生活時間と「ケアレス・マン」

こんにちは(^^)

本日は、夏も近づく八十八夜&メーデー(May Day)、メーデーは世界各地で労働者の祭典がおこなわれる日なのだそうです。1886年5月1日に、一日12~14時間働くのが当たり前だった当時、シカゴでの8時間労働制を要求したストライキがはじまりです(参照:Wikipedia)。むかしから労働者はすこしずついろいろな権利を獲得してきて、現在があるんだなぁ。福利厚生、大事。


朝倉は、職場の労働者のモデルは「ケアレス・マン」だと語る。「ケアレス・マン」とは、杉浦浩美が『働く女性とマタニティ・ハラスメント』(大月書店、2009年)のなかで使っている言葉で、他人のケアに責任を持つことなど想定外であるような労働者という意味だと朝倉は語る。

さらに朝倉は、男性は、自分が誰かのケアをしていないだけでなく、自分のケアを誰かにしてもらっている存在なのだと語る。妻が育児や介護を担っていれば、夫である男性は、それらのケア労働から解放される。さらに妻が料理を作り、掃除をし、洗濯をし、アイロンをかけ、日常のこまごまとしたタスクもこなしてくれれば、夫である男性は、みずからの時間を最大限、企業のために捧げることができる。

しかし、「ケアレス・マン」を職場の労働者モデルとすることは、三つの意味で問題だと朝倉は指摘する。

第一に、働きかたが「ケアレス・マン」レベルに達していない労働者を排除してしまう。女性に限らない。病気や障害のある労働者、妊娠・出産する労働者、家族のケア責任を抱える労働者、そういった労働者が「二流労働者」と評価されてしまう。

第二に、ケア労働は生物としての人間にとって不可欠な労働であるにもかかわらず、それが女性に不均衡に押しつけられることによって、女性の労働する権利(有償労働の権利)が侵害されている。そのなかで社会の持続可能性が損なわれている。

第三に、労働者自身が、健康を維持し、市民的活動に参加する時間を奪われる。

そのうえで朝倉は、「ケア労働」を、誰かに押しつけられるものではなく、社会にって重要な労働だと位置づける。そして、「ケア時間」「教育時間」「社会的時間」のそれぞれが人間にとって必要な時間なのであり、それらの時間を確保するためにも、有償労働に取られる時間は制限されなければいけないと語る。

「ケアレス・マン」の話というのは、それら必要な時間を奪われている人たちです。「ケアレス・マン」はいくら会社のなかで評価され、高い賃金を得たとしても、人間としてはかなり惨めで不幸な存在であるのではないでしょうか。

上西充子

『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)より ※「ケアレス・マン」という言葉は、2015年に毛利勝利・朝倉むつ子・浜村彰の三人の労働法学者がおこなった座談会「いまなぜ生活時間なのか?」(司会:龍井葉二)のなかで朝倉さんが紹介しているとのこと。


「働き方改革」という言葉が上滑りしてる感が拭えないのは、根本のところで基準となるモデルにそもそも無理があるからだと、はっきりわかりました…! これでいうとわたしは「二流労働者」で、たしかに、フルタイムのパートで目一杯働いても一人で暮らせるほどには稼げませんでした。

I wish everyone had more time for care of himself/herself ☆

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