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100%にならないことは、おもしろい?きりがない?

こんにちは(*'▽')

奥深い世界のことを、最近は「沼」と呼ぶのでしょうか。沼にハマる。それはどれだけ突き詰めた/極めたと思っても、その奥にもっとすごい世界が広がっているという、果てしない世界。10代の頃は、選んだ進路で必要な知識が果てしなさ過ぎて、ほかの状況も重なって「無理だ…(>_<)」と挫折しました。今はフラメンコや和装、エンタメなど、途方に暮れるよりもはるかに心躍ることのほうが大きい気がします…♪


伊集院 じゃ、クモの話はやめて昆虫の話にします(笑)。

昆虫でおもしろいのは、意外に変な手間のかかる昆虫が生き残っていることだと思っていて。巣の中でキノコを育てるアリとか、普通に考えたら、こんなの滅んでいいだろうという生き物が滅びないじゃないですか。

それと似ているのが、以前本で読んだ未開の部族に残っている一見意味のない風習が、実は科学的だった、という話で、たとえば「鷹を捕るときは処女の女性が血を流した上でしか捕ってはいけない」という風習が、その部族では女性の地位を高めたり鷹の乱獲を防いだりと、結果的に理屈には合っていたりする。

いきなり現象だけを見ると、倫理的にはすごく野蛮に見えるんだけど、科学と離れているところで実は遠回りな効率というか、直接的じゃないことも包括した効率があるんじゃないかと思うんですよ。

養老 だからよく分からない風習も、それはそれで世間を維持するために必要なものかもしれないということですね。

アミメアリも、おもしろい虫ですよ。働かないアリがいるんだけど、そのアリが巣から出ていくことがある。

伊集院 どうやって生きているんですか。

養老 ほかのアリの巣に、言ってみれば寄生しちゃうんだよね。そしてなぜか、元の巣にいるときも、ほかのアリの巣にいるときも、働きアリは働かないアリのためにせっせと食べ物を運ぶんだよ。

伊集院 ほう!

養老 アミメアリは女王アリがいなかったり、オスがいなくて単為生殖で繁殖したりと、とにかくややこしい話がたくさんあるんだよ。なんでそんなものがいるのか、という話になってね。

伊集院 とにかく理屈ぬきでおもしろいんですね。

養老 だから、もういいんですよ。根本的には「ある」んだから。「生きてるんだよな」という話。こういう状況だったら、そういうグループもちゃんと生きられるということが生き物にはあって、そこがおもしろいんですよ、生き物って。

伊集院 先生は、箱根の別荘などにたくさん標本をお持ちだって伺いました。昆虫の標本って、オークションでも売ってるじゃないですか。買ったりもするんですか?

養老 僕は、買って集めるというよりは、その昆虫の種類を調べたいほうだからね。

伊集院 そうか、「集めたい」が目的じゃなくて「調べたい」が目的ですか。だとすると、先生の中の「昆虫を調べたい」はなくならないんですか?

養老 あれは終わらないです。

伊集院 逆に一生調べ終らないと分かっても、やり続けられるものなんですか? コレクションに急に飽きたりとかするじゃないですか。昆虫は飽きないですか?

養老 飽きないですね。いろいろな局面があるんですよ。まず虫を見つけて捕るところから始まるでしょ。捕るにも全部工夫がいりますよ。一応予定して捕りに行っても雨が降るでしょ。もしかしたら台風で現地に行けなくなっちゃうかもしれない。ありとあらゆることが起こりうるんです。

捕って帰ってきたら標本にするでしょ。熱帯に一週間も行ってれば、うっかりするとカビが生えるし、乾かしておくと硬くなる。柔らかくするには50度のお湯が一番です。その都度使う能力が違うから、それで飽きないんだと思いますよ。

伊集院 そうなると、「100%がない」に近いじゃないですか。自分が得た成果が100%にならない。

養老 ならないですよ、絶対に。

伊集院 これ僕の中で大きな課題なんですけど、100%にならないことを「おもしろい」とするのか「きりがない」とするのか……。

養老 科学の授業をしているときに、学生からよく聞かれることがありました。「先生、脳のことは今どのくらい分かっているんですか?」これ、どこかで100%分かると思っているんだよ。全部分かるわけなんかないのに。

