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2020年上半期映画ベストテン

新型コロナウイルスの世界的な流行は映画産業にも暗い影を落とした。4月の緊急事態宣言発令により全国のほとんどの映画館が休館に追い込まれ、多くの新作映画が公開延期の憂き目にあっている。東宝はゴールデン・ウィークの定番映画だった「名探偵コナン」のことし中の公開を断念したし、ディズニーもすべての待機作品のリリース日を夏以降に設定した。さらに4月20日に興行収入ランキングの集計が停止されたのは映画ファンに大きな衝撃を与えた。それは映画館がほぼ〈壊滅〉したことを意味するからである。

5月末の宣言解除以降、〈あたらしい生活様式〉の大号令のもと、映画館も徐々に営業を再開しているが、残念ながら以前のような活況はしばらく望めそうもない。仕方のないこととはいえ、すっからかんのシネコンで新作映画を見るのはなんとも寂しいものである。これではいずれ映画館の経営も立ち行かなくなるかもしれない。アメリカでは大手映画館チェーンのAMCが経営破綻の危機にあるとの報も流れている。映画産業と映画ファンにとっての本当の受難は、これからなのかもしれないのだ。

少々暗い書き出しになってしまったけど、先行きの見えないこの半年間、僕たちを鼓舞し、現実に立ち向かう気力を与え、ときに空想の世界に目を背けさせてくれたのは、やっぱり映画だった。2ヶ月間ほど映画館に行けない時期はあったけれど、ことしは56本の新作映画(配信含む)を見ることができた。せっかくなので特にすばらしかった10本の作品を中心に、2020年上半期の映画たちを振り返ってみたいと思う。

まずは、僕の選ぶ2020年上半期映画ベスト10の紹介から。

2020年上半期映画ベスト10

1.「ワンダーウォール 劇場版」(前田悠希)

2.「劇場版 おいしい給食 Final Battle」(綾部真弥)

3.「その手に触れるまで」(ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ)

4.「春を告げる町」(島田隆一)

5.「ジョジョ・ラビット」(タイカ・ワイティティ)

6.「劇場版ごん GON, THE LITTLE FOX」(八代健志)

7.「はちどり」(キム・ボラ)

8.「前田建設ファンタジー営業部」(英勉)

9.「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」(豊島圭介)

10.「ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語」(グレタ・ガーウィグ)

1.〈本気〉でバカをやり抜く

僕にとって映画を見る動機はさまざまある。繊細に作り込まれたアートフィルムで心を浄化したいときもあれば、バッドエンドのわかりきった悲恋モノを見て涙を流したいときもある。でも、いちばんはやはり〈楽しむこと〉だと思っている。特にストレスを抱えがちなときはなおさら。この半年間はつらいことも多かった。だからまずは僕が元気づけられた底抜けに明るいコメディ映画2本から紹介していきたいと思う。

自粛生活真っ只中の5月4日。本来であれば今ごろトルコのカッパドキアで気球に乗って朝日を…と気落ちしていた僕を元気づけてくれたのは「前田建設ファンタジー営業部」(英勉)だった。ゴールデン・ウィーク特別企画として開催されたオンライン上映会に運よく当選し、鑑賞する機会を得たのだ。この映画は「マジンガーZ」の地下格納庫を現代の土木建築の技術で建設したら?を試算するという「意味のない仕事」に挑んだサラリーマンたちの実話を題材にしている。監督の英勉は福田雄一と並んでコッテリしたギャグを好む作家で、時々そのしつこさに嫌気が差すのだが、今回は抜群に面白かった。小木博明(おぎやはぎ)と上地雄輔のおじさんコンビがぐいぐり引っ張り、実力派の岸井ゆきのと六角精児が脇を固め、主演の高杉真宙がバランサーとしてツッコミ役に徹する最高の布陣。彼らが真面目にふざけてくれるので楽しくて仕方ない。また、職業柄エンジニアと接する機会も多いので「たとえ経験不足でも本気でぶつかれば熟練のプロも対等な相手として本気の答えを返してくれる」ことに気付く中盤の展開はなるほどなあと納得だったし、はじめはバラバラだったチームが最後には「絶対に地球を救うぞ!」と一致団結するさまはバカバカしくも熱かった。エンディングのこだわりっぷりにも愛を感じる。ほとんど家から出られずストレスの溜まる時期だったけど、この映画のおかげでひさびさに腹の底から、なにも考えずに笑うことができた。じつに思い出深い作品である。

