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ドナルド・トランプと戦う「ワンダーウーマン1984」

「TENET」以来となるハリウッド映画の封切りとなった「ワンダーウーマン1984」。4月の緊急事態宣言以降、ビッグバジェットの実写映画で劇場公開までこぎ着けたのはほぼこの2作のみと言っていい。大手スタジオの新作供給が完全にストップする中、ひとり気を吐くワーナー・ブラザースには頭が上がらない。大きなスクリーンでお金のかかった大迫力の映像を見るよろこびは、なにものにも代えがたいと改めて実感した。自社配信サービスのラインナップ拡充に完全にかじを切ってしまったウォルト・ディズニーにも見習ってほしいものである。

ワンダーウーマンとジョージ・オーウェル

「ワンダーウーマン1984」はタイトルの通り、1984年の首都・ワシントンが舞台だ。ショッピングモールは買い物におとずれた老若男女で賑わい、ダイアナはウォーターゲート事件の舞台になった豪華な高層ビルに住んでいる。アメリカが我が世の春を謳歌していた時代だ。第一次世界大戦中の最前線を舞台にした前作「ワンダーウーマン」の陰鬱とした雰囲気と比べると、ほとんど別の世界と言えよう。スティーブの決死の作戦によりアレスを撃破したあのラストから、劇中では60年近い年月が経っている。つまり、この映画で描かれた出来事から「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」までの期間より、「ワンダーウーマン」で恋人を失ってから冒頭の強盗退治をしている場面までの時間のほうがよっぽど長いのである。このあいだ彼女が何をしていたのかはまったく描かれていない。おそらく人助けや犯罪者の取締に勤しんでいたのだろうが、いくらでもドラマが作れそうな第二次世界大戦の時代をすっ飛ばしてしまったのは少々もったいない気がする。

そしてこの1984年という字面を見ておそらく多くの人が連想するのがジョージ・オーウェルの「1984年」であろう。第二次世界大戦が終結して4年後の1949年、台頭するソ連の全体主義への危機感や恐怖心を背景に、管理社会のなかで思考を奪われていく個人の末路を描いたこの小説は、いまでも新鮮味をうしなわず、世界中の人びとに読まれている。気味が悪いぐらい予言的な内容をふくむこの物語には「ダブル・スピーク」という概念が登場する。これは、受け手の印象を変えるために、あえてひとつの言葉に矛盾するふたつの意味を込めるレトリックのことを指す。たとえば、劇中では戦争を永続させるための政府機関が「平和省」と呼ばれている。こんなものは小手先のまやかしに過ぎないのだが、世の中にはこの手のウソがたくさんあふれていて、僕たちの思考力を奪い続けているのだ。新型コロナウイルスの感染拡大を無策のまま放置している菅内閣が「感染症対策と経済政策の両立」を声高にさけんでいるのは、いちばん卑近な例と言えるだろう。

ヴィランとして立ちはだかるドナルド・トランプ

そして誰よりもこの「ダブル・スピーク」の概念を体現しているのがドナルド・トランプ大統領である。先月の米大統領選挙で圧倒的敗北を喫したのにもかかわらず、敗北を認めることもなく、不正選挙の疑いがあるとウソをつき続けている。ジョー・バイデン次期大統領への政権移行手続きはすでにはじまっており、ゴーサインを出したのはほかでもないトランプ自身なのだが、彼は飽きもせず支持者に陰謀論を吹き込んでいるのだ。この4年間に彼がうみだした混沌と矛盾を上げたらキリがない。世界一の超大国のリーダーが、70年前のディストピア小説が予言した地獄を体現しているのである。

そういう目線で見てみると「ワンダーウーマン1984」の物語は、いかにも「1984年」的であり、ドナルド・トランプの存在を意識した内容になっている。今回のヴィランである実業家のマックスは、言葉巧みに投資をつのり、テレビCMでは堂々と振る舞っているものの、じっさいは借金の取り立てと親子関係の修復にノックアウト寸前の小心者だ。テレビでは人気だが、ビジネスの腕前は二流で自己顕示欲のかたまりというキャラ造形は、そのままドナルド・トランプに重なる。ハデな金髪におおげさな身振り手振りといううさん臭いビジュアルも、オマージュというよりモノマネのレベルだ。