伊集院 若いころは無限のもの、果てしないことを征服できるとどこかで思っていて。だからこそ始めることができるとも思います。先生は「脳について全部分かる」「虫は全種類分かる」と思わずにスタートしているんですね。

養老 そんな極限なんか全然考えないものね。

伊集院 なんでこの話にこだわっているかというと、僕は高校を出ていないんです。やめた理由はいろいろありますが、ある日突然、勉強が嫌になったんです。それは「勉強をすればするほど達成度のパーセンテージが下がる」と思ったんです。

たとえば、僕の通っていた小学校では3年生まで「私たちの荒川区」と題して、地元の荒川区の勉強をするんですよ。それを覚えて4年生になると、今度は「私たちの東京都」が始まる。よし、全部覚えたと思ったら、次は「日本」の話が始まった。そのときに「勉強ってすればするほど自分の考えていた達成度が下がる」と思い始めたんです。高校のときに、それじゃあもう手に負えない、とちょっとノイローゼみたいになって、学校に行くのが嫌になっちゃった。登校拒否ですよ。これがこの本のテーマの「世間とのズレ」が決定的なやつかもしれない。

「学校に行かなかった理由は何ですか?」と聞かれたとき、僕はいじめられてもいなかったので、そういう意味での障害は何もなかったんです。でもある日突然、「勉強すればするほど、おれは頭が悪くなっていく」と思った。それは自分の中で衝撃でした。いつか100%征服できるものだと思っていたから。先生は昆虫でも脳でも、その “きりがない問題” をどうしてるんですか。

養老 それで思い出したけど、「ゾウムシの検索表」といって、アジアのゾウムシを順にまとめた人がいるんです。その人に「こういうのもいるんだけど」と新しく捕ったゾウムシの新種を持っていったら、「こちらの表が壊れるからもうやめてくれ」と言われました。

伊集院 ああ、その人の気持ちはよく分かります。「苦労してちゃんと表をつくったのに、何を余計なことしてくれるんだ!」と(笑)。

養老 最初からやり直さなきゃならないからね。それは分かるんだよ。注いだ努力が無駄になるわけでしょ。逆に言うと、その表をつくるのに努力しすぎたんだよね。もうちょっと手前でやめとかなきゃいけない。そうすれば、新しいのが入ってきても最初からガラガラポンでいける。

伊集院 手前でやめておく……ですか。

養老 僕は小学生のときに、そのガラガラポンをやらされたから。

伊集院 え? それはどういう……。

養老 終戦ですよ。それまでは「一億玉砕」「本土決戦」といわれていたのが、戦争が終ったらとたんに「ポン」となくなってしまって、「平和憲法」「マッカーサー万歳」の世の中になってしまった。

伊集院 僕、そのことを前から思っていたんです。自分の親たちの世代にちょっとかなわないなと思うのは、彼らが戦争を経験しているからなんです。親父がいつも言っていたのは、生徒が校庭にある銅像か何かに一礼しないといきなりぶん殴っていた先生が、戦争が終わった途端、まったく関係のないことを言いだした。そのときのポカンというか恐怖というか、わけの分からない感じ。

親父に「戦争が終わったとき、うれしかったの?」と聞いたら「うれしくなかったことはないんだけど、うれしいとかいう感情じゃなくて、もっとすごいことなんだ」と言うんです。そのとき言われたのは、「おまえ、今まで習ってきた教科書が全部ウソだと言われたらどう思う?」

養老 そうです。ウソだと言われる以上に、自分で墨をすって、教科書の戦争に関係あるところを全部黒く塗らされたわけだからね。みんなで声を揃えて何度も読んだところですよ。だから理屈じゃないんだよね。感覚ですよ。肉体感覚。

