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怒る権利

こんにちは(^^)

喜怒哀楽の「怒」だけが、所在なさげな気がします。そりゃ、怒ってる人の近くには寄りたくないし、怒られるのも嫌だし、自分が怒ってしまったあとに「うわちゃぁ…(>_<)」と自己嫌悪に陥ることもありはするけれど、れっきとした、必要な感情です。むかし、自分の代わりに怒ってくれた友人に救われたな~てこともありましたし。「そこ、怒るところじゃないの!?」と思うこともけっこうあるし…!


「そんなにうまくいくでしょうか」と言ったら「大丈夫です」と断言された。そんなに言い切って大丈夫なのか。

 ついでに、クマが最近になってかなり反抗期らしい反抗期を迎えてきたことも話した。「3歳になる下の子が、何かにつけて嫌がり、とても激しく怒るんです。つられて私も大声を上げてしまい、あとで嫌になります。どうしたらいいでしょうか」と。

 リータの答えは次の通りだった。「あなたにもお子様にも、怒りたいときに好きなだけ怒る権利があります。ただ、怒りで他人を動かすことはできないことも、同時に学ばなければなりません」

「怒りで他人を動かすと、その人間関係は壊れるでしょうし、ヘルシーなものにはなりませんね。お子様にはそのようにわかりやすくお伝えなさってはいかがでしょうか。怒ってもいい、でも私はあなたが怒ったところで対応は変えません、と」

「もちろん、あなたご自身も、怒りでお子様を動かすことはできません」

「お怒りの際は、お子様に大声を上げるのではなくこちらにお電話ください」

 怒っちゃだめ、と言われるのかと思ったら違った。でも、「怒るな!」と言われるより厳しいかもしれない。

 3月の初めに、リータがうちに来た。私が電話をかけたときに「じゃ、そのうちお宅に伺いましょうか?」と提案され「ぜひ!」とお願いしたからだった。リータは小一時間、体調から子育てまで相談に乗ってくれた。

 それから一カ月して、私はまたリータに、一時間くらい相談に乗ってもらった。話題は「私が子どもに怒りすぎる」ことだ。どう考えても、親が3歳や7歳の子どもに激昂するなんてヤバい。でも怒り出したら止められないし、わりとしょっちゅう腹の立つことが起こる。どうしたらいいんでしょう。

 リータの答えは、私が想像していたものとは少し違った。

 まず言われたのは、「母親は人間でいられるし、人間であるべきです Mothers can be, and should be, humans!」ということだった。

 次に、怒るのはOK。むしろ怒り方によっては子どもへの教育につながる。なぜなら、怒りや悲しみを表現することによって、子どもに「あなたがこういうことをしたり言ったりしたら、相手は怒ったり悲しんだりする」と教えることになるから。それに、今のあなたはどう考えても ruuhkavuodet (peak years 人生の繁忙期) なのと、怒るときは困っているときであることを考えると、何かと腹が立つのはおかしいことではない。

 そもそも怒ること自体に問題はない。怒り自体には破壊的な要素はない、それが虐待的な言葉や行動に結びつかなければいい。感情それ自体はいいも悪いもない、ただあるのだから、と。そして「あなたがどんなときにも母親として我慢しなければならないと思ったり行動したら、あなたの子どもたちに『母親というのは何があっても我慢しなければならない存在だ』教育してしまうことになります」とも言われた。いや、まあ実際そんなに我慢していない気がするのだけれども。

 で、その上で腹が立ったり怒ったりしたときの具体的な対策として、以下のことを提案された。

1 「tunepuhe」(emotional speaking 自分の感情を言語化すること) & 自分へのタイムアウト

「母ちゃん今めっちゃ腹立ったわ! せやしちょっとトイレ(庭・寝室・玄関などどこでも)行ってくる!」と言って席を外しましょう。子どものいないところで物を投げるなり枕を殴るなりご自由に。

2 「selvittely」(rewinding ときほぐし)あるいは「vertaissovittelu」

 こういうことで腹が立った、と確認しましょう。「母ちゃんがさっきこう言ったとき、あんたこう言い返したやん、あれがこういう具合で嫌やってん」のように、過去のどの発言や行動に自分が腹を立てているか説明し、相手側からの説明も求める。お互いに過去に起きたことについて共通の理解に達しましょう。

3 謝罪

 もしあなたが abusive な発言・行動をしたと思うなら、その点について謝罪しましょう。子どもは身近な人間から、怒りの表現方法と謝罪の方法を学ばなければならないので、あなたがその手本になります。

 フィンランド語講座っぽい感じすらあった。リータ、あんまり表情が変わらないし基本的に理屈通りのことしか言わないけど、あんたほんま、ヘルシンキ市に雇われてる天使やで……。

 リータのアドバイスに感銘を受けつつ、それにしても私は、親がやるべきだと考えられていることが多いような気がしてならない。怒ること一つにしたって、ただ怒鳴ればいいわけではない(とりあえず別室に行けばいいっぽいけど、その後のフォローが必要)。でも、感情の赴くままに怒鳴ったり物を投げたりしたら、毒親街道まっしぐらだ。

 それにしても、どういうときに毒親が生まれるのだろう。私の祖父母は、彼らの子供たちにとっていい親とは言いがたかったのではないかと思う。母方の祖父は、祖母以外の女性と何度も恋愛関係にあった。父方の祖母は、自分の娘を住み込みで働かせ、娘の給料の大半を持って行った。父方の祖父に至っては、家の金を持ち出して賭博に使い込み、自分の妻や子どもたちを殴っていた。

