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「虫とゴリラ」から ~ゴリラ編~

こんにちは(*'ω'*)

「おぅ、俺はイノシシを仕留めたぜ」「俺はクマ仕留めた。おまえは?」「俺はマグロ釣ったぜ」「…うん? 見ない顔だな。おまえ達はなにを獲って暮らしてるんだ?」「わたくしどもは、『稲』という植物を育て、それを食してございます」これがホントの「のうこう(農耕)接触」、という小噺を柳家喬太郎師匠がされています…(*´▽`*)

「濃厚接触」なんてことば、2年前は存在もしなかったのに。通学路を歩く小学生達も「ソーシャルディスタンス~!」と言ってワイワイやっていました。人肌恋しいと感じる人もいる季節近し、触覚の復権はいつに??


山極 毛が短くなって何が変わったかというと、「毛繕(づくろ)い」ができなくなりましたね。ニホンザルやチンパンジーを見ていると、年がら年じゅう毛繕いをやっています。毛繕いをし合うことで、親しく共存できる。それがなくなるということは、毛繕い以外の、何らかのコミュニケーションをかんがえなければならなくなった。

養老 私はそこが、ひょっとすると、まだ出来上がっていない気がするんです。人はこういう社会をつくりましたけど、触覚を非常に無視しているんですね。いちばんはっきりしているのは、「コンクリートの都市」です。触覚って、哺乳類になってから非常に発達するんですけど、人間がつくっている社会では、触覚は比較的利用されないんですね。コンクリートのビルなんて、誰も触る気がしないでしょう。触ることを拒否していますよね。

私は鎌倉で育ったので、子どもの頃、お寺でよく遊びましたけど、柱や欄干なんかはぜんぶ木で、つかまったり、ぶらさがったり、けっこう楽しい環境でした。今はどこもコンクリートでしょう。下手をしたら怪我しますよ。コンクリート打ちっぱなしの建築とかね。あんなもの、よくつくるよと思うんです。

山極 考えてみると、動物園の猿山は、19世紀からずっとコンクリートなんですね。最初にロンドン動物園がコンクリートでサル山をつくった。ヨーロッパにはサルがいないので、どんな環境にいる動物なのか、わからなかったんでしょう。樹木の少ない岩山にいるマントヒヒが昔から知られていたから、サルは岩山に棲んでいるとみんな思っていて、そこで、掃除がしやすく、見物もしやすい岩山をコンクリートでつくって、そこにヒヒを棲まわした。そうしたら、ヒヒの手足が血だらけになっちゃって。それで、おがくずを撒いたり、地面を半分土にしたりするわけだけど、自然の岩ならどうもないんですよ。コンクリートだからまずいわけです。ところが、世界中の動物園がずっとそれを踏襲して、コンクリートでサル山をつくり、エサを撒いて、糞だらけにして、洗剤を撒いて掃除するっていうことを続けてきました。健康に悪いこと甚だしいんだけど、日本では最近やっと改められましたね。

養老 コンクリートっていうのは一種の「触覚の忌避」ですよね。「ペンフィールドのホモンクルス(小人)」ってあるでしょう。脳の地図。身体のどの部分が、脳のどの部分に対応しているか地図にして、そのまま人の形に描き起こすと、唇と手、指先が非常に大きい姿になるんです。それほど触覚は、脳の中で大きな面積を占めるのに、あまり利用されない。

じつは触覚って言語をつくりやすいんですよ。「点字」がそうでしょう。普通の人は麻雀牌の模様ぐらいしか知らないんだけれども、点字をやってみるとわかるように、言語ができちゃうんです。触覚だけで。あるいは下町の工場の熟練工が、手で触るだけで10ミクロン単位以下の凹凸を感じるっていう話、よくありますよね。触覚というのは信じられないくらい精度がいい。脳を大きくして、言語能力まで持っているのに、触覚の文化がまだ出来上がっていないというのが、私の意見なんですよ。

山極 人類最初の壁画って「手の形」ですよね。壱判古いのは4万年前のもので、インドネシアや、ヨーロッパでも発見されていて、色を吹きかけた手の形がいっぱい壁についている。手というのは、まさに触覚の入り口ですよね。

ゴリラやチンパンジー、オランウータンも、彼らは他の個体と触れ合う時に、手を使うんです。ただ人間と違って手の「甲」を使う。というのも腕を前に伸ばすと、手の指が内側に曲がってしまうんですね。そうやって指のフックを安定させて、木の枝につかまっているわけです。人間の場合、腕を伸ばしても、手の指を自由に動かせます。枝につかまる能力の代わりに、細かな器用な手になったのは確かなんですよ。触覚を通じて、人間と人間が、あるいは人間とモノが触れ合うっていうことが、非常に多彩に起こっていたのかもしれません。それが今、養老さんがおっしゃるように、忌避されてしまうのはどうしてなんでしょうね。

養老 触覚の「直接性」が人間には嫌なんでしょうね。じつは感覚って、すべての五感が二重構造になっているんです。視覚は目の網膜の他に、光受容細胞を持つ松果体(しょうかたい)があります。これ、鳥までは間違いなく光受容をして脳につながっていたんだけど、哺乳類では脳との関係が切れちゃっていて、性周期や日照時間といった、自分の体のいわば生物時計としてはたらいています。聴覚の場合、音を「聞く」ようになるのは生物が陸に上がった後だから、わりに新しいんですね。だけど、体の平衡や、重力を感じる半規管や前庭器官はかなり古い器官です。さらに受容器だけではなく、自分の身体全体で、加速度を測ったり、音の振動を感じている。そこも二重になっています。