伊集院 そのガラガラポン体験が生きているから、先生には「何かしらそういうことは起こるよ」という覚悟があるんですね。

養老 だから「自分がつくったゾウムシ検索表が壊れるからやめてくれ」と言われたときに「ああ、若いな」と思った。

伊集院 その人は自分が積み上げたものが必ず100に到達するという思いがどこかにあったんでしょうね。

養老 100にしたいんだね。だからこれ以上持ち込まないでくれ、と。

伊集院 僕らも何かしら積み上げていけば右肩上がりになるものだと、どこかで思っているんですよ。NHKの「100分de名著」という、古典とか名著を読む番組に出演しているんですが、勧善懲悪の単純な物語が時代とともにどんどん複雑になってきているのだろうと思っていたら、「あれ? 大昔にもすごいの、あるじゃん」と知ったときの混乱。「オイディプス王」の複雑かつおもしろい設定なんて最新の映画のようだし「維摩経ゆいまきょう」のダイナミックさ。これってどこでリセットされたんだろうって。

※100分de名著……NHKEテレの教養番組。一回25分、ひと月に4回放送、計100分で一冊の名著を読み解く。伊集院光とアシスタントのアナウンサー相手に、専門家が古典の魅力を解説する。
※オイディプス王……ソポクレスによる、ギリシャ悲劇の代表的作品。神託の予言が、王の子ども(オイディプス王)は将来父を殺し、母を妻とするだろう、と告げる。王はそれを避けるべく子どもを殺すことを命じるが、子どもは生き長らえ、やがて予言は実現してしまう。劇では、王殺しの犯人を捜索する過程で予言の実現が明らかになっていく様を描く。
※維摩経……仏教経典の一つ。在家の仏教信者である維摩居士こじが病気になった際に、仏弟子たちを呼び、一人ひとり論破する、という形式で叙述されている。くうの思想(すべての事物は因縁によってできた仮の姿で実体はないという考え方)や大乗(多くの人々を悟りに導こうとすること)について語る。

僕らはこつこつ積み上げていけば100%になると世間から教わってきたから、逆に100%になりそうにないものには最初から行きたがらないし、100%にならないと分かったときのショックがでかいんですよ。積み上げても時に逆戻りする、あるいはガラガラポンでなくなっちゃうことに対して恐怖や絶望を抱いたり、100%に近づいたことに慢心するんです。

養老 僕の同世代でも、終戦を迎えた年度にちょっとしたズレがあるだけで感覚はかなり違いますけどね。

伊集院 戦争のガラガラポンの話、もっと聞きたいですね。なんだろう、すごく興味があって、戦争が悲惨だったことは分かるんです。でも「悲惨だった」だけだと、全然実感が湧かない。

僕らは人のニーズに合わせて笑わせる仕事だから、世の中が戦争のほうに向いて、たとえば「敵は鬼畜だ」と信じていたら、鬼畜を殺すギャグを言っていたと思う。今では笑えないひどいことでもそれがそのときの世間だったと思う。戦時中にも、ないはずはないんですよ。でもそれは黒く塗られて、なかったことになっている。

僕らは「みんなは反対だった戦争を一部の間違った人が始めて、罪のない人が死にました」とか「愚かな大人が起こした戦争が終わって、子どもたちは全員喜びました」とか聞かされるんです。それだと、正しいことが変わった戸惑いとか、微妙なニュアンスとかがよく分からないんですよ。

養老 当時は子どもだから、あまり言葉に出してはしゃべらないよ。でも大人の世界を見ていると、竹やり訓練をやったりバケツリレーをやったりしていた。いくらなんでも若干疑うよ、子ども心にも「これ本気かな」と。頭の上を飛ぶB29が落とした焼夷弾しょういだんを見ていて、「あれをバケツで消せるのかよ」と思うよね。

伊集院 それは「間違っていると思っていた」と「正しいと思っていた」の二択じゃなくて、「何やらおかしい。だけどあれだけ大人が必死にやっているんだから、やらなきゃいけないんだろうし」という……。

養老 そう。真剣さは通じてくる。

たとえば当時は国民がみんな、武器製造に必要な金属を供出させられたでしょ。お寺の鐘とか鉄道のレールとか。ガキ大将が「古い金属がお国のためになるらしい」とどこかで聞きつけて、あっちこっちに転がっている錆びたくず鉄を子どもたちで集めて警察に持っていったんですよ。そのときによく覚えているのは、警察官の迷惑そうな顔。お国のために子どもが拾ってきたんだから文句も言えない。だけど……という、そういうのはよく覚えてるね。

