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「臨床の砦」より

こんにちは(*'ω'*)

病気になって治療しなければ大変なことになるというとき、病院のスタッフ、看護師の方達の対応に救われたなぁという人は、私だけじゃなくたくさんいるはず…! でも、いまはその人達が危機的状況からずっと脱することができません。


「何を怒っているのですか? 先生」

突然の三笠の大きな声と、文脈の読めない問いかけに、室内のざわめきが、潮が引くように遠のいていく。

正面の席に座る三笠は、じっと敷島を見つめている。

敷島は、注目の集まる中で佇立(ちょりつ)したまま、ようやく口を開いた。

「私は怒っていますか?」

「怒っているように見えました。気のせいですか?」

広い会議室に不思議な対話が響く。(略)

(三笠の)問うような、祈るような、包みこむような、奥底の読めない目が微動だにせず敷島を見つめている。

敷島はわずかに間を置いてから、三笠個人に向かって答えていた。

「もしかしたら、怒っているのかもしれません」

「なぜですか?」

「これが院内感染だとしたら、原因は、看護師にはないと考えるからです」

敷島の静かな声が響いた。

普段は寡黙な敷島の、落ち着いた返答に、誰も口を挟まなかった。

三笠は小さくうなずく。

「続けてください」

「看護師の発症日が、昨日か一昨日だとすれば、潜伏期間から逆算して、感染したタイミングは今から一週間ほど前だと思われます。あの、もっとも過酷であった時期です」

一週間前といえば、入院患者が30人を超え、入り乱れるように様々な重症度の患者が入退院を繰り返していた時期だ。

敷島の言葉に、すぐそばに座る春日や龍田が同意するようにうなずいている。一方で他科の医師たちの中に困惑顔が見えるのは、どれほどの入院患者がいたかさえ、細かくは知らない者もいるからであろう。

コロナ診療に対しては、医療機関や行政機関の間でも認識に大きな差があるが、同じ病院の中でさえこれほどの格差がある。

「36床の病棟で、入院、退院、転院に死亡など、一日で10人以上の患者が出入りした日もありました。一般診療では考えられない業務量です。しかもその膨大な業務を、厳重な感染対策を維持しながら遂行しなければいけなかった。一言でいえば、非常識というべき状況です。非常識な仕事量を課しておきながら、完璧に実行できなかったからといって責めるのは、筋が違うと思うのです」

「責めているつもりはないんだよ、先生」

口を開いたのは、また別の科の年配の医師だ。

「失敗が起これば再発防止のために原因を検証しなければいけない。先生が看護師の肩を持つのはかまわないが、同情で判断を曇らせているようでは、トラブルを防ぐことはできない」

「判断が曇っているのはどちらですかね」

答えたのは敷島ではなかった。

その医師の向かい側に座っていた外科の千歳であった。

意外な発言者に、会議室の注目が集まる。

千歳はゆったりと腕を組んだまま、相手に目を向ける。

向けられた方がぎょっとしている様子がある。

「この件に関しては、敷島先生の判断は曇ってはいないと思いますよ」

千歳の発言は、誰にとっても予想外であった。

千歳は単に外科科長という肩書があるだけではない。理知的で冷静で人望もある。自己の意見をあまり明確に語らないところはあるが、感情や派閥で動くことはなく、少なくとも公平性という点について、異論を唱える者はいない。その千歳が、いつになくはっきりと自らの見解を示している。

「では先生」と相手の医師が気圧されながらも応じる。

「感染の原因検証も行わないでいいとお思いですか?」

「もちろん検証は大切です。それどころか、ただちに検証チームを立ち上げ、明日にでも活動を開始すべきです。しかし院内感染の主たる原因は、明らかだと思います」

答えた千歳は、あとを任せるように敷島に目を向けた。

敷島がうなずいて続けた。

「原因は、看護師の不注意や、気の緩みにあるのではなく、感染対策さえ十分に履行できないほどの激務を現場に強いた我々にあると思います」

力強い言葉ではない。自分の言葉に確固たる信念を持つほど敷島は自信家ではない。ただ、現場から遠い場所にいる者たちに対して、現場を背負う者としての責務を果たさなければならないと思っただけであった。

