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凡庸に葛藤すること:日向坂46「月と星が踊るMidnight」感想

僕は仏像を見るのが好きだ。見ると気持ちが落ち着くし、癒やされる。気に入った仏像の前では何十分でも立っていられる。しばらく見つめていると、僕の心の中の葛藤や煩悩がぜんぶ見透かされている気分になる。人間が作ったものなのに、人知を超えた何かが宿っている。そうとしか思えない瞬間が立ち現れてくるのだ。

でも、すべての仏像に対してそういう感想を抱くわけではない。仏像そのものだけでなく、その仏像がもつ長い歴史と物語に僕は心惹かれているのだ。だから、こないだ切り倒された木で彫られたまっさらな仏様は、たぶんどんなに美しい顔立ちだとしても、そんなには感動しないだろうと思う。人間が作ったものであるはずの仏像が人間の世界を超えてしまうのは、そこに、人間の一生を超えた時間が流れていると感じるからだ。僕みたいな凡人が生まれてから死ぬまでよりずっと長い時間、その仏様は世界を見つめている。色んな人がその仏様を訪れ、祈り、縋り、泣き、願ったのだろうと思う。黒ずんだ木目の一筋ずつに何百年という人間の歴史と感情が染み付いている。きっと僕がこの世から消えてなくなった後も、同じことが繰り返されるのだろう。僕は、仏像にそういう人間のちっぽけさと時間の流れの途方もなさを感じるのだ。

そんな壮大な前置きをした上で言ったらバチが当たらないか心配だけど、鎌倉時代から生きている仏様を拝むのと、ステージの上で輝くアイドルに感動するのは、僕の中でどこか接続されている。大げさに言っているのではなく、わりと本気でそう思うのだ。


日向坂46の8枚目シングルは、かつて大人に反抗していたはずの自分が「社会」に馴染み、去勢されていくなかで、こんなはずじゃない、まだ間に合うはずだと奮起する、青春の終わりとはじまりを描いた齊藤京子の初センター曲だ。歌手になりたいと数々のオーディションを受け、みずから可能性を手繰り寄せた彼女が先頭に立つにふさわしい歌だと思う。しかし、まあ、別に新しいことを言っている歌ではない。捉えようによっては陳腐だろう。歌い出しから「古い校舎」「ガラス窓を叩き割ろう」など、いつまで使い回すんだと突っ込みたくなる秋元康的フレーズで溢れているし、メロディに対してワードを詰め込みすぎたせいで何を言っているのかわかりにくい。

じゃあ、現代的でワードセンスが斬新な歌が至高なのかというとそうでもないだろうと思う。なぜ世の中にラブソングが溢れているのかといえば、多くの人は恋とか愛とか抽象的で掴みどころのない概念に悩み、また、そうやって悩むのが好きだからだ。ありきたりでもいい。むしろ、ありきたりだからこそ尊いこともある。最近はそう思うようになった。

「月と星が踊るMidnight」の語る物語が凡庸だったとしても僕がこの曲を支持したくなるのは、そこに齊藤京子という「個人」の力のこもったパフォーマンスが乗っかるからだ。さっきと矛盾したことを言うようだけど、ありきたりなことをありきたりなままで終わらせない、圧倒的な個の表現として昇華させることが、アーティストの力なのではないか。ひらがなけやき時代からグループを引っ張る中心メンバーであり、歌もダンスもバラエティも全力で取り組んできた齊藤京子も、表題曲ではあくまで「フロント」の位置に固定され、エース級の実力を誇りながらもなぜかセンターには選ばれない、微妙な立ち位置が続いていた。まっすぐで不器用な言動ゆえに外野から余計な批判を招くこともあった。

