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「ブータン、これでいいのだ」から

こんにちは(*'▽')

ブータンといえば、なにが思い浮かぶでしょうか? GNH(Gross National Happiness: 国民総幸福量)という概念をつくり、これを最大化させるような国づくりをするというビジョンを掲げていること? 第5代国王夫妻が東日本大震災から8カ月後の福島県相馬市の小学校を訪れて、温かい&心強いメッセージを語っていらしたこと?

ブータン政府が募集した首相フェローという立場で働いた御手洗さんの目線でみたブータンはこんなかんじ!! ほんの一部ですが。


ブータンでは、「時間」というものが抽象的なモノサシとしての概念ではなく、すごく具体的なものであるのかもしれません。以前、上司がこんな話をしてくれたことがあります。「地方に行くと、何時何分、といった時間の感覚がない人も多いよ。例えば、『あの山まで歩いて行くのに何時間ぐらいかかりますか』と地元の人に聞いたとする。彼は『さぁ』と首をかしげる。なので『1時間ぐらいですかね』と聞いてみると、『あぁ、そうだね、1時間ぐらいかね』と答える。それで出発してみたら、実際は丸1日かかってしまった、なんてことはざらなんだ。でも、彼らに時間の感覚がないわけではない。例えば、彼らが『あぁ、あの山まで行く間に、ちょうど牛2頭の乳が搾れるよ』と答えたとする。そうするとそれは、ピタッと合っているんだよ」

ひょっとしたら、ブータンの人にとって「時間」というのは、いつまでもいつまでも同じ間隔で目盛が続く抽象的なモノサシなのではなく、今目の前にある具体的なこの瞬間、のことなのかもしれないのです。モノサシに沿ってずっと先まで予定を立て、その予定に従って生きたりしない。そのモノサシを自分たちの生活に当てて測ったりしない。

ブータンの人たちにとって「時間」は、もっと具体的に想像できる、感触のある「今」なのかもしれません。そしてブータンの人たちは、いつも具体的な「今」を生きている。

ブータンに来たばかりの頃は、そんな彼らの時間感覚に戸惑うことも多くありました。何しろ、会議ひとつ入れるにも先の予定が立てられない。オフィスにみんないるようだったら声をかけて会議を始める。しかし、慣れてくると、これはこれで楽でいいな、とも思います。いつも、何ごとにもオープンでフレキシブルでいられる。予定を立てすぎると、時に物事を予定通りに進めることそのものが目的化してしまうこともあるように感じます。予定通りにいかないと周りに迷惑もかかり、ストレスにもなる。予定にないことに対して寛容でなくなることもある。

でも、ここまで予定が立っていない世界だと、「予定を立てちゃったから、その通りにやらなくてはならない」というプレッシャーはありません。常に、目の前にあることについて素直に「いいな」と思えることをやっていく。そういう気楽さがあります。

日本では、ブータンは「幸せの国」として知られていることもあってか、「ブータンの人はいつもにこにこしていて、穏やかで、決して怒らない」というイメージがあるように思います。でも、そんなことはありません。ブータンの人は、喜怒哀楽を、とても素直に、しっかり表現します。そしてよく笑い、よく怒ります。ブータンの人は、逆ギレ以外にも実はよく怒るのです。

目の前の、顔の見える相手の失敗については受け入れる文化であるものの、その場にいない人や、自分が直接知らない人のことについては、「あれは本当におかしいよね!」とよくプリプリと怒っています。

(陰で怒るくらいなら、直接言えばいいのに……、と思うのですが、当人を前にすると何だか許せる気分になってしまうようです)

大きな身ぶり手ぶりで正論を振りかざして絵に描いたようにプンスカと怒り、しばらくするとケロッと忘れて笑っている。ブータンの人にはそういうところがあります。

ある日、私が仕事をしていると、女性の同僚が私の席の隣に椅子を持ってきて座り、「ちょっと聞いてよ~!」と一方的に話し始めました。彼女はしょっちゅう怒っているので「またかぁ」と思い、半分聞き流しながらうんうんと聞くことにしました。

あまりに見事な怒りっぷりなので、途中から彼女が何だか微笑ましく思えてきました。そして、つい笑いながらこう言いました。

「ねえ、知ってる? 日本の人たちはさ、幸せの国に住むブータンの人たちは、聖人のように穏やかでにこにこしていて、決して怒らない人たちだと思っているんだよ」

すると彼女は、一瞬驚いた顔をした後、爆笑して「あはははは~、そんな人いるわけないよ! 人間なんだから、笑ったり怒ったりするのは当然でしょ~!」と言いました。そして、とても楽しそうに笑いながら去って行ったのでした。

