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ヤンキー文化と「日本教/人間教」

こんにちは(*'▽')

絶賛 “当事者研究” 中の、TOMOです。むかし、與那覇さんと似たような経験をしました。入院したら、自分で「ダメだ…わたしは、何もできなくなった無価値人間だ…」と思っていることが、たいした問題ではなくなる感覚。助かりました(^^)


與那覇 ぼく自身が「ポスト・フェストゥム(祭りの後、という、人間がもつ時間意識の一つで、その人の生き方を規定する。ほかに、祭りの前、祭りの最中etc)を真剣に悩んでうつになるくらいなら、歴史を捨てるのは全然ありだ」と感じるようになったのは、2015年に約2か月、入院をしたことがきっかけです。各種の研究もしている大学病院だったこともあって、病名としても年齢層としても、幅広い患者さんと知りあうことができました。

プライバシーの関係で詳しくはお話しできませんが、なかには世間ではヤンキーと呼ばれるだろう方も何人かいて、本当によくしてもらったんです。その過程で、歴史を持たない――わかりやすく言いなおすと、たとえば「前歴に執着しない」生き方というのが、一つのモラルであると同時に治療でもあると感じるようになりました。

たとえば病気の前に大学の教員として多数の本を書いていると、自分としては「それなのにいまは会話もできないんだ。みじめだね」とバカにされるのかな、と身構えてしまう。でも、これって完全にインテリの思い込みなんですよ。ヤンキーの人がぼくの職歴を知ったところで、「へー、そうなんだ」で終わりです。

こちらが「病気のせいで、あれもこれも失ったしまった」と落ち込んでいるときに、「そんなこと、別にいいじゃん! いま、ここで出会ったんだからさ、一緒に頑張っていこうよ!」というノリで過去は一切問わず、無条件で仲間として扱ってくれる。そこにすごく癒されたんですね。

斎藤 ヤンキーに癒された……それはいい経験をしましたね。彼らは若い頃はやんちゃで暴力的な傾向もありますが、いったん社会に出て適応すると、基本的に明るく裏表がなくて社交的な、いわゆる「いい人」になることが多い。

あとポイントなのは、意外に弱者にやさしくて、あんまり差別をしない。

與那覇 「ヤンキー的寛容」とでも呼ぶべきものがあるんじゃないかと。そういう目で見るとわかる気がするのは、性や結婚の問題ですね。極度に年の差がある相手とつきあうとか、離婚歴のある人・子連れの人と結婚することに対して、「……それ、大丈夫な女(男)なのか」みたいに陰口を言うのって意外とインテリのほうですよね(苦笑)。

もちろん「本当のインテリ」であれば、そういう先入観はよくないな、とあとから理屈で自分を修正するはずなんですけど、ヤンキーの人は最初から「好きになったら関係ねぇじゃん!」みたいな。

斎藤 まあ、それだけ場当たり的に生きているだけとも言えますし、仲間内ではむしろ結婚・離婚歴が多い方が尊敬されるということもあるのかもしれません(笑)。

しかし、彼らがある意味で非常に寛容で、ある種の倫理性を担保しているのは間違いない。他にも若者の「動員力」とか、伝統文化の担い手という側面とか、ヤンキーカルチャーにも良い面が多くあるのは確かで、私もそこは公平に見て評価しなければならないと思っています。


【中略……ちょっと、Coffee Brake ♪ 】


與那覇 斎藤さんの一連のひきこもり論には、よく「条件つき/条件なし」という命題が出てきますね。ぼくが病棟で感じたヤンキー的な寛容ないし共感にも、これは大きくかかわっていると感じています。

斎藤さんのお考えは、「いい成績を取ったから、子どもを褒めてあげる」とか「一流企業で高い給料をもらってくるから、夫を愛する」といった、条件つきでの愛情自体に問題があるのだ。そうした条件を外さないと治療は始まらないということですよね。

斎藤 そうですね。

與那覇 しかし大事なのは、そこから「条件なしの愛情を注ぎなさい」といった流れになる議論には批判的で、条件をつけないことは大事だけど、それを「愛情」に結びつける必要はない。むしろ「承認」することが大切だと、斎藤さんは提唱されています。

愛情と承認は、同意や共感と同様に、通常は「どちらもポジティブなもの」として混同されている気がします。わかりやすく弁別するとどのようになるのでしょう。

斎藤 アメリカの小説家で80年代に人気のあったカート・ヴォガネットの名言として知られる、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉があります(正確には、ヴォガネットに届いたファンレターにあった言葉)。愛情は最終的に「相手を所有すること」や「相手との一体化」を望む感情なので、少なくとも治療上では手放しで歓迎できない。古くは共依存(※)、今ならイネイブラー(Enabler:結果的に他者の疾患を助長してしまう人)と呼ばれるような、ひきこもりや依存症から離脱しにくくしてしまう側面があるんです。