 今だったら、3人とも毒親どころか、児童虐待で事件になりそうだ。それでも、父方の祖母は父や伯父・伯母たちから深く尊敬されていた。父方の祖父は自分を殴った彼の次男(=つまり私の伯父の一人)を、父親に手を上げた息子だと言って許さなかった。母方の祖父は、母から手厚く介護され、多くの人に見守られて死んだ。

 私は私の父母について、人格的に問題がないとか、社会的に立派だとかいうつもりはない。彼らは自分の親を毒親と呼ぶ必要もなく、教育を受け、就職し、結婚して子どもをもうけ、退職するまで職業生活を送った。私の親世代と比較してさえ、家族に期待される役割が大きすぎるのではないのか。

 私は、子育てが負担ではないのだ。大変なことも多いけれど、子どもの育つのを見るのは面白い。何より、私が子どもを愛する量より、子どもが私を愛する量のほうがずっと多い(愛というより依存ではないかとも思うけれども、私には愛と依存をどこまではっきり線引きできるのかわからない)。

 忙しくても、子どもたちを通じて私が経験することも多いし、そこから示唆を得ることもある。子どもたちがいなければ、この文章も書けなかった。トータルしたら十分、もとはとっている。

 私は、自分がこの人たちにひどいことをしてしまうことと、その権能が自分にあることが嫌なのだ。子どもが親にしか頼れないのなら、親の権力はなんと巨大だろう。

 子どもを産んでも産まなくても、育てても育てなくても、どういうふうに育てても、どこかから何か批判されたり嫌なことを言われたりするなら、誰が子育てなんてしたいと思うだろう。毒親を大量生産する仕組みが、近代化と一括りにざっくりと呼ばれてしまう仕組みの変化の中にあるから、こんなに家族が問題にされるのではないのか。

 いや、家族に殺された人は近代化以前にもたくさんいただろう。家族は牢獄にもなりうる。家族に傷つけられ、家族を負担に感じる人が多いのは、家族に課される役割が大きく、そこに家族ならざる人の介入する機会が限られているからだ。

 近代家族は毒親を生む。親の権力と、親を批判することのできる規範の両方を生む。子どもの就労が遅かったり子ども世代が経済的に親より困窮したりして「独り立ち」が遅くなるなら、子どもが親子関係について思い悩む時間や機会はより一層増えるだろう。

 私はたくさんの人との関係のなかでのみ、まともな人間でいられる。私は、私を恐れさせ、緊張させ、恥入らせる人々の前でのみ、なんとかまともに振舞うことができる。そうでなければ、私は自分の持つ力に酔い、傲慢に振る舞い、誰かを傷つけてもなんとも思わないだろう。

 子どもと親だけの関係は、危険だ。社会がーーつまり、制度と規範と多様な人間関係がーー介入してくれなければ、私は子どもたちにとって危険な存在になる。

 親が不安定だと子どもも不安に感じるに違いないから、私はいつだって強くてどっしりして、ユキとクマにとって頼れる母ちゃんでありたい。でも、私は全然そうなっていない。私が安定するためには、私自身の人格を陶冶したり、モッチンといい関係を維持したりするだけでなく、時間とお金の余裕と、私が困ったり苦しんだり眠れなくなったりするときに助けてくれる人や仕組みが必要だ。

 リータは最近、私に教えてくれた。私がコントロールすべきなのは、子どもたちではなく自分自身だと。子どもの面倒を見るということは、子どもの世界に私が入ることではなく、子どもが子どもの世界を楽しむのをただ見守ることだと。

 私が大人になればなるほど、私は子どもにとって安全な大人になる。そして、そういう安全な大人を子どものまわりに増やすことで、子どもたちは頼る具体的な相手を見つけられる。だから、ソサエティ(この場合は人間集団と社会福祉制度)が大事なのだろう。

 ユキが小さかったとき、私はあの保育園でユキを見てもらえてよかったと思う。私が眠れなくなったとき、健康診断と電話相談と育児相談を無料で受けられてよかったと思う(なお、健康診断の結果を見たかかりつけ医は「数値が良すぎる」と笑い、「で、このパーフェクトヘルシーなあなたは、私に何をしてほしいというんですか」と言った。あれは北欧ジョークだったのかもしれない)。だから私は、ユキとクマに、世の中の人はだいたい頼りになる、向こうから寄ってくる人は怪しいけど自分から助けを求めたらだいたい誰かが助けてくれる、いざとなったら世の中の仕組みに頼りなさい、と教えたい。

 誰かにずっと助けてもらわなければ、私はーーもしかしたら、少なからぬ人々がーーあっという間に毒親になってしまう。子どもと、その子どもを主に育てる人の他に、どれだけ多くの人が関われるかによって、きっと子育ての内容は変わる。

朴沙羅(ぱく・さら)

『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房、2021年)より


「自分の怒り方が、むかしの親の怒り方と同じなの自覚して嫌だ~!」という人はけっこういるみたいです。そうか、身近な人から、一種の表現方法として刷り込みみたいに学ぶ(学んでしまう)んだなぁ。

瞬間湯沸し器、溜め込んで溜め込んでさいご大爆発、ネチネチしつこく責める、口元笑ってるのに目元笑ってない、恫喝、睨み付け、その他。みなさま、どんな怒り方でしょう? そして、怒りの感情それ自体はいいも悪いもないのだとしたら、「あいつとは金輪際関わりたくない、自分の預かり知らぬところで生きてることは許してやる」との思いを抱えることは、問題ないでしょうか。

怒るべきときに怒らない(波風立てたくない、見て見ぬふり、自分の感情に蓋)というのも嫌だな、と個人的には思います。

I want to control myself, anger is NOT evil in itself ☆


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