許し合い、認め合うことで、いつも堂々と自信を保っていられるブータン人(そのおかげで、なかなか失敗が直らなかったりもするのですが)。

プライドが高く、お互いのメンツを大切にするブータン人(そのおかげで、プライドが傷つけられた! とキレてしまったりもするのですが)。

よく笑い、よく怒り、ストレスをためないブータン人(そのおかげで、時に派手な喧嘩もしているのですが)。

こうしたブータンの人々の感情の扱い方は、ブータンの人が、いつもすっきりとした顔をし、人間らしく、誇り高く生きていることの秘訣になっている気がします。

ただし、小国であるブータンは、生き残っていくために国際社会との交流を今後、深めていくことが避けられません。その中で、こうした「ローカルルール」とも言える彼らの感情の扱い方は、相手にうまく理解されず、誤解や摩擦を生むこともあるでしょう。

いつでもどこでも「俺流」でコミュニケーションを取ると、時に摩擦を生んでしまう。一方で、何でもグローバル化してしまうと、自分たちのよさを失いかねない。何をグローバル化し、何を「俺流」のローカルルールとして残しておくべきなのか。どこでバランスさせるべきなのか――。

これは、私が仕事をしている中で常に考えさせられていることでもあります。

先のブータン人のホテルマネジャーの友人とは、よくお酒を飲んで仕事の話をしました。ある日、そのホテルのラウンジで「レッドパンダ」というブータン産の地ビールを飲みながら、彼はこんなことを言いました。

「ブータン人ガイドへのお客様からのクレームって、やっぱりまだまだある。ちゃんとエスコートできてないとか、気が利かないとかの指摘が多いんだ。お客様の足が泥沼にはまってしまった時『大丈夫ですか!』と心配するのではなくて、ケラケラ笑っていた、とかね(苦笑)。産業として、やっぱりトレーニングを強化していかないとね」

それに対して、私はこう答えました。

「うん。でも、ブータン人らしさがよかったっていうお客様もいるよね。言葉遣いや態度は粗野なんだけど、古くからの友人のように心温かく接してくれているのが分かる、とか。ガイドが自分の実家に連れて行って大家族全員を紹介してくれてうれしかった、とか。どこの国にもあるエレガントなエスコートだけが目指すべきものではないかもしれないよね」

「そう、そうなんだよね」

「バランス、かな」

「うん、バランス。難しいね」

こんな話題で今日も夜が更けていきます。

職場の同僚と、お葬式での祈りについて話したことがあります。まだ20代の彼女は「ブータンのお葬式で祈りを捧げる時、それは死者のためのものではないのだ」と言います。

チベット仏教について不勉強な私が「そうなの? ならば、誰のために祈りを捧げるの?」と聞くと、彼女はさらっと言いました。「生きとし生けるものすべてのため。輪廻転生で、みんなつながってるから」。それから、こう付け加えました。「あと、遺された人たちのため。遺された人たちが悲しみから救われて、前を向いて歩いて行けるように」

特に宗教の専門家でもない、「普通のブータンの若者」である彼女が、さらっとこの説明をしてくれたことは、心に響きました。彼女は「私たちは、現世のためにもあまり祈らないし、自分のためにも祈らない」とも言うので、冗談半分に日本の絵馬の話をしてみました。「日本では、神社で祈願する時に絵馬にその祈願を書いて奉納するという風習があるの。その絵馬を見てみると『志望の大学に合格しますように!』とか『彼女ができますように』とか、たくさん書いてあるよ」

すると彼女は「そんな個人的な、世俗的なこと祈るの!? 本当に!?」と驚き、少し考えてからこう言いました。

「でも、祈るほど強く願うことがそんな現世の個人的なことだったら、それがうまくいかなかった時、苦しいだろうね」

以前、日本のメディアがブータンに来た時、ブータンの人たちへのインタビューに立ち会ったことがあります。「あなたにとって幸せとはなんでしょうか」と聞いていました。(略)