そんな男が手を出したのは、古来から伝わる「願いを叶える魔法の石」だった。彼は自分自身が人びとの欲望を吸収し、実現するのと引き換えに対価を得る装置となることで、強大な力を手に入れていく。本来は投資に失敗した小悪党で終わるはずだった男が、くだらない悪巧みによって世界全体を陥れてしまうという筋書きはおもしろい。僕には地獄に突き進んでいくマックスという男が、徹頭徹尾ドナルド・トランプへのカウンターに見えた。彼がどんどんひどい目にあっていくさまは作り手のサディスティックな願望にも映ったが、最後の最後に改心するのは、せめてもの願いなのかもしれない。正直、個人的にはぬるい着地点に逃げたなと思ったものの、すべての悪事が都合よくリセットされ、みんなが救われる(だがダイアナだけが心に痛みを抱え続ける)ラストは、いかにも「女神」が主人公の映画だからこそ為せるアクロバットと言うこともできる。

ポスト・トゥルースを描くもう一本のアメコミ映画

と、このようにストーリーの軸のいち部分を切り出せばそれなりにきれいな一本の筋が通るのだが、残念ながら映画自体の出来がいいとはお世辞にもいえない。時空間の編集が絶望的にヘタで、あらゆる移動のおもしろさが削り取られている。マックスの悪巧みを追ってエジプトまで旅をする過程にはさんざん尺を割く(博物館から飛行機を奪うシークエンスの取ってつけたような雑さよ)わりに、ワシントンに帰るまでの道程はいっさい描かれず、次の場面では職場の同期と合流していた。クライマックスの防具を回収するくだりや、そのあとの最終決戦の舞台への飛行も、お粗末な見せ場の切り貼りに終止している。アクションも空間や奥行きを無視した平面的な動きにしかなっていない。肉弾戦にもかかわらずバストショットの切り返しでつないでしまう最終決戦の演出には、おもわず閉口してしまった。

前作の二番煎じでしかない再生スティーブとの悲恋も大幅な減点ポイントだったと思う。「ワンダーウーマン」では、はじめて人間世界にやってきたダイアナと、彼女をガイドするスティーブのカルチャーギャップの笑いが「ローマの休日」のオマージュになっていて面白かったのだが、関係性が逆転した本作でおなじようなやり取りを見ることはほとんどなかった。「キャラ萌え」に振りきるにしても中途半端で、前半はただただ雑で無味乾燥なデート映像を見せられることになる。掘れば掘るほど悪口が出てきて止まらなくなるのでここらへんでやめておくが、ことし見た映画の中でも下から数えたほうが早いレベルの内容であったことは事実だ。

同じようなテーマを描いたアメコミ映画で、もうひとつ完成度の高かったアメコミ映画がある。2019年公開「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」だ。結論から言うと、この映画のヴィランは「フェイクニュース」である。主人公のピーター・パーカーが敵だと思っていたモンスターは、ドローンの載せたプロジェクターと火薬が生み出した架空の存在であり、アイアンマンに代わりピーターを導くニューヒーロー・ミステリオはモンスターと同じ技術で生み出されたニセモノだったのだ。

すべてはミステリオによる自作自演というわけである。さらにたちが悪いことに、ミステリオは自分がピーターに倒されることを見越して、「スパイダーマンは殺人犯」というフェイクニュースまで仕込んでいた。ミステリオの死後、時限爆弾的にニセ情報を拡散されたスパイダーマンが窮地に陥るところで映画は幕を閉じる。「ワンダーウーマン1984」が「願いを叶える魔法の石」というゆるゆる設定で人間の欲望との戦いの物語をなんとか紡ぎ出していたのに対し、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が、AR技術やディープフェイクという最新のテクノロジーを駆使した「ありえなくはない未来」像で、僕たちの認知する世界を根底からゆるがす問いを仕掛けてきたのは非常にスマートだ。映画の構造そのものが「フェイク」であり、観客を騙す装置になっているのも憎い。現代社会の問題に切り込む批評性という観点ではマーベル・シネマティック・ユニバースの最高傑作「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」に匹敵するのではないかとも思う。

そろそろ2020年も終りを迎える。そして年が明けて2021年1月にはあたらしい大統領が誕生することになる。トランプ政権の4年間がアメリカ社会に残した傷はあまりに深く、世界中の人びとがその後遺症と向き合っていくことになるだろう。しかし、皮肉なことだがそんな混沌とした社会と向きあう映画がどんどん面白くなっていったのも事実だ。バイデン大統領の4年間、アメリカ、そして世界はどう変化し、その写し鏡である映画はどんな進化を遂げていくのか。注意深く見守る必要がありそうだ。

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