触覚もたぶんそうなっていて、もともとは温痛覚で感じる「痛み」ですが、熱いとか冷たいとか、肌感覚であるとか、自分の身体とまさに関係し合います。嗅覚、味覚にも、フェロモン物質のように、我々が意識ができるもの、できないものがあって、それぞれに末梢神経が違っています。自分の身体に関係するもの、あるいはその原始的なもの、もっぱら外界の情報を受け取るもの、五感というのは、それらの二重構造になってると考えたほうがいいと思うんですね。

(中略)

山極 なるほどね。社会的な理由で分けられているんですね。ダイレクトに見る。ダイレクトに聞く。ダイレクトに触る。とりわけ触覚は、誤解が生じやすい(笑)。おっしゃるとおり、触覚というのは、非常に直接的ですね。

人間の赤ちゃんはまず最初に、周囲の世界を触覚で捉えますよね。次は、何でも口に入れてなめてみたりして、味覚で捉える。そして、嗅覚っていう具合に、だんだんと自分の身体と離れたものを、理解の対象にしていくわけですよね。その過程を十分に行わないと、総合的な判断を身体ができなくなるんです。さいごに視覚がくるんだと、僕は思いますけどね。逆に、人間の身体の信頼性というのは、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚の順で薄れていく。子ども時代はそういうものをつくり上げていく時代なんですね。その時に、周囲がその感覚を押しとどめて、発揮させないでいると、その子どもは、自分の中できちんと納得をしながら、世界を理解していくことができなくなる。

ゴリラの集団を見ていて面白いのは、昼寝などの時、ベッドをつくらずにいっしょに眠る時にはね、お互いにみんな体のどこかが「接触」しているんですよ。これは犬でも猫でも、ペットを飼っているとわかります。飼い主の足元に来てちょこっと触れる。この体でつながっているという感覚は、とても重要みたいですね。

養老 重要ですね。とくに人間の子どもはそうですよ。

山極 「お母さん、手をつないで」って言いますでしょう。あの感覚は非常に根源的な、個体と個体のつながりを表していると思います。人間同士だけではなく、その先にある世界そのものとつながっているような安心感がありますよね。人間が根源的に求めている感覚なんだと思います。人間の場合、「手でつながる」ことが第一になるんですけれど、動物には蹄(ひづめ)しかない手もありますからね(笑)。尻尾でつながったり、胴体でつながったり、ゴリラは「腹」でつながります。でっかい腹をくっつけ合って、つながっているんです。

そういう「感覚」というのは、何なんだろう。まだきちんと検証されていません。

検証されないまま、現代では「脳でつながる」ことが当たり前になって、子どもたちがスマホを手離せないのは、そのつながっている感覚を保持したいがためなんでしょうね。

最近、気がついたんですけど、ゴリラやチンパンジーは、一週間でも集団を離れてしまうと、もとに戻れないんです。彼らの群れは体の接触を通じたつながりで維持されていて、そのつながりを絶って、いちど集団を出て行ってしまうと、その個体は「死んだも同然」になるんです。ふたたび戻る時は、「別の個体」として戻ってこなくちゃならない。

そうした経験は、おそらく、我々の中に根源的に刻み込まれている。人間はその「不在の時間」を徐々に広げていって、体と体だけでなく、モノによるつながり、さらにポータブルな言葉によるつながりをつくり出し、今では言葉ですらなく、何らかのシンボルを SNS で発信しておけば、つながっているという感覚を得られるようになりました。その「感覚」を求めていることに変わりありません。(つづく)

山極寿一 & 養老孟司

『虫とゴリラ』(毎日新聞出版、2020年)より


甥&姪っ子は、わたしが小さかった頃には考えられないくらいの積極さで、座ってるわたしの太腿の上に座ってきます。さらさらの髪、あるいはシャリシャリの坊主頭を撫でたり、こけたときに近づいて「痛かったね」と言ってさすったり、たしかに接触が最大のコミュニケーションになってる時あります。

基本的に、自分の身体が誰かに接触するのが苦手です。満員電車はできれば乗りたくないです。でも、気心知れた整体師スタッフさんに揉まれるのは心地よいのです。

自分の手の甲を反対の手(指)でさすっていることがあります。血管のぼこぼこしているのを確認するのが好きで、癖なんです。でもなにかで、緊張しているときは手を握りしめがちだから、そういうときは手の甲を刺激してあげるといいよ!というような豆知識をきいたことがあるので、無意識に自分をリラックスの方に導いていたみたいです。

「処置」「治療」「補助」というと、なんだか耳当たりが仰々しくなりますが、「手当て」というと人肌の温かさを感じられるように思います。インドで “死を待つ人の家” で活動していたマザーテレサは、貧しい人の死を看取るとき腕に抱きしめて見送ったそうです。そのとき、どんな気持ちで旅立っていくんでしょうか…( ˘ω˘ )

漠とした不安に苛まれるとき、手を動かすこと、おすすめします。包丁を手に食材を切ったり、自転車のチェーンに油さしてみたり、ガーデニングで寄せ植えしてみたり、編み物したり。脳内の不安ループから離れて、現実とのお付き合い(つながり)ができる入り口でもあるような気がします(^^)

Let's be linked with other people and this world through the sense of touch ☆

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