政府で働いているある30代の女性は、ニコニコしながら、このように答えていました。

「今は、両親も元気だし、お姉ちゃんも最近結婚して幸せそうだし、大きな家族でみんな一緒に暮らせているし、とても幸せです」

そんな彼女に、取材陣の方が、では悩みはないのかと聞いてみると、

「もちろん、小さな悩みはたくさんあります。(ブータンでは多くの人が20代で結婚するにもかかわらず)私は三十路を過ぎているのに結婚どころかそもそも彼氏すらいないですし、仕事も最近どうもうまくいってない。私より数年後に入ってきた後輩の方がより大きな仕事を任せられていて、焦ります。それに、そろそろ留学したいなと思っているのですが、試験勉強もまったく進んでいなくて、周りは順調だけど、私は今年受からないかもしれない……」

聞いてみると、彼女自身の小さな悩みはずいぶんあります。「あー、もう、なにもかも上手くいってない」と落ち込んでしまってもおかしくない状況かもしれません。でも彼女は、家族が元気で一緒に暮らせているから幸せ、と答えニコニコしています。これは別に、インタビュー用に作った答えなのではなく彼女の本心なのだろうと思います。

彼女は仲のよい同僚だったのですが、恥ずかしながら、このインタビューに立ち会うまで、彼女にこんなに色々悩みがあるとは知りませんでした。彼女はふだんから何があってもケロッとしていて、楽しそうに暮らしていました。これもとても、ブータンらしいなぁと思います。

ブータンの人たちが「幸せかどうか」を問うとき、対象は「自分自身」が幸せかどうかではないのでしょう。自分の大切にする人たちの幸せも含めて自分の幸せと捉える。幸せを感じられる範囲、「幸せゾーン」(と、私は名付けています)が、ブータンの人たちは私たちよりずっと広いのかもしれません。

…そんな相談をすると、決まって上司は笑いました。「たまこは、真面目すぎるんだよ」と。「日本人だからかなぁ。でもそこは、たまこはもっとブータンで学んだ方がいいよなぁ」などとぶつぶつ言いながら、上司はこんな話をしてくれました。

「なんでも『どうにかできる』と思ってはいけないよ。それは、人間の過信というものだ。人間なんて、大きな大きな自然の中の、ほんのちっぽけな存在でしかない。しかも、そのちっぽけな人間社会の歴史の長さに比べたら、僕たちが生きているのなんて、ほんの一瞬なんだ。最初から、なんでもどうにかできると思ってはいけない」

そして、彼の尊敬する第5代国王の例も用いて、こんな話をしました。

「そもそも、僕たちができることなんて、限られているんだ。だから、自分にできることを、等身大でがんばればいい。できることを、すればいい。僕たちの国王はいつもこう言っているんだ。『小さくても、できることをすればいい。最初は小さな動きでも、いいものは、波紋のようにどんどん広がっていくんだよ』ってね。

だから、自分がどうにかできることにフォーカスするんだ。それ以外のことについて、課題をみつけて嘆いたりしていても、仕方がないんだよ。自分の身の丈を超えて、生真面目に思い悩みすぎてはだめだ」

彼は、茶目っ気たっぷりに、こう言ってくれました。

「肩の力を抜いて、リラックスして、こう思うことも大切なんだ。『これでいいのだ』ってね」

御手洗瑞子(みたらい たまこ)

『ブータン、これでいいのだ』(新潮社、2012年)より


これでいいのだ」ってどこかで聞いた気がする……あぁ、バカボンのパパだ!! わしは バカボンのパパなのだ/この世は むずかしいのだ/わしの思うようにはならないのだ/でも わしは大丈夫なのだ/わしはいつでもわしなので 大丈夫なのだ/これでいいのだと言っているから 大丈夫なのだ/あなたも あなたで それでいいのだ/それでいいのだ/それでいいのだ/わしはリタイヤしたのだ/全ての心配から リタイヤしたのだ/だからわしは 疲れないのだ/どうだ これでいいのだ/これでいいのだ/やっぱりこれでいいのだ by バカボンのパパ 出典:天才バカボン(赤塚不二夫)

神社で絵馬に願い事を書く人もいれば、神社でお参りしているとき「決意表明」をして、後日報告にまた参拝するという人もいますね。ブータンは後者に近いのかな?

ブータンの人たちの顔は日本人とよく似ているし、ブータン人の気質はなんだか他人事とは思えません…(^^;) 「俺流」のローカルルールとグローバル化とのバランスの話は、自分と周りの人との折り合いのつけ方という意味で、わたしにとっても身近なテーマです。

いろいろ学べるところがありそうな、ブータンです♪

Let's try to say: That' All Right ☆


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