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「ジオラマボーイ・パノラマガール」の違和感

この一瞬、こんな風に、すれ違った。
彼は見下さなかったし、彼女は上を見上げることはなかった。
でも、そんなことは、ありふれた出来事である。

「青春映画」を作るのは、いつだって大人たちだ。企画書をつくる人、稟議書に判子を押す人、企画に賛同して出資する人、依頼を受けて脚本を書いたり、現場で監督をしたりする人、完成品を宣伝する人…全員いい年をした大人だ。唯一スクリーンの中に居る演者のみ当事者である子どもの仕事だけど、とうの昔に成人を迎えた俳優が制服を着て学生の役を演じることも多い。制作の過程に青春真っ只中のリアルな若者が携わることはほぼないと言っていいだろう。すでに高校時代なんて人生のアルバムで言ったら序盤の数ページに押しやられてしまった大人たちがつくる「青春映画」を、同じような大人たちが見て、「これこそが青春だ」とよろこぶ。なんとも奇妙な光景ではないだろうか。

岡崎京子作品の実写化という壁

瀬田なつき監督の最新作「ジオラマボーイ・パノラマガール」を見ておぼえた違和感の根本原因を探ると、結局のところこの「光景」に行き当たるのである。

32年前の岡崎京子の同名漫画を実写化するというそもそもの生い立ちからして、この映画は矛盾を抱えている。彼女の作品はすでに「ヘルタースケルター」「リバーズ・エッジ」「チワワちゃん」の三作品が実写化されており、それぞれ蜷川実花、行定勲、二宮健と油の乗ったクリエイターが監督を務めているが、正直なところ青春映画として成功しているとは言い難い。もちろん、岡崎京子の全盛期を知る人は違う見方をするだろうし、原作を読んでから見ればより深く映画の世界を楽しむことはできるだろう。しかし、どの作品も現在を舞台にしながらバブリーな空気感を引きずっていて、どことなくノスタルジックな匂いすら漂っている。「リバーズ・エッジ」でハルナが通う学校の荒れっぷりにリアリティは感じないし、「チワワちゃん」のようにお金も時間も余って仕方なくて虚しいという感覚を共有できる大学生が、いまの世の中にどれほど居るのだろうか。どうあがいたってここで描かれる若者の生態はファンタジーである。映画は虚構の世界だからそれでもいいかもしれない。でも、それを「いまも昔も若者の悩みは変わらないね」という具合に描かれてしまうと、そんなのウソだと意地悪を言いたくなってしまう。これらの作品で描かれる「現在」には明らかに奇妙な形で「過去」が同居している。そして「ジオラマボーイ・パノラマガール」もまたその矛盾からは逃げられていないのだ。

3つの並行世界がつくりだす「キメラ的東京像」

「ジオラマボーイ・パノラマガール」の世界はあらゆる意味で「パラレルワールド」なのだと思う。それは様々な時間の流れを重層的に取り込んだ「キメラ的東京像」と言い換えてもいい。

たとえば、原作の要素をそのまま取り入れたであろう1980年代当時の東京のカルチャーの数々。映画は露骨に2020年のカルチャーを描くことを拒絶し、岡崎京子ワールドへのノスタルジーに振り切っている。小沢健二のレコードを貸し借りし、戯れに村上春樹の作品名を連呼する女子高生たちは、学生証を拾ってもSNSで名前を検索したりはしない。校門の前で待ち伏せといういちばん遠回りの手段を選ぶ。ハルコが気になる彼と出会う場所はディスコであり、行きずりの男とファーストキスを交わすのは渋谷PARCOの前だ。このファッションビルが東京の若者文化を代表する時代など大昔に終わっていて、テナントはもはや中高年向けの「ほぼ日」ショップや外国人観光客をターゲットにしたポップカルチャーショップに入れ替わっているというのに。

さらに、新型コロナウイルスの蔓延による東京オリンピックの「延期」は、映画に想定外の切り口を与えたと言える。本作の舞台となるのは、成熟しきった東京に於いて数少ないフロンティアであるベイエリア。晴海・有明等を中心に再開発が進んでおり、東京オリンピック関連の施設も数多く建設されている。ハルコの誕生日パーティが催された小学生たちの隠れ家は、晴海の選手村予定地のマンションであった。雨後の筍のように天までにょきにょき伸びる高層ビル群は、オリンピックという一大イベントを控えた東京の未来と、ハルコとケンイチの恋の希望の象徴として捉えられたはずだ。

しかし、終わりなきウイルスとの戦いに疲弊し、来年のオリンピック開催すら危ぶまれるこの世界で、「ジオラマボーイ・パノラマガール」の景色はある種のファンタジーとして観客の目に映るだろう。野木亜紀子が「MIU404」で描いたように、そこで展開されるのはもうひとつの「あり得たかもしれない未来」=「パラレルワールド」だ。「こんなはずじゃなかったのに。」という劇中のハルコのセリフが、本来とは違った意味で見る者の心に響く。

一方、居間のテレビのニュース映像や、何気ない雑談からそれとなく示唆される「宇宙からの飛行物体の襲来」という世界の終焉を匂わせる不気味な設定と、そんなことなどなかったかのように振る舞う若者たちの向こう見ずな姿のビビッドな対比は、未知のウイルスの驚異にさらされながらも「新しい様式の生活」を営むこの「現実」を、偶然にも予言してしまっている。そういう観点に立てば、「ジオラマボーイ・パノラマガール」はファンタジーを描くことで、却ってこの奇妙な世界をありのままに映し出すことに成功したとも言える。

