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「MIU404」と「半沢直樹」が描く2020年

コロナ禍で制作・放送が延期された2020年夏ドラマ「MIU404」の最終回は、この番組が歩んできた道をなぞるようにふたつの未来とその分岐点を描き出した。ひとつは、2019年10月16日 0:00に志摩が命を落とし、相棒の伊吹が憎しみに負けて犯人の久住を殺害してしまう世界線。もうひとつは、チームメイトの九重から送られたスマホのメッセージをきっかけに目を覚ました志摩と伊吹が、追跡の末に久住を逮捕する世界線。トゥルーエンドは後者であり、志摩が死に伊吹が暴走するバッドエンドは合成麻薬の見せる幻覚だった。すんでのところで踏みとどまった伊吹は、成川やガマさんのようには〈道を踏み外さなかった〉のである。脚本・野木亜紀子が「逃げるは恥だが役に立つ」や「アンナチュラル」を通して一貫して描いてきた、人間とは選択と経験の積み重ねによって形作られるものであり、異なる立場にたてば当然違う世界が見えてくること、生きることの面白さと寂しさはその摩擦にこそあるのだという視座の総括とも言える内容だ。

当然のことながらこの「あり得たかもしれない未来」への眼差しは、世界的な新型コロナウイルスの蔓延と社会の混乱を想起させる。もしかしたら去年の時点で誰かがこのウイルスの脅威に気づき、武漢の生鮮市場で蔓延した奇妙な病気の一つとして処理されて半年後には誰も覚えていない…という未来だってあり得たかもしれない。でも、現実はそうはならなかった。僕たちは東京オリンピックが延期され(バットエンドの世界線では何ごともなくオリンピックは開催され、「大成功」を収める)、志摩と伊吹がマスクをしながらパトロールをする世界に生きている。人生に「もしあのときこうしていたら…」という後悔はつきものである。野木亜紀子はそんなどうにもならない現実を、IFを知らない志摩と伊吹の生を祝福することでほろ苦く肯定して見せたのだ。

テレビドラマは世間の写し鏡である。放送延期による話数短縮がありながらもアクロバティックに2020年の東京を描いてみせた「MIU404」が高評価されたのは、少なからず視聴者が自分たちの抱える想いや苦しみをすくい取ってくれたと感じたからであろう。バブル期に流行ったトレンディドラマをこの令和の時代にそのままトレースしたって流行らない。恋する者同士の物語はいつだって魅力的だけど、その在り方は時代とともに移り変わる。テレビドラマはその時なにが最も求められているのかを教えてくれる窓だ。その前提に立ったとき、2013年に社会現象を巻き起こし、2020年に満を持して復活を遂げ、ふたたび大ヒットした「半沢直樹」は非常に興味深い示唆を与えてくれる。

「半沢直樹」という祭り

「半沢直樹」はまさしく祭りであった。趣味嗜好が細分化し、なかなかみんんなで同じ「面白い」を共有できない世の中にあって、幅広い世代がテレビの前に座って放送開始を心待ちにするようなドラマはとても貴重だ。TBSもその点は心得ていて、年初からお祭り感を演出することに心血を注いでいた。1月3日には「半沢直樹イヤー記念・スピンオフ企画」と銘打ち、吉沢亮と今田美桜のダブル主演ドラマ「狙われた半沢直樹のパスワード」を放送。本編前半の「スパイラル編」への種を巻いた。まだお茶の間が温まる前から「半沢直樹イヤー記念」だなんてはしゃぎすぎじゃないかと正直少し冷めた目で見ていたのだけど、この夏の盛り上がりっぷりを見るにTBSの作戦は大成功を収めたのではないかと思う。

