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母の放つ言葉の破壊力とハッピーバースデートゥーミー

先日、某所で11歳の娘の反抗期を題材にした詩を朗読したら、やたらとウケた。
死ねよと言われたから書けた詩だ。なさけないが、元を取った気がしている。

ここ半年くらいだろうか、娘とケンカするとときどき「死ねよ」と言われるようになった。
初めて言われたときはショックだったが、時代だなーとか、死ねよをローマ字にしたらSHINE YOだなーとか、こんなに荒れ狂っているのも今だけなんだよなーとか、わりと冷静に考えていたら、詩が書けた。

娘としても、言いたくて言っているわけではない。とにかく親から言われることに腹がたってしかたない時期なのだろう。その気持ちもわかる。私もかなり親には暴言を吐いたほうだ。

しかし、言われ慣れても、あまりいい気持ちはしない言葉である。それに言われ慣れるのもどうかと思う。

この間、またケンカになり、また死ね死ね言われた。つらい。つらいというか、うざい。一矢報いたい。報いてやりたい。コンニャロー。

私は考えた。ここでお前こそ死ねと言ったらおとなげないし、ひねりもない。ここはあの台詞を言うときなのではないか、と。

あの台詞。
それは「あんたなんか産まなきゃよかった」である。

果たしてその一矢を放ってみた。
おとなげないにもほどがある。

たいへんなことになった。
娘はこの世の終わりかと思うくらい号泣。泣きながら台所へ走っていったかと思うと、今度はオットの部屋に猛ダッシュで駆け込んでいった。

ヤバい、チクられて私が怒られる! と一瞬思ってしまうのが私の器の小ささよ。
と同時に、オットがいてよかったなーとも思う。母子ふたりっきりでは、子どもに逃げ場がないではないか。言い方を変えれば、相方がいるから私はときどき安心して悪役(ヒール)になれる。

しかし、ヒールにもほどがあるよ。
言葉を扱う人間失格だ。全然心にもないことを言ったのだ。ちょっと言ってみただけなのだ。ごめん。

めちゃくちゃなにげなく言っただけなのに、それはものすごい破壊力を発揮した。

そして思い出した。
母親の持つ力は、母親が思うよりも、はるかに大きいのだった。

たとえば私がリップのひとつでも買ったとする。
あっ、ずるい! いいなー! ちょうだい!
結局、新しいリップは娘のものになる。
いわば、私は彼女のインフルエンサー。今のところ、私が選ぶものは、彼女にとって価値があるらしい。

私の言動が彼女に与える影響も、大きい。
私がちょっと語気を強めるだけで「どならないで!」という。 

こっちはそのつもりがなくても、相手がそう感じたらハラスメント、ということは頭ではわかっていても、自分が「そのつもりがない」側だと、とたんに保身に回りたくなる。
だが、小学校のときによくみんな言っていた「わざとじゃない」は言い訳にならないのだ。

それにつけても子の愛は無償である。
今朝は私の誕生日だった。朝起きると、枕もとにカードが。
イラストつきのバースデーカードである。

思い返せば息子(21)も今の娘と同じくらいの歳のときまではカードつきのプレゼントくれてたなあ。プレゼントは紅葉したもみじだったり、河原の石だったりした。

と思っていたら、誕生日の午後、息子からも電話があった。そういえば、この間会ったときにプレゼントもくれた。

なんだ、愛されてるな。
しかもただ母親というだけで。

ただ母子関係って、こじらせるにはうってつけの距離感だから、今、「母親というだけで愛されている」という文章を読んで「けっ」と思う人も、もしかしたらいるかもしれないけど、でも本当に実感として、ある。

母親は、愛されるためになにかをする必要はない。ただその子の母親であればいいのだ。

なのに「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われた日には、そりゃ傷つくよなー。ほんとごめん、娘。

ところでオットはというと、今朝、台所を片付けていたら彼の字で「誕生日おめでとう にっ!」と書かれた紙が出てきた。まわりに娘の描いた絵。
これは・・・? なんかしわくちゃだし、いつか見たことがある紙だ。

でも今日、この紙を発見したことに意味があるのかもしれない。
意味がある。そうだ、それにちがいない。

ふろむ ふぁみりー

というわけで、愛されている自覚と感謝を忘れずに、言葉を放っていこうと思った今年の誕生日でした。

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石渡紀美(イシワタキミ)
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