これを上回るお気に入りが「劇場版 おいしい給食 Final Battle」(綾部真弥)だ。こちらは給食マニアの中学校教師・甘利田が主人公。彼最大のライバルで「どちらがよりおいしく給食を食べるか」をつねに競い合う生徒の神野ゴウが給食改革を掲げて生徒会選挙に立候補し…というお話で「鈴木先生」meets「孤独のグルメ」といった趣がある。最大の見どころは「超絶給食バトル」だ。甘利田が黙々とメニューを分析しながら〈常道〉の食べ方で味わう一方、神野がそれをあざ笑うかのように独創的なアレンジを繰り出す。そして毎回甘利田が負ける笑 これがひたすら楽しい。また、ソフト麺を一気に入れると汁が器から溢れるとか、レーズンパンのおかずにレーズンの入った豆の煮物の狂った食べ合わせとか、給食あるあるネタも懐かしい気持ちにさせてくれる。こちらも〈本気でバカをやり抜く〉映画なのだけど、終盤には「給食とはなにか?」を問いかけるシリアスなドラマが用意されていて、思わずホロリとさせられてしまった。校庭でカップ麺をふたりがともにすするラストカットは文句なしの締めである。完全なるダークホースで、いい意味で期待を裏切られた嬉しさも込めてランキングの2位に入れている。

コメディ映画だと「エクストリーム・ジョブ」(イ・ビョンホン)「mellow」(今泉力哉)もすばらしかった。今泉力哉監督は去年公開の「愛がなんだ」から「アイネクライネナハトムジーク」「his」と打席に立つたびにホームランを打つ超売れっ子作家になった。来年公開の「街の上で」が非常に楽しみである。また、鑑賞前の期待値に反して面白かった作品では「仮面病棟」(木村ひさし)「ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密」(ライアン・ジョンソン)「ANNA アナ」(リュック・ベッソン)の3本も挙げておきたい。どの作品もテンポが良く、ジャンル映画の枠の中で作家が〈らしさ〉を発揮する良質なエンタテイメントだったと思う。

2. 劇場アニメと定額配信サービスのこれから

この半年間は新作アニメ映画を見る機会が例年と比べても少なかった。「2分の1の魔法」(ダン・スキャンロン)「名探偵コナン 緋色の弾丸」(永岡智佳)など春休み以降に公開が予定されていた作品が軒並み公開延期になってしまったからだ。いまのところ劇場で見られたアニメ映画は「劇場版 SHIROBAKO」(水島努)「劇場版ごん GON, THE LITTLE FOX」(八代健志)の2本にとどまっている。しかし、後者は近年見たアニメ映画の中でも出色の出来だった。

新津南吉の「ごんぎつね」をストップモーション・アニメ化と聞いたときは「いまさら?」と思ったけど、あとになってこれは大きな間違いであると分かった。原作を忠実になぞりながらも、アニメーションならではの解釈を加えており、まったく別の作品なのではないかと思うほど鮮烈に心を揺さぶられた。木彫り人形の手作りの質感がもたらす素朴な感情表現には、ほかでは見られない独特の生々しさがある。そして、人形劇のステージとなる美術セットのクオリティも高い。初秋のやわらかな陽射しに、やさしい月の光。飾り気のない自然の色彩は鮮やかだが、物悲しくもあり、ゆえに思い遣りのすれ違う残酷さが強烈にえぐり出されるのだ。ドラマティックな劇伴も効果的だったと思う。お話の中身はぜんぶ知っているはずなのに、最後はボロ泣きしてしまった笑 とても気に入ったのでランキングの6位に入れている。

劇場アニメといえば、6月5日の劇場公開を予定していた「泣きたい私は猫をかぶる」(佐藤順一、柴山智隆)が新型コロナウイルスによる公開延期を経て、Netflixでの全世界同時配信に切り替えられたのは衝撃的だった。配信初日に鑑賞したが「いいなあ猫は勝手気ままで。自分もああいうふうに…」という誰もが抱くであろう願望をうまいことファンタジーに昇華した初夏にぴったりの爽やかな内容で、大きなスクリーンと音響で見られたらと思わざるを得なかった。