伊集院 そういうリアルな話がほしいんですよ。

いつの世も単純な正義感を持っているガキ大将っています。すぐに大人に感化される。なんかへんだなと思いながらも一緒になってついてく子もいる。大人はその行動は否定できないけど、正直面倒くさいものを持ってこられたから、「よくやった」と口では言いつつも実はそうは思ってない空気を出す。ガキ大将は感じてないけど、養老少年は違和感をほんのちょっと強くする。戦争末期の微妙な空気感が僕にも理解できます。これを単純な話にすればするほどなんか胡散臭うさんくさいしつまらない。

◆◆◆

伊集院 さきほど「言葉というものを信じない」とおっしゃいましたけど、じゃあ、言葉で書かれた科学論文についてはどうでしょう?

養老 本音を言うと、そういう「理論」をバカにしてるわけですよ。

伊集院 ん?

養老 そりゃそうですよ。そんなもの、本気になって信じるかよ、というのがどこかにあるんですよ。

伊集院 ちょっと疑ってかかる?

養老 もちろん、そうですよ。

伊集院 でもある程度、自分の中で理論が完成するじゃないですか。

養老 そう。だから脳みその話に興味があるのは、そんな理屈を言ったって、それを考えているのはおまえの脳みそだろうが、とそこへ戻るんですよ。

脳みそをいじったら、いっぺんに替わるだろ、ということです。「科学的に証明されたから正しい」と思っているのは、科学者の意識でしかないわけでしょ。意識っていったん寝たら、なくなってしまうようなものですよ。しかも意識は自分で出たり引っ込んだりしているわけじゃなくて、睡眠とかアルコールで、いわば「あなた任せ」で現れたり消えたりしているんです。

伊集院 学問をする人たちは、もっと自分が打ち出してきた理論とか仮説に固執こしつするんだと僕は思っていたんです。そこに縛られるんだ、と。

養老 でも本当に親しくなって、建前をいっさい排して本音を聞いてみると、僕に近いことを言うんじゃないかな。まあ、やるにはやったけどさ、と。一応、みんなが立派な仕事だとほめてくれるから、そういうことにしてあるけど、実はさ……と。そこのところを分かっている人こそが学者として立派な人ですよ。

伊集院 それは自分が発見する充実感とともに危うさというか、不確かさとか曖昧あいまいさみたいなものがあるということなんでしょうか?

養老 1996年に “The End of Science”(邦訳『科学の終焉おわり』竹内薫訳、徳間書店)という本が出たんだけど、ジョン・ホーガンというジャーナリストがノーベル賞をもらった世界中の有名な科学者たちに会って、「科学は世界を解明するか」という簡単な質問をしているんです。結局、答えの9割9分「解明するわけねえだろ」(笑)。

「科学が進歩すれば、世界がだんだん解明されていく」ことが一応建前じゃないですか。でもやっている本人たちは信用していないことが分かるわけ。要するに科学が完全に煮詰まっている。だから「科学の終焉」なんですよ。(つづく)

『世間とズレちゃうのはしょうがない』(養老孟司、伊集院光、PHP研究所、2020年)より


科学は分析は得意で、事後検証(あるいは設定された条件下での予測)にはおおいに力を発揮できるけど、人類が今後どんな方向性でサバイバルしていけばいいか?を考えるときに、サポートはしてくれても導き手にはならないということでしょうか。

「偶像崇拝」が禁じられている宗教・宗派がありますが、それは金の牛や人物像(イコン)を拝んではいけない、という戒律というよりは、何かを「万能だ」と盲目的に信じることが結果的に足下すくわれることになるよ、という忠告のようです。お金だけを信じる、資本主義は終わらないと信じる、うちのポチは絶対私を裏切らないと信じる(それはOKかな?)……。

常日ごろ、世間とのズレは感じていますが、あまりにも世間の価値観を内面化しすぎると、透明人間になってしまうような、自分が誰だかわからなくなってしまうような気がします。それはそれで、怖いことなのではないかと。自分にとって適度な距離間で、世間と折り合いつけたり付き合ったりするのがいいのではないかと思います。世間から出たり、入ったり。出入り自由なの、希望します!

Don't run for the perfect, do your best at just the right time ☆

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