見出し画像

少し変わった家庭環境で育った生い立ちについて振り返る

.
.
.
周りと違った部分が個性になる、と聞くことがあるけれど、
それが個性だと自分で理解したり、受け入れるまでの道のりはそう簡単ではない気がする。
.
.
.
.
私の中で周りと違っていると一番感じるのは、家庭環境だ。
.
20歳を過ぎた今でも、自分の生い立ちや家族の話をするのは勇気がいる。
私が思うような一般的な家庭で育った子に自分はどう映るのか、同情されるのではないか、というような不安と悔しさに似た感情がある。
.
.
.
.
こんな風に思うのは世間からのものさしとは裏腹に、
私が家族から沢山の愛情を、ほんとに愛おしく育ててもらったと感じるからだ。
周りから見れば、苦労した子や可哀想な子と思われるかもしれない。
けれど私は、型だけを見てほしくない、型だけが先行して私の感情を置いてけぼりにしないでほしい。
.
.
.
生まれた家庭環境そのものに悩んだ時期もあったし、今も吹っ切れる強さはないけれど、
愛情深く、素直さが取り柄といえるぐらいのびのびとここまで育ててくれた家族への感謝は
昔も今もこれからも変わることはない。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.


.
.
.
私は一人っ子として生まれた。
.
一人っ子だけれど、生まれたときから犬2匹、猫1匹と共に育ったため彼らがわたしの兄弟みたいなものだった。
今もおじいちゃん犬1匹と暮らし、実家では常に動物に囲まれて暮らしている。
.
.
.
.