ことしもNetflixは著名なクリエイターや俳優による注目作をつぎつぎと配信している。

2020年の限定配信作品では「6アンダーグラウンド」(マイケル・ベイ)「タイラー・レイク - 命の奪還 -」(サム・ハーグレーヴ)「ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから」(アリス・ウー)「WASPネットワーク」(オリヴィエ・アサイアス)の4本を鑑賞した。制作費が数百億円を超えるブロックバスターと賞レース狙いのアートフィルムの二極化が進んでいて、大人向けの中間層のドラマ作品やジャンル映画は劇場にかかりにくくなっている(そもそも分厚い尺で物語を描けるドラマシリーズにクリエイターが流れているのだが)と言われて久しいけれど、Netflixのラインナップを眺めていると見事にそのスキマ的な作品が多い。アマゾンプライムビデオ限定配信作品の「ヴァスト・オブ・ナイト」(アンドリュー・パターソン)もこの類かもしれない。ツボを抑えた良品が海外とのタイムラグなしで見られるのは嬉しい一方、ノア・バームバックやスパイク・リーの最新作まで配信限定になってくると、さすがに勿体ない気がしてしまう。

ところで、又吉直樹原作「劇場」(行定勲)は、劇場公開とアマゾンプライムビデオ配信の同時リリースになるらしい。おそらく劇場収益だけでは投資金額を回収できない現状を踏まえた苦肉の策だろうが、今後の映画館と定額配信サービスの行く末を占う試金石になるかもしれない。アメリカでは同様の問題を巡って大手映画館チェーンと配給会社の間でもめ事も起こっている。この施策がみんなにとってハッピーな結果に終わるのかは誰にもわからない。ただ、映画業界でも〈ニュー・ノーマル〉に向けた地殻変動が始まっていることはたしかである。

3. 女性として生きること

MeToo運動の拡がりからはや3年。そもそもの発端であるハリウッドの映画業界は、事あるごとに変化への覚悟と姿勢を示すべくアピールを続けてきた。「白人男性ばかり」と批判を浴び続けてきたアカデミー賞は会員の人種・性別等の比率を大幅に調整し、2020年には韓国映画「パラサイト」(ポン・ジュノ)に非英語圏初のアカデミー作品賞を与えている。まだまだ完ぺきではないものの、風向きが変わりつつあることを肌身に感じる映画ファンも多いのではないかと思う。

そのものずばりFOXニュースの著名キャスターによるセクハラ告発を題材にしたのは「スキャンダル」(ジェイ・ローチ)である。正直、まだ記憶も生々しいこの事件をエンタテイメントとして消費することに若干の抵抗はあったのだが、本作をきっかけに知ったことも多く、勉強になる映画ではあった。リーマン・ショック後のストリッパーたちの義賊的活躍を描いた「ハスラーズ」(ローリーン・スカファリファ)も類似作品と言えよう。これは主演がアジア系のコンスタンス・ウーとプエルトリコ系のスーパー・デーヴァであるジェニファー・ロペス(兼プロデューサー)がダブル主演を務めたことも印象深い。どちらも女性同士の連帯やシスターフッドが描かれている。この後でも触れるが、弱い立場に立たされた者による団結や反逆は、2020年の映画の中心的テーマのひとつであると思う(ここにきて「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」(キャシー・ヤン)をスルーしてしまったことが悔やまれる…)。

すこし毛色は異なるが、ベスト10にも選出した「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」(グレタ・ガーウィグ)は、古典作品を題材にしながらも、現代に通ずる〈女性として生きること〉の物語になっていて、非常にすばらしかった。赤を基調とした過去パートと淡く冷たい青色の現代パートの直感的な対比や、左方向への運動と右方向への運動の使い分けなど、法則性や反復を駆使した映像センスが抜群に光っている。なにより好きなのは4姉妹の関係性だ。しっかり者の長女メグに、活発で信念を曲げない次女のジョー、内気で優しいベス、そして甘えん坊で負けず嫌いの末っ子エイミー。僕の母親が3姉妹の末っ子なので、全員集合したときの部外者には割り込めないワチャワチャ感には見覚えがある。4人が集まったときのセッションとも言うべき掛け合いのリアルな温度感にはおもわずに唸ってしまった。

