格の感覚が今でも私の手に残る。
朝方、お医者さんが来て母親の死を正式に告げられました。
母親を病室から家に運ぶ準備が進められる。
その様子を私は茫然と立ち尽くして見ていました。突然母の死の実感が私を襲い、涙があふれでました。
「そんなに泣いたら目が腫れるよ、今日試験やろ。」
祖母のこの一言で、私の涙は止めざるを得ませんでした。
正直、高校入試はどうでもよかった。行きたくなかった。でも今日絶対に行かなければと思った。なんで高校入試受けなかったのかと周りの友達に聞かれたくなかった。聞かれたら泣いてしまう。だから行かなければいけなかった。
お昼前後、私の学校で高校入試を受けました。どんな風に問題に向き合ったのか覚えていません。
ただ文字を目で追うだけで浮かぶ涙を抑えることで精一杯でした。休憩時間も周りの友達に悟られないよう、他の子と同じくふるまおうとすればするほど辛かったです。
そこから家に帰り、母親と最後の家での時間を過ごし、お通夜、お葬式と過ぎていきました。幸いなことに入試後は2日間休校で、私は学校を休まずに済みました。このときは本当に誰にも会いたくなかった。
無事お葬式も終え、明日から現実の日々。
夜、祖母が入浴している間、私は一人で泣きました。
入試前に無理やり止めていた涙が一気に出てきました。胸を大きくくり抜かれたような感覚で途轍もない虚無感に襲われました。
明日から日常の学校生活。
母親を亡くした悲しさと同じぐらいこれから先どうやって自分の気持ちを保っていけばいいのかがわからない不安で心がぐちゃぐちゃでした。
でもとにかく学校に行かないと、普段通りにしないと。
当時、部活の部長を務めており、大会も目前に迫っていたので自分が穴を開けるわけにはいかないという気持ちでなんとか過ごしていました。
母親の死から5年経った今、以前より落ち着いた気持ちで過去に向き合えています。
5年前や高校生時代の私は、
「若くして母親を亡くした子」という周りからの偏見の目に必要以上に敏感だったように思います。
周りから同情されることが本当に嫌でした。
私を可哀想っていうような目で見ているけど、私の気持ちをわかるわけでもないのに、というようなひねくれたことを考える自分も同時に嫌でした。
高校生活は母親の死を経験した自分の暗い部分を抱える一方で、
初めて海外旅行を経験したり、初めて部活での同期ができたり、毎日笑わせてくれたクラスの友達がいて、私の学校生活を全力で支えてくれる祖母がいて、本当に幸せな時間だったのも事実です。
そして大学に入ってから、
「ありのままの自分を受け入れる、人と自分を比べない、人の良いところがあるように自分の良いところもある」などというような個人を尊重する考え方を知りました。
「みんな違ってみんな良い、自分もその内の一人。」
そんな風に思えるようになってきたのは本当につい最近のことです。
多様性を認めることはこれからも私が大事にしたい考え方の1つです。
5年前の自分にこう言いたい。
現実を真正面から受け入れている自分は本当に強い。悲しさから逃げずに高校入試に向かったのは本当に辛いけど、頑張った。自分の内面と周りからの視線で葛藤する日々が当分は続くけれど、5年後の今は少し気持ちを軽くすることができています。未来は明るい。
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