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暴君とは

こんにちは(*'ω'*)

先日、小田原城を見下ろせる石垣山(通称「一夜城」)に行ってきました。絶景かな! 林が途切れたところから、空のつづきのような色合いの凪いだ海が美しく、爽やかな風が通りぬける木陰はいつまでもいたいほどの心地よさでした。豊臣秀吉に攻められ、勝てぬと悟った小田原のお殿様(北条氏)は、自分の命はくれてやるから領民の命は助けてくれるようにと城を明け渡したのだそうです。なんて領民想い、素晴らしい殿なのだろう…!

一方で古今東西、暴君もいます。欧米政治思想における「暴君」とは、単に暴虐非道な君主ではなく、自己の利益を優先して恣意 (しい)的に権力を行使する支配者を意味するそうです。そして、そのような指導者が市民社会の「共通善」を破壊する政治が「暴政」だということです。


シェイクスピアの『リチャード三世』は、『ヘンリー六世』三部作が描いてきた野心満々の暴君の特色を見事に発展させる。際限のない自意識、法を破り、人に痛みを与えることに喜びを感じ、強烈な支配欲を持つ人物。病的にナルシシストであり、この上なく傲慢だ。何だってやれると思い込み、自分には資格があるとグロテスクに信じている。怒鳴って命令するのが好きで、命令を実行しようと手下どもが走り回るのを見るのに無上の喜びを感じる。絶対的忠誠を期待するが、自分は人に感謝することなどできない。他人の感情などどうでもいい。生まれついて品などないし、情もなければ礼儀も知らない。

暴君は、法に無関心なだけではなく、法を憎んでおり、法を破ることに喜びを感じる。法が憎いのは邪魔だからだ。法があるのは皆のためだが、皆のためなんて糞くらえなのだ。この世には勝ち組か負け組しかおらず、勝ち組の連中は、役に立つ限りにおいて尊重してやるが、負け組などには軽蔑しか感じない。皆のためなんて、負け組が口にすることでしかない。自分が話したいのは、勝つことだけなのだ。

この男は、常に富に恵まれてきた。富の中に生まれ、大いに金に物を言わせる。だが、金で手に入るものは何でも享受するものの、それが最も興奮することではない。興奮するのは、支配の喜びだ。いわば、ガキ大将、いじめっ子なのだ。すぐにカッとなり、邪魔なやつは殴り倒す。ほかの人が縮こまって、震え、痛みに顔を歪めるのを見て喜ぶ。人の弱みを握るのに長けており、嘲笑と侮辱が巧みである。そうすると、同じように残酷な喜びに惹かれる追従者たちが寄ってくる。とは言え、暴君の足下にも及ばない連中だ。暴君が危険だとわかっていても、追従者たちは彼がゴールへと進むのを助け、最高の権力を握らせるのである。

権力の掌握には女性支配も含まれるが、リチャードは女性を欲望するどころか軽蔑する。性的な征服には興奮するが、好きなものは何でも手に入れられることを再確認するだけだ。手に入れた女が自分を嫌っていることはわかっている。その点でいえば、セックスでも政治でも、やりたくて仕方なかった支配が思いどおりになると、皆から嫌われているとわかってくる。最初はそうとわかると発奮して、ライバルや共謀者たちに警戒しようと燃え上がるのだが、そのうちにじわじわとまいってきて、疲弊してしまう。

遅かれ早かれ、倒れるのだ。誰に愛されることも嘆かれることもなく、死ぬのだ。あとに残るのは瓦礫の山だけだ。リチャード三世など、生まれなければよかったのだ。

スティーブン・グリーンブラット(Stephen J. Greenblatt)

『暴君―シェイクスピアの政治学』(河合祥一郎・訳、岩波新書、2020年)より

「病的なナルシシズム」は、「重要なのは、自分が『完全』で『揺るぎない』と感じられること。他の連中の命などどうでもよい。宇宙など粉々になればよい」という心境のことみたいです。暴君の核にあるのは『孤独』『自己嫌悪』『空虚さ』。あと、どんなひどいことをやっても大丈夫と思いこみ、とんでもない噓や提案でもって、どんどん前へ進もうとする『厚顔無恥』。「まるで暴君の心を覗き込んでみると、そこには実は何もなく、成長もしなければ輝くこともない自己の縮こまった痕跡だけがあるかのようである」……なんだ、自分の周りを思い通りにしてもちっとも充実や満足を感じてないのか。そこだけ切り取れば、気の毒にも思えてきます。

暴君は、ほとんど満足することがないのだ。確かに望んでいた地位を得たものの、それをつかみとったからといって、うまく統治ができるわけではない。どんな快楽が得られるかと想像していたかわからぬが、結局は欲求不満、怒り、身を削るような不安へと変わってしまう。しかも、権力の掌握は決して安泰ではない。自分の立場を強化するために常にやらなければならないことがあり、犯罪によって目標に到達したがゆえに、さらなる犯罪が必要となる。暴君は、自分の内輪の者たちの忠誠が気になってならないが、仲間から裏切られないという絶対の自信はもてない。暴君に仕えるのは、暴君と同様に自分のことしか考えない悪党だけだ。いずれにせよ、暴君は正直な忠誠だの、冷静で偏見のない判断だのに興味はない。むしろ、追従と確認、そして従順さがほしいのだ。〈p.112〉

(文明化された国家では、指導者は少なくとも最低限の大人らしい自制心があるとみなされ、思いやりや品位や、他者への敬意や、社会制度の尊重が期待される。)コリオレイナスはそうではない。そうしたものがない代わりに、育ちすぎた子供のナルシシズム、不安定さ、残酷さ、愚かさがあり、それに歯止めをかける大人の監督も抑制もないのだ。この子が成熟するように助けるべきであった大人は完全に欠如していたか、もしいたとしても、この子の最悪の特質を強めてしまったのである。〈p.216-217〉


シェイクスピア(&著者)は、絶望していません。

「シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の市民の政治活動にあると、シェイクスピアは考える。暴君を支持するように叫べと強要されてもじっと黙っている人々や、囚人に拷問を加える邪悪な主人を止めようとする召し使い、経済的な正義を求める飢えた市民をシェイクスピアは見逃さない。『人民がいなくて、何が街だ?』」と締めくくられています。

石垣山を下りたら、早川漁港のなかの食堂でお昼をいただきました。店内に「黙食」の表示があり黙々と食べましたが、新鮮な魚の味を堪能できました(*^^*) お刺身も漁師汁も美味しかったし、これまで食べたなかで一番美味しいんじゃないかというエビフライに舌鼓を打ちました。小田原近海でとれた魚は、北条の殿様が守った領民の人達も食したんでしょうねぇ。

See with your own eyes the rise and fall of a tyranny ☆

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