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大島渚監督のことば 2/50

こんにちは(*'ω'*)

先日、「戦場のメリークリスマス」4K修復版を観てきました。ヨノイ大尉(坂本龍一さん)が軍紀を乱した部下に切腹を命じたり、俘虜たちに48時間断食する “行” を命じると自分も同じように断食をする姿は、異様なストイックさと内的イメージ(武士道など)の強さが立ち昇っています。

対して、収容されているジャック・セリアズ少佐(Mr. デビッド・ボウイ)らは、人道的な対応を求め続けます。ロレンス(Mr. トム・コンティ)は「俘虜になることは恥ではない。そうなることもある」とハラ軍曹(ビートたけしさん)に穏やかに伝え続けます。戦場で出会うのでなければ、どんな建設的&創造的な火花を散らしたんだろう?と、おもわず想像してしまいます…(´ー`)

本日は、「戦場のメリークリスマス」を撮った大島渚監督の(大事にした)言葉から。


深海に生きる魚族のやうに、

自らが燃えなければ何処にも光はない。

これは昭和初期の歌人、明石海人の言葉で、大島渚が生涯大切にした座右の銘である。

明石海人は1901年の生まれ。音楽、絵画、テニスを愛し、赤いオートバイを乗り回す快活な小学校教師だった。しかし、結婚して二人の娘にも恵まれた25歳の彼を、突如ハンセン病が襲う。今では完治する病気だが、当時は癩(らい)病と呼ばれ、効果的な治療法はなく、また何より社会の偏見にも苦しまなければならない難病であった。悪名高い癩予防法ができたのは、海人が発症して5年後のことである。

名前を捨て、家族と別れ、施設での隔離された生活。少しずつ視力を失い、手足の不自由や呼吸困難に苦しみながら、海人は創作活動を開始する。当初は俳句や詩、エッセイなども書いていたが、教員時代から親しんだ短歌に次第に重点を移し、その才能を開花させた。37年の短い生涯の中での絞り出すような彼の短歌は多くの人の心を打った。

癩は天刑(てんけい)である。
加はる苔(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患(くげん)の闇をかき捜つて一縷の光を渇き求めた。――深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はない――さう感じ得たのは病がすでに膏盲に入つてからであった。齢三十を超えて、短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもつて感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぷ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあつた。
(村井紀編『明石海人歌集』岩波文庫 2012年)

海人の代表的歌集である『白猫』の序文に出会った若き日の大島渚は、雷に打たれたような衝撃を受け、生涯この言葉を大事にしようとそのとき決めたという。常にむさぼるように本を読み続けた大島は、古今東西の名言・箴言(しんげん)にそれこそ浴びるほど触れたはずである。なぜあえて海人だったのか。京都大学で学生運動、学生演劇に明け暮れる日々の中、彼は、「この不条理な世の中と自分はいかに折り合いをつけていくのか」について絶えず煩悶(はんもん)していたことを、著書の中で告白している。突然の病、そのたった一つの「天刑」で、名前も家族も職業も自由に歩き回ることも奪われた人生、これ以上はない不条理の中で、自分に光をあてられるのは自分しかいないと叫んだ海人の言葉は、その心情とぴったりと合ったのだろう。

世に出てからの大島は、自分のサインには名前だけでなく必ずこの言葉を書いた。今でも思い出すのは家族旅行に行った先で、お世話になった方々からサインを求められたときのことである。遠慮がちに差し出された色紙は十数枚。母、小山明子は「夢」「愛」「一期一会」などの短い言葉を添え、スラスラ書いてさっさと自分のノルマを終わらせる。一方、父、大島渚は、例の長い言葉を一文字一文字丁寧に書きつけていく。その様子は、一枚一枚のサイン色紙を自分の作品のように愛でる職人のようでもあり、学校の宿題を馬鹿丁寧にやっている小学生のようでもあった。せっかちな母は、「パパ、まだあ?」といつも焦れていた。(つづく)

大島武

◆◆◆

世の中は自分にとって都合のいいものとは限らない。

不条理なものなんだ。

大島渚は6歳で父親を亡くした。農林省の役人で、水産試験場の場長だった父親がいた瀬戸内海での暮らしは、海辺の太陽が輝く、明るくて豊かなものだった。しかし小学校一年生のときの父の急死で、生活は暗転する。大島はその時に、世の中は自分にとって都合のいいものとは限らない、ということを自覚したという。

