見出し画像

着物に袖を通してみると…

こんにちは(*'▽')

今月、落語を観に行く予定でいます。天候がゆるせば、浴衣を着たいなぁと目論んでいます…(*´▽`*) 前々回は、タートルネックセーターの上に着物を着て、ショートブーツとダボッとしたロングコート&スヌード着用しました。手持ちのもので、和洋折衷。


洋服文化は、“白人の美女”(または “白人文化圏の黒人美女”)という美の基準があり、そこにどれだけ近づくかを目標にする文化です。だから、私たち日本人女性もそんなプロポーションを目指して必死にダイエットし、その顔立ちに近づくためのメイクを追求したりしています。そういった努力は、女の子の楽しい特権でもあり、豆千代も否定するものではありません。

ただ、着物は洋服に比べてぜんぜん楽ちんです。他の人から “素敵” と思われる着こなしを誰もができます。なぜなら着物はその人の人柄が鏡のように映るからです。その人の持って生まれたキャラクターがにじみ出てきます。そこが着物の最大の特徴です。その人それぞれの味がベストの形で出るわけですから、ひとりひとりが頂点です。どんな美人もかないません。

これが洋服だったら、もし同じものを着ている人に出会ったら「あ、同じ服だ」で終わってしまいますが、着物は着る人によって、劇的に違います。2003年の夏、「豆千代モダン」の浴衣をたくさんの人が羽織ってくれました。シンプルな水玉の浴衣なのに、洋服っぽくポップに着こなす人から、「粋だねえ」とため息が漏れるような着こなし方をする人まで千差万別でした。それほどに着る人のキャラクターが出てしまうのです。同じ着物を着てさえもここまでぜんぜん違ってくるんですから、これが別の着物だったら、ましてや帯や小物の組み合わせまで考えたら、もうこれは無限の楽しみと言えるでしょう。

その人だけにしか表現できないものを着物が映してくれるということは、逆に言えば、着物はそれ単独では完全ではないということです。豆千代は、着物のそんなところも好きなんです。着物はそれ自体完成していながら完全ではない。人が着て初めて、深いイメージを立ち昇らせる。それが着物というものの魅力だと感じています。

しかも、素のキャラクターそのままではなく、なんとプラスアルファを加味して、少し素敵におめかししてくれるのです。「着物を着ると、なぜかいつもより美人気分になれる」と感じるあの感覚は、着た人ならだれもが共感してくれるでしょう。特にアンティーク着物にそう感じるものが多いのも不思議なところです。

着物は、時の流れをゆるやかにします。

せかせかした日常をなかば強制的にリセットできるのは、着物のよさです。着物は、仕度にもある程度の時間が必要ですから、お出かけ前はいつもより余裕をもって仕度することになります。また動きに制限がある分、ばたばた走ったりしなくなり、自然とおしとやかになります。

でも、そういった強制的(実務的)な理由だけではありません。たとえば、着物の柄には四季の草花が描かれています。その時期に合わせて着ようとすれば、自然と近所の家の植木に眼をやるようになり、花屋さんの店先が気になります。同じように、節句や衣替えなど四季の移り変わりにも敏感になってきます。私が着物を着始めたころ、これまでの自分の日常にはそういった余裕がなかったことに気づかされ、ずいぶん驚きました。

また、日常を着物で過ごしていると、自然に「お花でも飾ろうかしら」とか「和食でもきちんと作ろうかしら」なんて気にもなってくるから不思議です。着物を着ただけで、生活リズムまでゆったりしてくるという変化が起きるのです。

着物は、あなたの視点を変化させます。

着物という日本の文化は、お茶や、お料理や、芸能や、生活のすべてに繋がっています。だから、着物を着始めると、あなたはいろいろなことに突然興味を持ち始めた自分に気づくでしょう。豆千代もそうでした。

まず、着物が似合う場所を探し、神社仏閣の境内を訪れ、そのうち千社札に興味を持ち自分用のを作ってみたり、大仏に興味をもったり、スタンプラリーのように御朱印を集めたりしました。