(※)共依存……DVなどで、加害者と被害者とがお互いに相手を必要としあってしまう、つまり被害者も「私がこの暴力に耐えることで、相手が生きてゆく役に立ってあげるのだ」という意識に陥ってしまうこと。被害者の側も依存しているという語感から、暴力の責任が曖昧にされるおそれがあるため、近年は避けられる傾向がある。

対して「承認」とは、相手を自分とは独立した個人として尊重し、肯定することですから、これは「親切」にも通じます。言い換えるなら、「他者の他者性」を肯定し受け入れることが承認、その他者性への配慮が親切、となるでしょうか。

與那覇 ひょっとすると承認のことを、愛情に対して「友情」と呼んでみるとわかりやすいのでしょうか。愛という言葉が入ると、最後は心中するところまで突き詰めて一体になる印象がありますが、友情は同一化するというより「傍(そば)にいてあげる」イメージですよね。(略)

斎藤 確かにヤンキーには、同じ場所にいるだけで仲間になれるという包摂力があります。たとえば、東日本大震災の被災地でも「同じ釜の飯を食ったんだから」とすぐに仲間になって、復興支援で活躍するという強みを発揮しました。

ただ本当に「条件なし」と言えるかどうかは……。ヤンキーには、人間の尊厳を一回取っ払わないと仲間にしないみたいな変なルールがあると思うんですよ。まずは社会的な地位とかインテリ臭い気取りを全部取っ払って、「裸の人間どうしが平場で語り合う」みたいなイニシエーションを通過して、はじめて仲間として認める傾向があるように思います。通常とは違う形ですが、これも「条件つき」と言えるかもしれません。

與那覇 たしかにアメリカの映画や小説には、人前で裸になるとか恥ずかしい告白をするとかして、はじめてサークルへの入部を認められる的なシーンが出てきますね。ぼくの病棟でのつきあいにも、全員が「発病して入院する」という通過儀礼を経ていたからこそ、円滑にいった側面はあると思います。

近代社会はメリトクラシー(能力主義)で出来ているから、どうしても「この学校に合格した」「この店を使えるくらいお金を持っている」といったプラスの条件をつけた上で人とつきあい、その範囲が友達だと思いこんでしまう。「そんなの関係ねぇ! 俺らは仲間だろ」というヤンキー的なエートスは、それへのアンチテーゼにはなっているのだけど、逆になにがしかのマイナスの条件を、秘かに課している場合も多いのではないかと。

斎藤 もう一つ、ヤンキーの「条件なしの承認」で気になるのは、何かをきっかけに仲間と見なさなくなった相手に対しては、非常に厳しく当たるという点です。仲間外れにされる基準はいろいろあって難しいのですが、とにかく一回外れてしまうと、本当に過酷なんですね。

たとえば前回の対談ではヤンキー文化を考察するうえで、山本七平の「日本教」という概念を参照しました。山本の表現によると、日本人とは「日本教」の信者(日本教徒)のことであり、その日本教の内実は要するに「人間教」だという。妙に納得してしまう半面、そこには本当にあらゆる人間が入っているのかという懸念を感じます。

與那覇 山本七平はイザヤ・ベンダサンというユダヤ人を装ってデビューした評論家ですが、ユダヤ人とは本来はユダヤ教徒のことで、旧約聖書に書かれた「神との契約・律法」をモラルの源泉にして暮らす。これに対して日本人には唯一神も聖典もないんだけど、「ぶっちゃけ人間、みんな同じようなもんだ。一回裸になって、腹を割って話しあえばわかりあえるんだ」という信仰をもとに、社会を作っているということですね。

斎藤 私なりの解釈を付け加えると、日本教が想定している人間は「ちゃんと機能している人間」なんです。頑張っている人間、意思疎通ができる人間、これが標準形なのだから、全員がそれに合わせて振るまいなさいということになる。

逆にいうと、そうではない人間はダメなんですよ。空気を読まないとか、あるいは障害を持っていて意思疎通ができないとか、そういう人に対しては、非常に酷に扱ってしまう面がある。

日本教は宗教ではないにもかかわらず、ある種の宗教的な機能を持っていて、山本の主張を今日風に言い換えると、そうした人間信仰こそがベーシックなOS(オペレーション・システム)なんです。日本人はその上に、どんな宗教もエミュレーターで取り込んでしまうので、神道にも、仏教にも、キリスト教にも対応できてしまう。