TBSのプロモーションがうまかったのは事実だけど、ここまで大ヒットしたのは当然お話の中身が面白かったからである。前シリーズ同様「ロスジェネの逆襲」と「銀翼のイカロス」というふたつの原作を接合した二部構成は、通常のドラマでは味わえない密度とスピード感を生み出していた。初回から25分拡大スペシャル、第2話と第4話で15分拡大と、最初の4話でふつうのドラマの5話分の尺を使ってしまうのだから、そもそもセオリー通りに枠に収める気がない。小会社に出向して早々プロパー組と出向組のゴタゴタに巻き込まれ、伊佐山部長と対立し、さっそく掴んだ大型買収案件のチャンスが誰かのせいでご破断になり…までを第1話で描いてしまう欲張りっぷりだ。自粛期間中に流行った「梨泰院クラス」や「愛の不時着」の長尺と急展開に慣れていても身体がびっくりしてしまうボリューム感。あまりに濃すぎて、あれだけ強烈なインパクトを残した伊佐山部長を「帝国航空編」の頃には誰も覚えていないという始末だった。一話完結ならともかくクリフハンガーでダレがちな続き物でこれまで視聴者の心をつかんで離さなかった秘訣は、この近年でも屈指のテンポ感にあったのではないだろうか。

一方でながら視聴でもそこそこついていけてしまうシンプルさやわかりやすさも併せ持っていたのが「半沢直樹」のずば抜けた点だった。去年放送の「いだてん ~オリムピック噺~」は唯一無二の魅力を持つハイクオリティなドラマでありながら、複雑かつ豊かなストーリー展開(こちらも「金栗四三編」と「田畑政治編」の二部構成なのは単なる偶然だろうか)に追いつくのに体力を要するのが難点だった。もちろん「半沢直樹」も相当カロリーの高いドラマであり、まじめにすべて拾おうと思うとどっと疲れる重さがある。だけど、このドラマはただぼーっとテレビ画面を眺めているだけでも十分楽しめるのである。ざっくり言ってしまえばその源泉は映像の「リッチ感」と「顔芸大会」にある。

「リッチ感」による補助線

たとえば三笠副頭取と伊佐山部長が悪巧みをする場面。彼らの背には、増上寺と東京タワーが闇夜に不気味浮かび上がっている。いかにも悪そうな面をしたオヤジふたりと、大都会東京のランドマークの並びは、これだけでお腹いっぱいの情報量である。正直、彼らの会談の場が増上寺である必要は一切ない。その理由はただひとつ、テレビドラマとして映えるからである。だが、それがいいのだ。テレビドラマが映像作品である以上、求められるのは一にも二にも視覚的な喜びなのだ。大事なのはぱっと見の「ワルそうな奴らがワルそうなことを企んでいる」感であり、見ているだけで楽しめる「リッチ感」なのだ。これが薄暗い会議室だったらいまいち締まらないだろう。

第9話で大和田と半沢が「おんぶ土下座」をしたホテルの会食室も同じ文法に則っている。明らかに過剰なスペースの真ん中にシャンデリの光を浴びてふてぶてしく座る箕部幹事長。その只者ならざる雰囲気に視聴者は彼の手強さを直感的に悟る。勇ましく乗り込んだこのあと半沢が敗北することは、このショットの演出で決定づけられている。とりあえず偉い人と言えば「最上階の執務室」、「異常な広さの会議室(作中最も印象的なロケーションは大和田が土下座をした東京中央銀行の役員会議室だ)」、それから「高級ホテルのVIPルーム」。世間一般のイメージを馬鹿正直に取り込んだコントすれすれの過剰演出が、複雑な物語を飲み込みやすくする補助線の役割を果たすと同時に、視覚的な満足感を与えてくれるのだ。

ちなみに無駄に増上寺を参拝したり高級料亭で盃を交わす悪者サイドに対し、半沢の仲間たちが集うのはたくさんの平社員が行き交う雑多なオフィスであり、機密情報を話すには隣の客と近すぎる安居酒屋であり、薄暗く汗の匂いが立ち込める剣道場である。第10話で白井大臣が決して広くはない半沢の社宅に訪れたのは、彼女が「こちら側」になびいたことを示す分かりやすい演出だった。半沢が居るのはいつも僕たち下級の者には馴染み深い光景なのだ。

