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「一日の終わりの詩集」

こんばんは(*'ω'*)

西淑さんのイラストが好きです。甘くない可愛さと静謐さがなんとも味わい深くて、西淑さんデザインのレターセットを買い求めることもあります。先日、書店でオリーブグリーンの表紙の文庫本に目を引かれて買いました。長田弘さんの詩集だったのですが、表紙に描かれている、本(詩集でしょうか)が置かれたアンティークっぽい椅子の西淑さんの絵が、シン…と静まった世界にいざなってくれます。秋の夜長。


解説 一日という単位について

まず『一日の終わりの詩集』というタイトルがすてきだ。昼間の喧騒(けんそう)慌しさから離れて、ほっとひと息つくことができる時間に、ゆっくりひもとくことのできる本、というイメージがある。

一日、という単位がもっとも大切な時の単位だと、著者の長田弘(おさだ ひろし)は「あとがき」に記す。たとえば、瞬間、永劫(えいごう)、過去というような時の刻み方ではなく、一日という単位なのだ。

それは、日々を大切に暮らしていくことや、一つ一つの出来事と丁寧に向き合う状態から生じる単位の感覚ではないだろうか。日没から夜明けへ、一日、一日、夜と昼との交替を数えるように生きていく歩みそのものが、そのままで価値あるもの、かけがえのないことだと、この詩集は告げている。

想像してみよう。一日という時の単位に着目する心には、前提として、たとえば、明日は来るだろうかという気持ちがあるように思われる。あるいは、たとえ明日が来ないとしても今日という日をせいいっぱい大切に、という受け止め方があるようにも思われる。

「あとがき」の中の「一日を生きるのに、詩は、これからも必要なことばでありうるだろうか」という箇所を読んだとき、にわかに風が吹き幕がめくれて、奥にあるものが見えるように、著者が示そうとする詩境が、はっと見える気がした。まさにこの一日を生き切るための言葉として、詩というものが捉えられているのだ。

長田弘の詩を読んでいると、どちらかといえば説明的な叙述が続く中、ぐっと押しこむ感じがあって、反論できない。その通りだな、と思う感覚と、著者は強く確信してこう書いている、という印象が重なり、手をかけて揺さぶっても動かないブロックみたいな質感が残る。かなり倫理的かつ教訓的な記述が次から次へと紡ぎ出される世界だが、読み手が信頼するのは、それらをまっすぐ届けようとする手つきなのかもしれない。硬い作りの中から立ちのぼる柔らかさが心に残る。

「言葉」というタイトルの詩がある。「人をちがえるのは、ただ一つ/何をうつくしいと感じるか、だ。/こんにちは、と言う。ありがとう、と言う。/結局、人生で言えることはそれだけだ。」。さまざまな要素を削ぎ落とし、ここまでミニマムにして、見えてくるものはなんだろうか。

「魂は」という詩がある。「ひとが誤まるのは、いつでも言葉を/過信してだ。きれいな言葉は嘘をつく。/この世を醜くするのは、不実な言葉だ。/誰でも、何でもいうことができる。だから、/何をいいうるか、ではない。/何をいいえないか、だ。」。言葉が軽く扱われがちな時代、こうした警句的な詩句を記した著者の心は、静けさを保ちながらも不断の格闘を続けたといえる。「新聞を読む人」という詩には、「ことばというのは、本当は、勇気のことだ。」という一行がある。まぶしいほど直接的な表現だ。

「自由に必要なものは」という詩がある。「不幸とは何も学ばないことだと思う/ひとは黙ることを学ばねばならない/沈黙を、いや、沈黙という/もう一つのことばを学ばねばならない」。この詩集は、言葉と人とを結ぶ線を凝視(ぎょうし)しようとする。たとえばこの詩に見られる、沈黙を重んじる、といった考え方はなにも特別なものではなく、生きていればどこかで出会う考え方ではあるだろう。

けれど、長田弘が長田弘という詩人である由縁(ゆえん)は、じつはこういったところにあるのではないか。ありふれている考え方や、ある程度流通している判断の仕方であっても、それゆえに詩作品から外すのではなく、むしろ、ど真ん中に据えて詩の行から行へと渡っていく。大事だと思うから書く。それでいいではないか、とこの詩人はきっというだろう。

「穏やかな日」という一編がすばらしい。やわらかな日差し、疎らな木の影、空。著者の詩に繰り返し登場する自然の情景が、ここで織り成すものは、普遍的であると同時に固有のものである一つの場だ。「何もかもが はっきりと/すぐ近くに見えてくるような/ありありとした感覚に/つよくとらえられて/立ちどまる」。

この詩は「いま、ここに在ることが/痛切に しきりに 思われる/穏やかな日」という三行で閉じられる。縮めようのない、この着地の言葉から、余韻がひろがる。生命の烈しさが澄明な響きの波紋をひろげ、やがて静まる。「いま、ここに在る」ことを感受する。その感受こそが、詩なのだ。在る、ということに、気づくというよりも、もう少し強く、しみじみと嚙みしめる感じ、といえばよいだろうか。

この詩集の最後に置かれた一編「Passing By」に、「穏やかな日」の詩句と重なる言葉を見出せる。「いま、ここに在るという/感覚が、すべてだ。/どこにも秘密なんてない。」と。詩人が繰り返し書こうとしたものは「いま、ここに在る」感覚であり、それさえ描き出すことができれば、詩において望むものは他になかっただろう。そして、それこそは、詩と呼ばれるものが、追い求めながらも言葉によっては辿り着くことのできない境地なのかもしれない。

一日の終わり、というイメージは、「あとがき」によればチェーホフの「三人姉妹」から着想されたという。人間を取り巻く「なんのために生きるのか」という疑問、謎。「それがわかったら、それがわかったらね!」。答えには辿り着けない。幕切れのせりふは、長田弘の胸に留まり、やがて時を刻む単位として、一日という見つめ方が詩集になった。

一日。それは暮らしの基本的な単位だ。ゆえに、ささやかだが、人を根本に立ち返らせ、謙虚にさせる単位ではないだろうか。「いま、ここに在る」感覚と認識を照らし出す『一日の終わりの詩集』。この一冊の中に、いくつもの夜と昼があり、それを見つめる詩人のおもかげがある。一日、一日を、二度とないその日として生きるなら、何度でもこの詩集の言葉と出会うことになるだろう。

蜂飼 耳 (はちかい みみ/作家)

『一日の終わりの詩集』(長田弘、角川春樹事務所、2021年)より


「いま、ここに在る」感覚というのは、ヨガの先生もよく口にしていました。心が、昼間過ごしている職場の出来事(追憶)や、過去(後悔)や未来(不安)に行ってしまって、いま&ここがお留守になっていませんか?と。案外むずかしいです、いま&ここに集中するって。でも、たとえば目の前の相手を置いてきぼりにしてスマートフォンをいじるようなことはしたくないなぁと思っています。

知ってる/わかってる、で終わらせず、立ち止まって目を凝らしたり、風や匂いを感じたり、あたりが段々明るくor 暗くなっていくのを味わう、そういったことでぐっと豊潤な世界が開けるのかな!?

むかし、海のほうを見てたそがれる後ろ姿を褒めてくれた?カメラマンさんがいました。そういうひとときも大事なのかも。

Be alone once a day and taste a significant moment ☆

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