私は生まれたときから、母・祖母・私・ペットというように女家庭で育ってきた。
父親という存在が家にいないという環境が他の友人たちとは違うということは小学生ぐらいから気づきはじめていたと思う。
.
しかしその家庭状況だからといって、なにか私の生活に不便が起きたりということもなかったし、週末には家族でご飯を食べたり出かけたりと金銭的・精神面でも困ったことはなかった。年齢的なものも関係していると思うが、周りとの違いなんて気にかからなかった。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
自分自身の家庭環境や生い立ちについて深く考え始めるようになったのは、中学三年生のときだった。
.
.
.
.
.
.
私は中学三年生で母を亡くした。
悲しいとか寂しいとかでは言い表せないような感情だった。
お葬式が終わって祖母が入浴している間、ソファで泣いた。もう母は戻らないことをはじめて実感し、胸が貫通するような感覚だった。
.
.
.
.
.
.
.
母が亡くなったとき、私はもう1つ現実を知ることになった。
.
.
.
.
それは私が「パパ」と呼んでいる人と血のつながりがないことを理解したことだった。
その人とは、母と祖母と暮らす家で共に生活したことはないけれど、私の中で家族だった。
家族という枠に当てはまるのかはわからないけど、今も私を大事に思ってくれている人だ。
.
.
.
.
.
以前からその人が血のつながった父親ではないと疑問に思わなかったのか、と自分に問いかけたことがあった。
答えは、思わなかった、というよりそんなことどうでもよかった。
.
.
.
.
その人と血がつながっていないなら、私を生んだ父はどこか、という疑問も同時に思い浮かびそうだが、母が亡くなる以前にそんなことを思いつきもしなかった。
.
.
.
.
.
そんな風に自分の取り巻く環境に無関心な状態から、母の死と同時に家庭の現実を知ることになった。
母が亡くなった際に参列した大人たちの会話から私はそれを知った。
.
正直、私の「パパ」はみんなと一緒の「パパ」ではないことに悲しさはあまりなかった。
当時は別に知る必要もない、知りたくなかったことだと思っていた(今は知ったから精神的に大人になれたと思うけど)ので、
まだ子供な私に配慮がないのか、とか私が察する前になんとかならなかったのかなど、怒りのぶつけようがない怒りを周りの大人たちに抱いたことの方が大きかった。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
母が亡くなる以前、退院して家にしばらく戻ってきたときこんなことを言われたことがある。
.
.
.
「パパはずっと樹梨のパパやからね」
.
.
.
.
私の「パパ」は世間一般の定義で言えば、母の旦那ではなく彼氏という状態だったらしい。
私は母について知らないことが多かったんだなと亡くなってから思った。
.
母は「パパ」と交際する前に、2度離婚していたらしい(それまで私は1度だけだと思っていた)。理由はわからないが、母は「パパ」と結婚しないと決めていたらしかった。
.
.
.
母の1回目の結婚相手の方が、亡くなった際に訪ねてくれたことがあった。
その人と母の間に子供が中々できず別れることになったと聞いた。
今はその人にも新しいお相手との間に子供がいるらしい。
友人時代から仲がよかったと聞き、幸せそうな母の笑顔が思い浮かんだ。
.
.
.
母の2回目の結婚相手が、私の血のつながった父親にあたるらしい。
母とその人は私が生まれた直後に離婚したようだった。
離婚した理由を私は知らないが、出産直後に別れを決断するのはそれなりの理由があったのではないかと私自身勝手に想像する。
これまでも今も、母と彼の間にどういう経緯があったのかについて特に興味はない。私は血のつながりよりも、私に関わってくれた人たちの方に関心をもつみたいだ。
.
.
.
.
私の中で「パパ」は父親という感覚ではない。彼から養育費を払ってもらったり生活を支えてもらったことはない。
むしろ働いていた母が世間でいう父親的な役割で、祖母が料理や家事など母親的な役割に近い気がする。
.
上記の、母が私に言った「パパ」がどのような意味かはわからないけれど、その人はずっと私の「パパ」だと思う。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
中学三年生のときにこのような大きな経験をして、自分について考えたり、家族の形というものに悩んできた。
.
ただ私はこの生い立ちだけに悩まされたと必ずしも言えないと思っている。どういうことかというと、それは祖母が影響している。
.
.
.
.
母が亡くなったとき、祖母はそのことを私の友人には言わない方がいいと言った。
「樹梨が可哀想って周りの子は思うかもしれんよ」と。
.
実際、祖母は母を亡くした私にごめんね、と言うこともあった。祖母は何も悪くないのに。
.
祖母は私が周りからの同情に悩まされないように、母の死を黙っておこうと言った。私は祖母の言う通り高校三年間、どの友人にも打ち明けることはなかった。
.
.
.
.
私は高校時代、周りの人に自分の状況をわかってほしいという気持ちと、打ち明けたことで変な同情を受けたくないという気持ちで葛藤した。
.
私は強がりだった、今でもそうだ。母がいなくて可哀想とかそんな同情はほしくない。
.
.
.
.
.
.
今でもこのことを打ち明けられていない仲の良い友人が複数人いる。
その子たちは私自身を見てくれているとわかっているのに、
母がいない子や、複雑な家庭で育った子という風なレンズを通して見られることを私はいまだに恐れている。
そして打ち明けたとき、受けたくない同情をもらって傷つきたくないと思っている。
仲良くなればなるほどタイミングがわからなくなる。
.
.
.
.
.
.
祖母の言う、世間からみたら可哀想な私は被害妄想すぎるのかもしれない。
.
けれど、同情されるかを恐れて自分自身で葛藤することの方が、実際に同情されて傷つくことに比べればまだ良かったのかもしれない、とも最近思うようになった。
.
.
祖母の言葉が今でも私を取り巻いている。それは私をときに不自由にし、余計な周りからの視線を防ぐものでもあるのかもしれない。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.


.
.
.
先日、私ははじめて家を離れて生活した。たった2か月だったけれど。
.
家を離れる前に、幼少期の写真が集められたアルバムを開いた。
幼い頃の私と、その私を愛おしそうに囲む家族の写真で溢れていた。
そんな家族の様子をみて、人を愛することがこんなにも人を幸せにするのかと思った。
それまで私は、パートナーや子供を持つことはどちらでもよいと思っていた。
けれど、このとき多分はじめて自分もいつか家族と呼べる人を持ちたいと思った。
.
.
.
.
.
人には見せないだけで、私とは別のところで苦労している人がいることも知っている。
私も私の言葉で誰かを知らないうちに傷つけているかもしれない。
.
けれど、私は違いを楽しめる強く温かな人になりたいと思う。
.
.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?