そんな彼女が8枚目シングルのセンターに選ばれた。日向坂46はこれから全盛期というタイミングでコロナ禍の影響をもろに受けた。長い忍耐の果てに迎えた東京ドーム公演を成功させ、ひとつのゴールを迎えるとすぐに渡邉美穂は卒業し、あとを追うように宮田愛萌もグループを去る決意をした。グループははじめの成熟の時期を迎えつつある。「ドレミソラシド」でピュアな恋愛ソング路線の完成形を早々に見つけてしまい、「ハッピーオーラ」を超えるテーマを見つけられないもがきの中で突入したグループの岐路。日向坂46は順風満帆のようでいて実は難しい時期に来ている。齊藤京子はそのターニングポイントを任されたのだ。

日向坂46の魅力は「泥臭い爽やかさ」にあると思う。「ハッピーオーラ」はその表層をキャッチーにすくい取ったものに過ぎない。彼女たちは能天気に笑っているのではない。思い通りにいかないことをたくさん経験し、挫折と葛藤を重ねながら前に進んできた。その矜持と自身が笑顔に表れている。自分たちがみんなを笑顔にするんだと笑っている。強くないと出来ないことだ。彼女たちはナチュラルボーンのアイドルではない。裏側をすべて知ることは出来なくても、熱心に追いかけているファンなら、表に出てこない壮絶な努力をその言動から理解しているだろう。「キュン」や「アザトカワイイ」も素敵だけど、これらの曲からは日向坂46の重要なエッセンスがこぼれ落ちてしまっている。日向坂46のドキュメンタリー映画「3年目のデビュー」で描かれたように、芯の部分にあるのは「青春の馬」であり、坂道グループのオーディションを勝ち抜いた選良でありながらも良い意味での庶民性と親しみやすさをまとった雑草感なのだ。

「月と星が踊るMidnight」のセンターが「期待していない自分」の佐々木美玲ではなく、齊藤京子であるべきなのは、この雑草感に根ざす「泥臭い爽やかさ」を表現できるのが、彼女しかいないからだ。もちろん、佐々木美玲もまた地下アイドルから這い上がった努力の人なのだけど、身体的なことを言えば、齊藤京子は「小柄」なのだ。ゆえにフロントや二列目に立つと埋没してしまう危険もあるのだが、センターに立つとその小ささがかえって際立ち、フォーメーションそのものに物語性が帯びてくる。櫻坂46の森田ひかるも同様の例と言えるだろう。当然、みずからをセンターで輝かせるには振り付けや表情の繊細かつ膨大な微調整があってのものだが、齊藤京子だからこそ、そんなハイレベルな要求にも応えることができるのだ。


ちょっと前まで自分こそ特別でありたいという気持ちが強かったけど、最近、凡庸であることに救いを感じるようになってきた。僕の悩みや葛藤は大切だし、つまらないものだとは言わないけど、きっといつか誰かが通った道だと思えば、すこしは気分も楽になる。だから日向坂46のうんざりするぐらい平凡な歌詞も、平凡だからこそ、グッと刺さることがある。名もなき鎌倉時代の農民が、僕の目の前にいる仏様を拝み、僕と同じように悩んだり、苦しんだりしながら、なんとか生きてきた。そう思うと救われる。他人とおなじ道を歩むなんて意味のある人生なのかという問いが来るかもしれない。見方によっては、寂しいけどそれは正解かもしれない。でも、この一瞬こそ永遠であるという確信が年に一回、あるいは数年に一回、絶対に訪れる。それは人生のどんな場面であってもいい。少なくとも僕は、コロナ禍がいよいよ日本社会にも侵食し始めた二年前の春、おうちに籠もってやることがなく、こたつに潜って一日過ごしていた日々に出会った、齊藤京子の「ゲレンデがとけるほど恋したい」の衝撃と多幸感を忘れることはないと思う。なぜだか自分でもわからないぐらい感動したし、救われた。そういう瞬間を待つために生きるのは悪くないのではないかと思う。僕たちは「おひさま」なんかではなく、むしろ太陽に照らされた、夜にしか輝くことが出来ない「月」なのだ。

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