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「戦争とバスタオル」から

こんにちは(*'ω'*)

温泉、いいですよね~♪
よさくは木~を切る~、hey hey ho~、hey hey ho~♬


 その温泉は、ジャングルの中にあった。
 分厚く茂った熱帯雨林の間を縫うように清流が走り、川際に沿ってコンクリートで仕切られた大きめの浴場がふたつ、ぽかんと口を開けている。何の飾り気もない、野趣に富んだ川原の露天風呂だ。
 ヒンダット温泉――タイ中部の街カンチャナブリ―からバスに揺られて約3時間。ミャンマー国境近くに位置する天然温泉である。
 頭上で鳥がさえずる。川のせせらぎが響く。樹々が香る。金粉でも振りまいたかのような南国の強い日差しが、温泉場全体を踊るように照らしていた。
 すでに先客たちが弛緩しきった表情で湯に浸かっている。大自然に溶け込んでいる。気持ちいいだろうなあ。一刻も早く汗染みのできたシャツを脱ぎ捨てて、湯の中に飛び込みたくなった。
 さあ、温泉が待っている。湯けむりが呼んでいる。
 極楽は目の前だ。

◆◆◆

 温泉にだどり着くまで、長い時間を要した。(略)
 だが――バンコクから遠く離れていくうちに、なんとも言えない居心地の悪さが、胸の中で小さなシミをつくる。拭っても消えることのない黒点が徐々に広がる。じわりじわりと襲ってくる圧迫感の正体は、私たちをカンチャナブリ―へとつなぐ鉄路の来歴にあった。
 いまはタイ国鉄のナムトック支線と呼ばれる路線は、かつての「泰緬たいめん鉄道」である。第二次世界大戦中の話だ。インド侵攻作戦を計画する旧日本軍は、タイとビルマ(現・ミャンマー)を結ぶ鉄道を建設した。総延長415kmに及ぶこの路線こそが、泰緬鉄道だ。
 戦争という特殊な状況下、迅速な建設を迫られた日本軍は、20万人を超える労働者を集めた。動員されたのは、オーストラリア兵や英国兵など連合国軍の捕虜と、アジア各国から徴用された「ロームシャ(労務者)」とも呼ばれた労働者である。日本軍は沿線各地に収容所を設けたうえで、これらの人々を強制労働に駆り出したのだ。(略)
 日本という国家が抱えた暗部である。れっきとした戦争犯罪だ。
 だからこそ、タイ国内はもとより英語圏でも、泰緬鉄道(Thai-Burma Railway)ではなく、死の鉄道(Death Railway)と呼ばれることが多い。
 つまり私たちは血塗られた記憶を持つ線路に揺られていたのだ。

◆◆◆

 泰緬鉄道の悲劇は、けっして過去のこととして忘れられてはいない。タイではいま、「死の鉄道」を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録する動きが本格化している。日本軍によっておこなわれた残虐行為をしっかり記憶にとどめるためだ。だが、一応は “親日国” と言われるタイとしては、日本に対する一定の配慮も手伝って、ユネスコへの登録申請に、「死の鉄道」なる表現を使うべきかどうか、激しく議論されている。
 日本国内でもこれに呼応し、「インフラ設備に尽力した日本」といった美しい物語に収めようとする動きがある。加害と失敗の歴史を美談に塗り替える、いつものアレだ。
 少なくとも「加害」に関係する側が名称のあり方に口を出す問題ではないだろう。鉄道建設で多くの人々が命を落としたのは事実なのだ。技術力を誇示した「日本スゴい」の物語は成立しない。泰緬鉄道建設は支配と服従の関係によって犠牲者を出した。疑いようのない強制労働だ。
 食糧不足による栄養失調で斃れる人がいた。コレラやマラリアで斃れる人がいた。日本軍の私的制裁で斃れる人がいた。鉄道建設にともなう犠牲者は、動員された労働者の約半数とも言われている。こんなバカげた工事があるだろうか。戦時下の捕虜に対する虐待を禁じたハーグ陸戦法規やジュネーブ条約にも違反していたことは明白だ(事実、戦後に同法違反で日本側関係者は処罰された)。
 この史実はけっして塗り替えることのできない記憶として、多くの人の胸に刻印されている。私たちはそれを忘れず、犠牲者の無念に寄り添うしかない。

◆◆◆

 炎天下、緩やかな坂道を10分ばかり歩いたところで、ようやくヒンダット温泉の入場門にたどり着いた。
 密生した木立のその先で、風景がひらけた。ひだまりが浮かんでいる。渓流が走っている。南国の強烈な日差しが水面に躍りかかり、極彩色のオアシスをつくりあげていた。そして川原には――温泉だ。風呂だ。川原の露天風呂だ。
「おお!」タイの温泉は初めてというSさんも含めて、3人同時に感嘆の声をあげた。
 直射日光を浴びつづけて疲弊を覚えた体に、生気が蘇る。バスの中での不快な出来事も、この温泉が侵略者たる日本軍の手によってつくられたという予備知識も、すべてが吹き飛んだ。温泉と出会った瞬間は、風景にもてあそばれるしかない。(略)
 さあ、ひとっ風呂。足早に券売所に向かうと、不意に目に飛び込んできたのは、なんと、ロシア語の看板だった。
〈モスクワまで5166km〉
 熱帯雨林と「モスクワ」の奇妙な組み合わせは、しかし、券売所を訪ねて担当者に話を聞くことで合点がいった。
「ロシア人観光客が多いんですよ」
 そう教えてくれたのは従業員のビヤックさん(44歳)である。
「以前は地元の人だけで賑わっていたのですが、最近は外国人の利用も増えました。ベトナム人も韓国人も、もちろん日本人も。なかでも、もっとも多いのがロシア人なんです」
 北国の人々はバカンスを「暑い国」で過ごすことが多い。ロシア人にとって、タイは人気の観光地だ。
「SNSでヒンダット温泉が話題となり、一気に拡散されたようです。連日、観光バスで多くのロシア人観光客がここを訪ねてきます」
 ジャングルの湯はロシアンバブルに沸いていた。