視聴者と演者の共犯関係

もうひとつの鍵は「顔芸大会」にある。シーズン1の決め台詞「倍返しだ!」と大和田屈辱の土下座は強烈なインパクトを残したし、数々のパロディを通してある種の一発ギャグとして昇華された。しかし、まさか本家がここまで露骨にセルフパロディをカマしてくるとは視聴者も予想しなかったのではないだろうか。明らかに前作の反響を意識してドラマのテイストを変えている。しかも9月6日の緊急生放送番組での発言を聞く限り、第1話の「お・し・ま・い・DEATH!」が香川照之のアドリブだというから驚きだ。

そのあと香川照之だけでなく、市川猿之助、片岡愛之助、江口のりこ、柄本明…と名だたる俳優たちがなんとか爪痕を残そうとしのぎを削り、最終的に「顔芸」のインフレ状態になったことはご存知のとおりである。放送当日は大和田や黒崎がなにか言うたびにツイッターのトレンドにワードが浮上し、翌日のネットニュースを大いに賑わわせた。ストーリーラインを追わずとも、ある種のコントとしておじさんたちの絶叫を楽しんでいた視聴者は少なくなかったはずだし、ともすれば地味な絵面になりがちなスーツを着た中年男性の集いに「顔芸」が新たな楽しみを与えていたことは事実だろう。先日の緊急特番での雰囲気を見るに、視聴者の熱を汲み取った現場の気迫が相当なものであったことは想像に難くない。「顔芸大会」は制作・演出側からの一方的要求ではなく、視聴者と演者の共犯関係が生んだカオスだったのである。

しかしどれだけ過剰な演技をはさんでも単なる疑似コントにまでレベルを落とすことなく、要所要所の痺れる演技で見ごたえる人間ドラマに仕上げていたのは、さすが選りすぐりのテラン俳優陣だと思った。特に僕が好きなのは最終回のラスト、退職届をめぐる半沢(堺雅人)と大和田(香川照之)のやり取りだ。シーズン1最終回の土下座劇を振り返り、改めて宣戦布告を仕掛けてきた半沢に対し、(自分からけしかけたのだが)大和田は叫ぶ。

「親父さんが勝手に亡くなって、お前なんかに恨まれたせいで私の銀行人生はめちゃくちゃだ!この世でいちばん嫌いなお前を全人生を懸けて叩き潰す!受けて立て!」

半沢もすかさず応戦する。

「わかりました。受けて立ちましょう。だが今度こそ容赦しない。完膚なきまであなたを叩き潰す!」

そんな彼のことばに大和田がニヤリとひと言。

「上等だ…やれるもんなら、やってみな!」

頭取に忠誠を誓い、ジョーカー的立ち回りで銀行のために尽くしてきた大和田(「メタルギア・ソリッド4」を思い出す)が、苦楽をともにしてきた半沢にかけるそのことばと表情には、字義通り銀行人生をめちゃくちゃにされた怒りや憎しみ、それでいて一流のバンカーとして認めざるを得ない悔しさ、戦友にたいする敬意、愛情、これでお別れという寂しさ…これまで抱いてきたすべて感情が込められていた。これだけ複雑で捻じくれた心の内側をほんの一瞬の表情と声の震えに込めてしまうその技術!もうあっぱれというほかなかった。こういうドラマがしっかりしているからこそ、その味付けとしての「顔芸大会」も面白みが増すのである。

現代日本のカリカチュア

「半沢直樹」の魅力についてストーリー、演出、キャストの3点を軸に考えてきたが、ここで最初の「MIU404」の話を思い出してみよう。僕はテレビドラマを「時代を写す鏡」であると定義した。この視点に立ったとき、おそらく多くの人は「半沢直樹」を理不尽に抗う物語として読むだろう。僕もまったくもって同意である。一億総中流なんて昔の話。強者と弱者の格差はどんどん広がり、右肩上がりの人生なんて望めない。自己責任の社会では一歩でも道を踏み外したら終わりだ。だから僕たちはすこしでも長くいまの地位にしがみつこうと、歯を食いしばって理不尽に耐えている。抗ったって何も変わらない、戦ったら戦った分だけ損をするとみんながうっすら諦めているこの世の中で、どんな難局でも見捨てない仲間たちの力を借りて下剋上をする半沢直樹は、とてつもない輝きを放つのである。彼は日本社会の閉塞感が生んだニューヒーローなのだ。※1