オザケンやディスコに代表されるバブル末期の若者文化、ゼロ年代以降に発展した湾岸エリアのタワマン群、そして「幻のTOKYO 2020」。そんな3つの時間軸を横断して作り出される「キメラ的東京像」は、意地悪な見方をすれば、大人の願望の写し鏡である。大人が自分たちの好きなカルチャーと、自分たちの望む東京像をめいいっぱい詰め込んだ夢の世界。そこにリアルな東京の現在はない。もちろん岡崎京子の原作への最大限のリスペクトという前提に立って考える必要はある。しかし、この映画に当事者の視点が含まれているとは、どうしても思えないのである。新型コロナウイルスの蔓延という想定外はあれど、映画館に足を運んだ女子高生(そもそもどれだけいるのか知らないが)が、「これは私たちの映画だ」と受け止めるのだろうか。そんな疑念がより強くなったのは、ハルコとケンイチの恋の行く末と、さらにその先を描いたエンドクレジットを見たときだ。

空に舞うUFOに見る希望

偶然の出会いからはじまったハルコとケンイチの関係は、ボーイ・ミーツ・ガールのお約束を絶妙に迂回しながら、クライマックスの「サプライズ誕生日パーティ」でついに交わることになる。ここで重要なのは、視点の切り替えだ。マユミの大人な香りに引きずられていたケンイチも、恋に恋していたハルコも、結局のところ目の前の生身の関係から逃げていた。幻想を追いかけていたに過ぎなかったのである。それが、ほぼはじめて同じ空間にふたりきり、本心をさらけ出した状態で対峙するのだ。お互いに異なる方角を見つめ、さまよい続けたふたりが、偶然の積み重ねの果てに、目線を交わし合う瞬間。見下さなかった少年は世界を「ジオラマ」で俯瞰し、見上げなかった少女は未来を「パノラマ」で展望する。「ジオラマボーイ・パノラマガール」という不思議なタイトルがここに来て回収されるのだ。

ハルコとケンイチは一晩を共にした後、始発で家に帰ろうとモノレールの駅にやってくる。しかし、まだ興奮冷めやらないふたりは、いたずらっぽく、こんな会話を交わす。

ケンイチ「家と逆方向、乗ってみない?」
ハルコ「ねぇ、なんかこういうのってさ…」

「ジオラマボーイ・パノラマガール」は、このようにして、恋のはじまりの高揚、思わず走りたくなるよろこびを、まるで釣り上げたマグロをそのまま冷凍室に放り込むような素早さで鮮度そのままに閉じ込めて、唐突に幕を下ろしてしまう。このあと1秒でも長く尺を伸ばしてしまったら、食卓に届く頃には生臭くなってしまうとでも言いたげだ。

問題はこの後、すなわち、エンドクレジットである。

晴海の選手村にふたりを置いてけぼりにしてしまった友人のカエデとナツ、タイラの3人が、街を見渡せる高台(ここには「ジオラマ」と「パノラマ」両方の視点が存在する)から、青空を見上げる。しばらくするとテレビのニュース映像では「恐ろしい外敵」として扱われていたUFOたちがその存在を主張するように光り始める。はじめは気のせいかと思うほどほそぼそしていた明滅はやがて激しさを増し、空を見ていた3人も、空から舞い降りてくる光に気づきだす。そんな光景は、ここに居ないハルコとケンイチの恋のはじまりの予感とともに、エンディングテーマとして流れる子どもたちの合唱によって、明るい未来の希望として「祝福」されるのだ。

一貫して少年少女の視点からは排除されてきたUFOが、物語のクライマックスで、期待に満ち溢れた出会いの象徴として立ち現れてくる。プロデューサーの松田広子はこの演出をもともとは「遊びだった」と振り返っている(劇場パンフレット p.31参照)が、このコロナ禍に於いて、変質していく世界に「奇跡」が訪れるという大オチは、まったく違った意味を帯びてくるだろう。ここに見いだされるのはやはり「ジオラマ」と「パノラマ」の対比、すなわち、視点の切り替えというテーマである。大人たちが恐怖に震え、大規模なデモまで起こして対処方法を争っていた宇宙からの来訪者も、子どもの目線から見れば、新しい世界のはじまりを告げる希望の証なのだと。

しかし、僕にはこのラストがものすごく能天気で、無責任なものに見えてしまう。記事の冒頭で触れたように、これは大人の作った大人の映画であり、当事者不在の「希望の押しつけ」なのだ。「大人たちはUFOに怯えて世界の終わりに絶望していたけど、子どもたちは常に目の前の恋や冒険に全力で、世界の変容を希望として受け入れるんだよね」と。もちろん、作り手がそのような意図をこの「遊び」に込めたのかどうかはわからない。しかし、結局のところこの映画は、オザケンや村上春樹を盛り込んでは岡崎京子へのノスタルジーを匂わせ、上滑りも気にせず「キメラ的東京像」にこの30年の思い出を詰め込んだ大人たちが、朝から晩まで動物のようにちょこまか動き回るキュートさ全開の女の子(こんな子、現実にいるはずがない)を操り、「高校生の恋愛」への希望をぜんぶ背負わせた、大人のための「青春映画」なのだ。だからこの多幸感あふれるエンディングも、妙に浮ついて見えてしまう。中途半端に不穏な空気を残すぐらいだったら、いっそUFO関連のエピソードをまるごとオミットしても良かった。女子高生にあらゆるものを背負わせて、未来への希望を語らせても、畢竟大人のための慰めにしかならないのではないか。こんなことを熱っぽく語る僕自身、一応アラサーを迎えたので(中身の成熟度はともかく)外見上は、当事者ではなく、大人サイドの人間に入るのだが。

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