同じくベスト10に選出している「はちどり」(キム・ボラ)も1994年の韓国に生きる少女の感性をみずみずしくスケッチした傑作だ。注目すべきは映画全体に〈男性への嫌悪感〉が薄い膜のようにぼんやりと張り付いている点である。高圧的で人の話に耳を傾けない父や、受験のストレスから不機嫌を撒き散らす兄の存在に限った話ではない。単なる家父長制への反発にとどまらない、もっと身体的かつ感覚的な何かがここにはある。たとえばそれは主人公のキム・ウニが放課後に恋人とキスをした後、地面にぺっとツバを吐き捨てる仕草にも現れている。男性を拒絶しているわけではない。性的な対象としてある程度の興味もある。しかし、警戒感や緊張感は拭えないのである。

一方で、ウニが女性と接するとき、スクリーンには安心感が漂う。漢文塾の階段でタバコの煙を燻らす先生の背中を見て、多くの人が「この人となら大丈夫だ」と直感したのではないだろうか。あの窓から差すやわらかな日光と涼しげな風のゆらめきに、僕は深い感動を覚えた。天才的なカットだと思うし、ここに「はちどり」のすべてが詰め込まれていると言ってもいい。激烈な「スキャンダル」や「ハスラーズ」に対し、この映画は肌の上をさらっと風が撫でる程度に微温的かつさらりとした演出で、女性から見た社会(=男性の支配する)の景色を描いて見せている。

ちなみにこの話で言うところの〈男性への嫌悪感〉は思春期に限った話ではなく、多くの女性が共有している感覚なのではないだろうかと思っているのだが、じっさいのところどうなのだろう。いわゆるトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)ともまたすこし違う気がする。男性の僕からすると実感に欠ける事がらを多分に含むので、ぜひとも女性たちの率直な感想を聞いてみたいと思った。

4. 〈Wonder Wall〉に分断された世界で

思い返せば「アラブの春」が本格化した2011年はその後の世界史を塗り替えるターニングポイントだった。革命ドミノの本丸だったシリア政権打倒は失敗に終わり、大国の都合に振り回された末に泥沼の内戦に発展した。多くの難民がヨーロッパに押し寄せ、その後の移民排斥運動に繋がり、やがて〈分断〉の世界がやってきた。そして国や地域、人種に限らず、性別、宗教、出自のちがい、貧富の格差など、いたるところで対立は表面化し、激化していった。2020年はそのひとつの到達として記憶されるかもしれない。分断が拡がる一方、それに抗う声もまた確実に勢力を増しつつあるからである。ミネアポリス近郊で黒人男性のジョージ・フロイド氏が白人男性に殺害されたことをきっかけに発展した「Black Lives Matter」運動はその象徴であろう。ちょうど6月初頭のタイミングで日本公開された「ルース・エドガー」(ジュリアス・オナー)は、アメリカという人種のサラダボウルに生きる黒人たちの複雑な立ち位置が垣間見える秀作だった。戦争難民として裕福な家庭の養子にもらわれた主人公のルースが〈優秀なクラスの人気者の黒人〉のプレッシャーに押し潰されそうになる姿からは、日本に住んでいると分かりにくいアメリカ社会の温度が伝わってきて非常に興味深かった。

ビクトル・ユゴーの同名小説の舞台であるパリ郊外モンフェルメイユを舞台にした「レ・ミゼラブル」(ラジ・リ)は、より残酷でねじくれた現実を映し出している。黒人グループやムスリム同胞団、BACなど複数勢力が睨みをきかせ合うことで曲がりなりにも保たれていた地域コミュニティの秩序が、とある小さなトラブルを期に崩壊し、相互不理解と暴力の連鎖のはてに破滅を迎える様が描かれているのだ。彼らを統合する唯一の象徴として登場するのがサッカーなのはなんとも皮肉だった。

「レ・ミゼラブル」においてモンフェルメイユ崩壊の引き金となったのはストリートギャングとも言うべき団地の子どもたちの暴走であった。同じくフランスを舞台にした「その手に触れるまで」(ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ)と、ヒトラーを敬愛するナチス少年とユダヤ人少女の交感を描く「ジョジョ・ラビット」(タイカ・ワイティティ)の2作がいずれも大人から差別心を植え付けられた子どもを主人公に設定したのは示唆的である。「ジョジョ・ラビット」についてはこちらの記事を御覧いただきたいが、「その手に触れるまで」はジハード主義に染まったアメッドの少年ゆえの頑固さや反抗心、危険なまでに純粋な心のゆらぎを手持ちカメラで生々しく捉えており、非常に見どころのある作品だった。息の詰まるような接写と長回しが少年の一挙手一投足にサスペンスを与えている。両作の結末はまったく真逆とも言っていい後味を残すが、どちらも子どもたちの成長に未来への希望を見ていることはたしかだ。ひとは愛を知ることで優しさを知る、なんて書くと臭く聞こえるけど、目の前にいる人間の肌の温度や息づかいを感じたり想像できたりしない限り、とうてい壁なんて崩せないのではないかと思う。