そうはいっても「半沢直樹」の物語自体は「サラリーマン時代劇」と揶揄されるように、古くから親しまれる大河ドラマや「水戸黄門」シリーズのパッケージを踏襲している。骨格だけ見れば古典的とすら言えるし、香川照之らの過剰な演技や大見得を「現代の歌舞伎」と評する人もいる(僕は歌舞伎に明るくないのでこの表現が正しいのかはわからないが)。しかし、やはり描かれていることは現代的なのである。お上に逆らえない銀行組織や、すべての責任を追って自殺した故・牧野副頭取にはこの社会の歪みがこれでもかと凝縮されている。あまりに現実をなぞりすぎていて、いくら半沢が胸のすくような活躍をしたって直視できないかもしれない。

だからシーズン2では(前シリーズとの差別化も踏まえて)やり過ぎなまでにオーバーで分かりやすい演出を取り入れたのではないか。悪人はいかにも邪悪な面をし、密室で物事を決め、苦しいところを突かれたら「証拠を見せろ!」と逆上をする。役員会議室には女性が一人もおらず、花ちゃんはただじっと夫の帰りを待つ献身的な妻の枠からはみ出ることはない。その前時代的な描写に批判もあるが、変わらない現実をありのまま描いているとも言える。僕たちが日々肌で感じているこの社会の醜さをグロテスクなまでに過剰に描いた「半沢直樹」は、現代日本のカリカチュア(人物の個性を誇張した似顔絵・風刺画)なのだ。最終回のクライマックス、すべての悪事を暴かれてもなおシラを切り、会議室から逃げ出す箕部幹事長(柄本明)の小さな背中に、昨今の権力者への強烈な皮肉を感じ取ったのは僕だけではないだろう。

「半沢直樹」と「TOKYO2020」

ここまで「半沢直樹」を主にシーズン2の内容から読み解いてきた。しかし、僕が挙げた大半の魅力はシーズン1を見ても同じことが言えるだろうと。目に見えて明らかな差といえば、セルフパロディ的な過剰演出のエスカレート、それからドラマオリジナル要素としての半沢直樹と大和田常務の共闘関係ぐらいである。あえて嫌な言い方をすればそれ以外は過去の成功要因の「焼き増し」なのだ。

「半沢直樹」が社会的ムーブメントを起こした2013年末、新語・流行語大賞には4つの年間大賞が選出された。例年は多くてもふたつなのでこの年は豊作だったのだろう。もちろん「半沢直樹」の「倍返し」はそのうちのひとつなのだが、奇しくも同じく年間大賞に選ばれたのは、IOC総会のスピーチで強烈なインパクトを残し、東京オリンピック開催を呼んだ滝川クリステルの「お・も・て・な・し」※2 であった。あれから7年、半沢直樹は見事な復活を遂げ、一方の東京オリンピックは数多の迷走を経て、世界的な新型コロナウイルスの蔓延により1年間の開催延期が決定した。

「半沢直樹」と「TOKYO2020」。一見無関係の両者だが、どちらもこの7年間足踏みを続け、なにひとつ変われなかった日本の閉塞感の象徴とは言えないだろうか。半沢直樹は「倍返し」を叫び、下剋上の夢を見せてくれた。お茶の間は熱狂し、権力者に屈しないその勇ましい姿に喝采を送ったが、その4年後の流行語大賞は「忖度」だった(念の為だが別に流行語大賞が日本の全てだとは思っていない)。残念ながら現実は「半沢直樹」のようにはならなかったのだ。東京オリンピックも開催が決まったはいいものの公式ロゴの盗用問題、新国立競技場デザインを巡る迷走、名ばかりの「復興五輪」、建設作業員の過労自殺、JOC委員の裏金問題、暑さ対策…などなどトラブル頻発でこの国の体力がいかに低下しているかを嫌でも実感させられた。「コロナショック」を受けた開催延期に至るまでの経緯も批判が多い。待ちゆく人がみなマスクを着け、外国人観光客がひとりもいない今の東京の景色を、いったい誰が想像できただろうか。「1964年の再演」という夢はもろくも崩れ去り、むしろ思ったより早くこの国は沈没しそうだという絶望感すら漂っている。7年経っても半沢直樹が輝きを失わず、始まる前から失敗決定の五輪という貧乏くじを引いてしまった現実を、僕たちは生きているのだ。