沈黙が舞い降りた。

突然の三笠と敷島の対話、それに続く千歳の意外な発言。そして敷島の応答。

衝撃的な院内感染の報告に混乱し、苛立ちや不安感が急速に膨れ上がっていた会議は、誰も予想しなかった方向に流れていく。

ふいに、わざとらしく大きな咳をしたのは日進だ。一同の注目を集めてからにやりと笑う。

「私も今回は敷島先生に賛成ということで」

告げた日進は、そのまま笑いを消して語を継いだ。

「これまで一年間、当院はずっとコロナ患者を診てきて、一度も院内感染を起こしていないんですよ。一波のときも二波のときも、多くの患者が入院しましたが院内感染はなかった。対策そのものに問題があったのなら、とっくにどこかで誰かが発症しているでしょう。なぜこのタイミングなのか、考えればわかることじゃないですか」

こんな展開を、敷島も予想していなかった。

千歳も日進も、それぞれに敷島とは立場が違う。

千歳は積極的にコロナ診療を支えてきたが、三笠とは微妙に距離を取り続けていた。日進は、基本的にコロナ診療に消極的で、機会さえあれば皮肉や嫌味を振りまいて、診療からの撤退すら示唆していた。

千歳には千歳の主張があり、日進には日進の態度がある。それぞれに思いの在り処は異なりながら、しかしこの一か月身を焼くような業火(ごうか)の中を歩いてきたことは同じだったということであろう。

「先生方は、もっと早い段階で患者を拒否すべきであった、という意見でしょうか?」

口を開いたのは三笠である。

「すべての患者を受け入れてきた当院の基本方針に間違いがあったと?」

誰もがはっとするような踏み込んだ質問であったが、問いただすような口調ではない。淡々と事実を確認するような声音である。

敷島はゆっくりと首を左右に振った。

「この第三波の間、多くの病院が、コロナ患者の受け入れを拒否してきました。当院まで拒否すれば患者の行き場が完全になくなっていたことを思えば、ほかに道があったとは思えません」

広い会議室に、敷島の声が思いのほか深く響く。

「我々には、選択肢などほとんどありませんでした。我々は、当たり前だと思っていた世界が、あっというまに崩壊していく姿を見てきたのです。そのわずかな選択肢の中で、もっとも多くの命が救える道を選び、その結果として今の院内感染が起きました。結果から見れば、正解であったとは言えませんが……」

敷島は少し視線を落としてから、もう一度三笠に目を向けた。

「最善であったことは確かです」

会議室の中が再び静寂に包まれた。

それ以上の言葉はなかった。

内科と外科の医師たちの脳裏に浮かんでいたのは、この一か月間で、直面した異様な臨床現場である。

大きな肺炎があるのに入院できず、自宅待機を命じられた患者がいた。

ホテルへ行くように指示され、入院させてくれと涙を浮かべる患者がいた。

発熱外来の外には車の長蛇の列があり、車内で状態が悪化して、慌ててテントに運び込まれた者もいた。

病棟では急激に呼吸状態が悪くなる者があり、搬送になる者もあり、搬送ののち帰らぬ人となった者もいた。

点滴を引き抜いて座り込んでいた老人。

真っ黒な袋に詰められ、見送る者もないまま運び出されていく遺体。

それらを見つめて、呆然と立ち尽くしていた看護師。

すべてが、誰も見たことのない景色であった。

「貴重な意見に感謝します」

低い声で告げたのは、南郷院長であった。

黒々とした顎髭を撫でながら続ける。

「しかし敷島先生の発言には一部訂正が必要です。先生は、今回の責任は現場に激務を強いた我々にあると言った。しかし責任は我々にあるのではない」

机の上に置いた手を軽く組み直してから、南郷は続けた。

「責任は皆に激務を遂行させた『私』にある。その点を明確にしたうえで、今我々にできる対策を開始する。第一に、本日中に、県のクラスター対策班と連絡を取り、院内感染の検証チームを組織する。第二に、感染看護師の治療面、精神面のフォローのために特別チームを立ち上げる。第三に、全職員、全入院患者のPCR検査を24時間以内に完遂する。さらに、本日から約2週間を目安として、外来をのぞく一般診療を原則停止する。各部署長は、組織の再編、疲弊した職員の休養、業務再開のタイミングについて、提案をお願いしたい」

鋭い声で次々と指示が出され、静止していた時間が再び動き出した。

『臨床の砦』(夏川草介、小学館、2021年4月28日発行)より


激務と重圧で体調を崩す医療従事者のかたも多いと思います。せめて、十分な休養をとれますように。もう連絡も取っていないけれど、わたしの知人が何人も現場で激務に耐えているのはわかります。わたしはどうしたらいいのかな、と思い、きょうもnoteに書いてみました。

All that I can now is to pray... ☆


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