母親の実家のある京都に移り住んだ一家。それまでの明るい陽射しに満ちた生活とはうってかわった、細い路地の奥の長屋住まい。31歳で未亡人になった母と、まだ1歳の妹との三人での、ひっそりとした暮らしだった。そして母親は、家の表札に「大島渚」と6歳の少年の名前を掲げた。それは、明治生まれの女からすれば、ごく当り前の行為だったのかもしれない。家長が死んだ今、家を代表するのは6歳だろうがなんだろうが長男であることは間違いない。しかし、父親を亡くした少年にとっては、それが不条理でなくて何であろう? 父は自分の少年時代について、こんな文章を残している。

夢みるとき
ぼくは、からだも心も弱い少年だった。特別に何かの病気を持っているわけではなかったし、身長も体重も人並みだったが、駆けっこをするといつもビリだったし、相撲をとれば年下の少年にもコロコロ敗けた。自分から進んで喧嘩をするなんてとんでもないことだったし、機嫌が悪くなった友だちになぐられても無抵抗で泣いているだけだった。
自分で、自分は虚弱だと信じこんでいたのだった。6歳の時に父が死んで、それまで住んでいた瀬戸内の海辺から、京都の下町へ移ってきた異邦人だったことにも原因があったかもしれない。(中略)
そんなぼくにとって、最大の夢は自分がある日突然強くなることだった。(中略)毎晩ふとんに入って本を読み、いよいよ電気を消して寝る時になると、ぼくは必ずスポーツの万能選手になって学校でのヒーローになるストーリイをひとつ考えるのだった。その一篇のストーリイが終ると、ぼくは安心して夢路をたどるのだった。
(大島渚著『日曜の午後の悲しみ』PHP研究所 1979年)

自らの能力に絶対的な自信を持っているかのような、後年の大島渚からはまったく想像も出来ない、気弱な男子の姿がそこにある。強くなりたい……そう願って過ごした日々。戦時下の社会は、平時以上に肉体的な「強さ」が重要視されていただろう。そして日本は、徐々に戦争の色を濃くしていく。昭和16年、父が9歳の時に日米開戦。京都は空襲からは免れたものの、庶民の生活が困窮していったのは日本中どこも同じであった。

父にとってのもう一つの不条理。それは言うまでもなく、中学校2年、13歳のときの敗戦だ。戦争に負けたことを不条理と感じたわけではない。終戦後に教科書の墨塗りを体験し、それまで信じていた大人たちが言っていたことが全部嘘だったとわかったことこそが、不条理だったのだ。

その後の父の人生を思う時、人格形成にこの二つの体験――父親の死と敗戦――が、大きな影響を及ぼしていると思う。死が今よりも遥かに身近にあった時代、それはとりわけ珍しい体験ではなかったかもしれない。しかし父は、自分を守ってくれたかけがえのない肉親を亡くし、さらに国家というものを信じられなくなったとき、自ら武装し戦わなければ道を拓くことはできないと感じたことだろう。

ある日突然、自分が強くなることを夢見ていた少年は、決意したはずだ。

突然や偶然ではなく、自覚的に強くならなければならないのだ、と。

大島新

『君たちはなぜ、怒らないのか 父・大島渚と50の言葉』(大島武/大島新・著、日本経済新聞出版社、2014年)より


入院していた時、同じ病棟にいた書道家の女性に書をしたためてもらったことがあります。「ひとりの火の燃えさかりゆくを」という種田山頭火の句です。朱色の和紙(折り紙)に筆でさらっと書いて、朱肉で印も押してくださいました。その頃の自分にしっくりきて気に入ったので、マグマをモチーフにしたハワイアンキルトの図と一緒に額に入れて飾っています。(ハワイアンキルトって、プルメリアやモンステラなど草花やウミガメがモチーフのイメージでしたが、赤と黒の、おそらくダイヤモンドヘッドの噴火口から流れ出るマグマなのですが、そんなのもキルトの題材になるんですね♪)

「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう!」と言ったのはどなただったのか忘れましたが、自分が灯りをともしたり、発光したりする必要があるときってあるのかもしれません。

武装をするかどうかはわかりませんが、「戦う」「自分で道を拓く」「自覚的に強くなる」ということを選ぶときもあるかもしれません。そのときの拠り所は、(他人の決めた事じゃなしに)自分の思考・判断と覚悟なのではないかなぁと感じています。

自分の判断で、覚悟をもって態度で示した劇中のセリアズ少佐の美しい顔(崇高さたたえる顔付き)が脳裏から離れません…( ˘ω˘ )

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