與那覇 山本自身も、日本人のクリスチャンは実際にはキリスト教徒ではなく、内実は「日本教徒キリスト派」だと皮肉っていました。

斎藤 だからみんながクリスマスを祝って、神社で初詣して、仏壇に線香をあげるという行動を違和感なく取れてしまう。でも、どれにも本当にはコミットしていないということです。

與那覇 病気を体験して改めて思うのですが、神ではなく(均質化されたイメージでの)人間を信仰の対象としてきたことは、日本における「条件なしの承認を与える場」の乏しさにつながっています。

キリスト教圏、特にフィリピンや中南米などの途上国では、現地の人の心の拠(よ)り所と言うか、本当に困ったら「最後は教会へ行けばなんとかしてもらえる」ところがあるわけじゃないですか。それはそうですよね。だって全能の神なんだから、助けなきゃ嘘なわけです。

同じような機能が日本史上でどう展開したかを探った網野善彦は、「無縁所」という言葉を作りました。ぼくはいまそうした空間が、いよいよなくなりつつあるという危機感を持っています。たとえば日本型雇用とは、一回新卒で会社に入ってしまえば、後から「使えない」とか言われても定年までいられる点で、多くの人にとっての駆け込み寺でもあったのですが……。

斎藤 ある意味「サラリーマンは気楽な稼業」だったわけですが、今や終身雇用も風前の灯火です。

與那覇 そこからこぼれた人たちを救ってきたのが、自営業や非正規雇用の世界に見られるヤンキー的な相互扶助のセーフティネットだったと思うんです。ただしそこには、あくまでも人間教であるがゆえの限界――「この国で標準的とされる振る舞いができる人間である」という条件がついてしまうと。

もうひとつ、ヤンキー文化のマイナス面として前回も議論したのが、「空気読め」といった曖昧な規則で統治される分、何がルールなのかイマイチわからないということですね。

斎藤 これがはっきりしないんですよ。日本教のベースはいちおう神道なのでしょうが、これは島田裕巳さん(宗教学)が指摘するように教祖も教義も存在しない特異な宗教なので、成文化された経典を設ける方向にはいきません。

だからといって無秩序ではなく、むろん規範らしきものはあって、「おふくろに感謝」「絆(きずな)最高」「気合い入れてけ」的な成分が空気を構成しています。図式的に整理するなら、親孝行は儒教、絆や縁の重視は仏教、気合いは神道由来……なんでしょうか(笑)? 組織形態としても、基本はタテ社会なので「上司」「先輩」「年長者」を立てる一方、「下剋上上等」みたいに造反者やなり上がりを賛美する風潮もあって、論理的な整合性には乏しいですね。

與那覇 自身がプロテスタントのクリスチャンだった、山本七平が問題にしたのも同じ点でした。ユダヤ教やキリスト教なら、聖書という形でルールを明示するけれど、日本教の場合は経典がないから、何が規則なのかはっきりしない。だから『論語』など従うべき道徳のテキストがしっかりあった分、儒教時代の中国人・朝鮮人のほうが、日本人よりも西洋人(のインテリ)に近いと山本は見ていた。

ぼくが山本の予言を侮れないと思うのは、たとえば近日の米中貿易戦争です。中華系IT企業のファーウェイは、きちんとグーグルと契約(=明示的なルール)を結んでビジネスをしてきて、だからグーグルは今後とも同社と取引をしたい、約束したことは守らせてくれと米国政府に頼んでいる。いっぽうでアメリカのヤンキーの親玉のようなトランプ大統領は、「過去なんて知るかバカ。てめぇら空気読めや」とちゃぶ台をひっくり返して、日本のヤンキー保守もそっちについていく。こうした事情がきれいに見えてきます。

『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(斎藤環・與那覇潤、新潮選書、2020年) 「第一章 友達っていないといけないの?――ヤンキー論争その後」より


「愛は負けても親切は勝つ」って、どこかで使ってみたいなぁ(*´▽`*) 作詞作曲するとか。それには音楽IQが足りないかもしれませんが。

日本教が想定している人間が「ちゃんと機能している人間」「この国で標準的とされる振る舞いができる人間」だというところ。なるほど、この枠に入れて適応しているときは特に感じないけど、この枠に入れていないとき確かに苦しい、しんどい(>_<)…と感じます。「世間の目」というときも、日本教が一枚噛んでいるのかな!? そのほかにも、かつて職場で他所からきた新任の上司の尊厳を一度、ベテランのパートさん筆頭にぶち壊しているところ目撃したことがありますが、いまになって説明がつきました。国のトップや政権にも応用がきくものさしなのか、こういう見方をするとモヤモヤしてたものが腑に落ちる感覚があります。だから五輪(フェストゥム)は絶対開催せねばという発想なのかぁ、とか。興味ある方は、ご一読を!

Hello, Japanese !! Do you believe in NIHON-KYO ??☆

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