◆◆◆

 温泉は、人と人との間の垣根をなくす。しょせんが裸(水着はつけているが)。究極の非武装だ。初対面であっても、ついつい、非武装の同志たちに話しかけたくなる。
「気持ちいいですよね」
 無遠慮な私の問いに、にっこりと優しい笑顔を返してくれたのは、まだ少年の面影を残した青年だった。ワシラさん(23歳)。自転車店で働いているという。サムプラカーンという町から、祖父母や姉と一緒に車で来た。
「お風呂が大好きなんです。ここは湯温がちょうどいい。長時間入っていられます」
 首まで湯に浸かりながら、心地よさげな表情を浮かべていた。ワシラさんの両親はいま、ドイツで菓子職人として働いている。
「ぼくもいつかはドイツで働きたいと思っているんです」
 彼はそんな未来を明るく語った。ドイツに憧れているのだという。
 前述したように、タイは労働者の受け入れ国でもあり、送り出し国でもある。なかでも移民政策が整い、福祉政策も充実しているドイツは、タイ人には人気の出稼ぎ先だ。しかも、タイにとってドイツ人は観光客としてなじみ深い存在でもある。たとえば、ドイツからの訪日観光客は年間で約16万人程度だが、訪タイするドイツ人は約76万人にものぼる(2016年観光統計)。身近さという点で、タイとドイツにそれほどの距離はない。
 そんなに温泉が好きならば、日本にだってたくさんあるのだからぜひ我が国に――そう言いかけて、思い直した。アジアからの労働者を安価な労働力としか見ないいまの日本社会は、出稼ぎを考えるタイの若者に、温泉の悦楽以外のものを提供することができるだろうか。少なくとも私には自信がない。

◆◆◆

 ――ヒンダット温泉は、いつ、誰によってつくられたのか知っていますか?
 女性は即答した。
「昔から。大昔から」
 ええ、そうなんでしょう。そうですよね。うなずきながら話の接ぎ穂を探しあぐねている私たちを気の毒に思ったのだろうか、女性は「伝え聞いた話だけど」と前置きしたうえで次のように続けた。
「もともとは小さな泉のように、川原の穴ぼこから湯が湧き出ていたんですよ」
 ぼこっ、ぼこっ。石と石の間から、泡を立てて湯が噴き出している光景が目に浮かんだ。
そんな「小さな泉」を「温泉地」として整備したのは、やはり、進駐してきた日本軍だったという。(略)
 ジャングルの中を彷徨さまようひとりの日本兵がいた。「小さな穴ぼこ」から湯が湧き出ているのを発見した日本兵は、何を感じただろうか。
 水たまりのような穴に手を入れる。それが温泉であることに気がつく。
 きっと、故郷の風呂を、行ったことのある温泉を、ふと思い出したことだろう。戦場でない場所を、撃ち合うことのない場所を、殺したり、殺されたりしない場所を思ったはずだ。
 捕虜を酷使し、虐待し、殺してきた日本兵もまた、人間だった。
 一瞬の至福のために、風呂をつくった。私と同じように熱帯の木々を見つめ、せせらぎと鳥の鳴き声に耳を澄ませ、川面から吹く風を受け止めながら、熱い湯に身を任せた。つかの間の幸福を味わいながら、彼は思ったであろうか。
 望んだ戦争だったのか。
 望んだ虐待だったのか。
 彼は、人を殺したかったのか。
 わからない。わからないけれども、湯舟の中にいる間、彼は非武装だった。たぶん、解き放たれていた。
 ふたたび銃を担ぎ、捕虜や「ロームシャ」の前に立つまでの間だけ、彼は人間だった。故郷を思い、家族を思う、当たり前の人間だった。
 見たことのない、私と交わることもなかった若い日本兵の姿が、いつまでも頭から離れない。
 彼は生き延びたであろうか。
 風呂は残った。整備された温泉を残した。
 ヒンダット温泉は、戦争の残骸である。
 そして、兵士もまた人間であったことを示す、数少ない遺産だった。

安田浩一 & 金井真紀

『戦争とバスタオル』(亜紀書房、2021年)より


彼の地で行われている戦争?侵攻作戦が、今この瞬間にも凍結・終了・全面停止されることを願っています。
ほんとうの情報かどうかはわからないけれど、ロシア側の兵士にも前線に行きたくない、戦闘拒否したい人がたくさんいるかもしれないという…。
戦闘に参加した兵士のその後は大変らしく、日常生活に戻ろうにもPTSD(心的外傷後ストレス障害)で多大なケアや支えが必要になるらしいし。
武装しないで、仲介人を立ててでもお話しできたらいいのに…( ˘ω˘ )

本日、聖歌隊員として歌で祈り捧げてきました(マスク着用)。
いまんとこ、そういう形でしか表現できませんが、届きますよう。

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