7年という歳月で2020年に至るまでの日本を切り取ったとき、もうひとつ外せないキーワードが「安倍政権」である。豊作揃いの2013年新語・流行語大賞において「倍返し」や「お・も・て・な・し」に押し退けられる形で惜しくもトップテン入りにとどまったのが「アベノミクス」だったのだ。憲政史上最長の在任記録を更新し、体調不良を理由に先月辞職した安倍晋三の7年間は、「半沢直樹」や「TOKYO2020」の歩みとほぼ同期していたと言える。安倍政権はこの間、特定機密保護法の強行採決、集団的自衛権の解釈改憲、南スーダン日報問題、森友・加計学園問題と公文書改ざん、「桜を見る会」問題など数々の疑惑とスキャンダルを抱えながらも権力を維持し続けた。常にその政権運営の在り方には批判がつきまとったし、限りなく黒に近い証拠がスクープされることもあったが、政府首脳や高級官僚はのらりくらりと逃げ続け、責任を負わされるのはいつも末端の役人や弱い立場に居る人々だった。

シーズン2最終回、会見場で半沢直樹が叫んだ「あなたはもはや政治家ですらない。欲にまみれたただの醜い老いぼれだ!」ということばは、なにも箕部幹事長だけに向けられたものではないだろう。この7年間に限らず、日本を腐らせてきた「政治家」に対する批判の意図が込められていたはずだ。往生際の悪い幹事長の無様な姿に、何人か実在の政治家を重ねてしまったし、僕自身半沢のことばに胸がすく想いをしたのは事実だ。

しかし、テレビの中で悪党を面罵するヒーローを見てスッキリするだけでは、あまりに虚しいではないか、とも思う。「半沢直樹」は盛り上がれば盛り上がるほど傷口に塩を塗られるような痛みを伴うドラマだった。大人が自ら責任を取ろうとするのが「半沢直樹」いちばんのファンタジーなのは悲しい皮肉だ。現実には半沢直樹や矢口蘭堂のように旧態依然とした組織を破壊し、組み立ててくれるようなスーパーマンは居ない。一人ひとりが自覚的に社会のメンテナンスに参加しなければ、なにひとつ良いことなんて起きるわけないのである。僕たちはそろそろ「半沢直樹」を卒業するときに来ているのではないだろうか。※3

※1「オレたちバブル入行組」という原作のタイトルを主人公の名前に変更したのは好采配だった。「半沢直樹」という字面は「宮本武蔵」や「畔倉重四郎」といった講談のように古風な響きを感じさせつつ、「アイアンマン」や「スーパーマン」など昨今のスーパーヒーロー映画をも想起させる。シンプルだが力強いタイトルだと思う。

※2 男だらけの半沢ワールドでキャスティングボードを握るほぼ唯一の女性キャラ・白井大臣(江口のりこ)は、複数の女性政治家をモデルにしている。襟のたった白いスーツに身を包む様は立憲民主党の蓮舫議員を、丁寧な言葉づかいと有権者への巧みなアピールは小池百合子都知事を連想させる。そして半沢直樹を恫喝する際に放った「わ・か・り・ま・す・よ・ね?」のセリフは滝川クリステルの「お・も・て・な・し」)を引用している。ことばの区切り方からジェスチャーまで似ているのだから露骨だ。

※3 とはいいつつ、もしシーズン3の放送が始まったら僕は大喜びで毎週テレビにかじりつくだろう。

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