「ヴォーグ」などのファッション誌を見る感覚で日本画や浮世絵を見に美術館へ通い出しました。昔の人は着物でどんなふうに掃除や洗濯をしていたのかを知りたくなり、風俗資料館を巡り始めました。江戸の生活にタイムスリップしたくて、落語を観に行くようにもなりました。

このように、自分の内面が変化して、興味の対象がどんどん広がっていく体験は驚くほど新鮮でした。

一方で、自分が今暮らしている所が「日本」なのだと強く意識するようになってきます。外国人の眼で街を見回すと、見慣れた風景が一気にエキゾチックジャパンと化します。近所を散歩しても、小さなお地蔵さんを見つけたり、和洋折衷の建築物に気づいたり、いろんなものが見えてきます。古いものばかりではありません。たとえばパチンコ屋さんの蛍光色の看板や、のび太くんの家のような、普通の家屋が実は日本独特のものだということにも気づきます。

着物を着るだけで、あなたは新しい、豊かなあなたに変わります。

日本人は江戸時代まではのんびりと暮らしていました。「日本男児たるもの、常に一文字に口を結び、人前で笑顔など見せてはならない」なんていうのは、明治に入り謹厳実直なドイツをお手本にしてからのことで、それ以前は男性もよく笑い明るかったようです。

なにかに追われたり急かされたりすることのない生活、毎日が面白おかしくゆっくりと過ぎていく生活――そういう人生を江戸の人たちは送っていた気がしています。

そんなゆったりした時間軸で現代を暮らしていけないだろうか。着物を好きになるにつれ、そう思いはじめました。古地図を片手に着物姿で江戸をしのんで東京を歩いたり、当時の面影を残す場所があると聞けば、わざわざ友達と着物姿で遠出して撮影会もしました(P19参照)。

中でもおすすめのタイムマシンは、落語です。落語の中の登場人物って、物見高いですよね。けんかしているのを見たら仲裁したり、または最後まで見届けようと立ち止まったりしています。でも現代は、そうもいきません。そういうことに遭遇しても素通りしてしまいますよね。私はそうでした。

でも、江戸の時間軸が自分の中を通った後は、街にネコがいたらちょっと頭をなでてから通り過ぎたり、新しいアンティークショップができていればちょいとひやかす。そんなことができるようになりました。

ある日、近所の鉢植えにこんな張り紙がしてありました。「この月下美人、今晩咲きます」。その夜私はそこへ行きました。静かに咲く月下美人を見つめているその時間は、何とも素敵なひとときであり、その張り紙をしようと思ったその人の心も、まさに江戸の時間軸を生きている気がしました。「フットワーク軽く、いろんな所へ出かけるべし」というのとは少し違います。豆千代は、お休みの日に外にも出ずに一体どれくらいゴロゴロしてられるか試してみようと、実験をしたことさえあります(笑)。「だらしなく過ごせ」というのでもありません。「自分の興味を持ったことを追求してみる」、「自分の好奇心を我慢しない」、そんな提案です。

豆千代

『豆千代の着物モダン  Mamechiyo's kimono modern』(マーブルブックス、2003年)より


知人に、自粛生活を機に、出かける目的でもなく自宅で着物を着て過ごしている方がいます。洗い物や料理をするときはたすき掛けしたり、割烹着着たりしているのかな? リモートで喋った時は、畳のお部屋の背景とマッチしていました!

わたしは着物の着方を、短期間の日本料理配膳のアルバイトのとき覚えたのですが、さいきんでは Youtube動画で帯や帯紐の結び方を見てせっせと練習しているというのが多いです。着物や小物はもらったものや、リサイクルショップ、骨董市のもの。配色や柄を眺めるだけでも、楽しいです(^^)

ことしは浴衣を着て出かけるようなイベント、花火大会もなく、依然ステイホームが推奨されていますが、上の写真の浴衣女性もどこかに出かけるために浴衣を着ているのではないみたいです。着て過ごすこと自体を楽しむというのもいいですね♪

Let's wear kimono, Japanese culture... What can you see ??☆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?