社会やコミュニティの分断は海外に限った話ではない。ここ日本でも身近な問題として日々人びとの生活や考え方に影響を与えている。政治家やメディアが対立を煽り、人びとはゼロか100かで物事を判断するようになった。価値観のあわない相手との対話は拒み、一方的に言いたいことだけ言っていればいい。そんな考え方が世の中に蔓延しているように思う。「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」(豊島圭介)は「対話とは?」を改めて問いかける秀逸なドキュメンタリーだった。天皇主義者を自称し、私設の軍隊まで運営していた三島由紀夫と、学生運動の中心組織で、暴力的活動も辞さなかった東大全共闘。映画は1969年に行われた両者の伝説的な討論会の真実に迫る。三島由紀夫はたったひとり敵陣に乗り込んで東大全共闘の論客たちとぶつかり合った。一方は天皇を信奉する権威ある小説家。また一方は大学改革・反権力を掲げる生粋のインテリたち。両極かに見えた〈右翼〉と〈左翼〉の戦いが対話を通して意外な結末を迎えるラストには度肝を抜かれてしまった。そう、彼らは正面から相手に向き合っている。まず大前提に他者への敬意と関心がある。ときに極端な信念を持つ者同士ではあるが、これは喧嘩ではなく、対話なのである。三島由紀夫の懐の深さと、学生たちのギラギラとした目の輝き。たばこの煙が充満した講堂の熱情に僕はすっかり酔いしれてしまった。失われた青春を追い求める本作は紛れもない〈青春映画〉だった。

そしてもう1本、対話をめぐるすばらしい青春映画がある。京大吉田寮と大学当局の対立を題材にした「ワンダーウォール 劇場版」(前田悠希)だ。築100年以上の歴史と伝統を誇る近衛寮を舞台に、建て替えを主張する大学側と、補修しながら利用を続けたい寮自治会側の意見は平行線をたどり、やがて学生課に両者を隔てる壁が設けられ…というお話。言わずもがな、これは対話を拒絶する社会の象徴だ。ベルリンの壁が崩壊した民主化の時代は遠い昔。世界一の超大国の大統領が平然と移民排斥を叫び、国境に壁を築く。平和的なデモ隊を暴力で排除し、抑圧的な法律で反逆者を監視する。民主的なプロセスを無視し、仲間内の議論で決めたことを数の暴力で押し通す…。挙げていけばきりがない。

しかし、近衛寮の学生たちはこの〈不思議な壁=Wonder Wall〉に立ち向かう。ときに絶望し、挫けそうになりながらも。彼らは自分たちにこの場所を未来に受け継ぐ義務があると確信している。このボロくて汚い変人たちの巣窟が世界から消えてしまったら、もう二度ともとには戻らないのだと知っているのだ。好転しない状況への焦りや戸惑い、どうしても居場所を失いたくないともがく学生たちのあまりにピュアな願いと切実さに心を揺さぶられ、68分間、僕は最初から最後まで泣いていた。じつは負け戦なんじゃないかと薄々気付いていても戦わなければならないあの気持ちがわかるだけに。上半期最後に見た新作映画だが、ことしぶっちぎりのお気に入りとしてランキング1位に入れている。

5. 失われゆく空間と再生の希望

近衛寮=吉田寮のような場所が消えることはすなわち社会が余裕を失っていくということであると思う。秩序をはみ出した〈正しくない〉文化や古くて汚い建物をなんでもあたらしいものに更新したがるのはなぜだろう。それは一度捨ててしまったら二度と手に入らないものであることを、どこまで真剣に考えているのか。経済合理性を突き詰めた果てがみんなにとっての幸せでないと本当は気付いているはずなのに。そう考えざるを得ないのである。

再開発目前の渋谷区桜丘地区を舞台に、共同生活を送りながら夢追う少女を描いた「転がるビー玉」(宇賀那健一)は、そんな場所や文化にたいするノスタルジーに青春の終わりの寂しさを重ねた秀作であった。去年の公開作になるが「わたしは光をにぎっている」(中川龍太郎)「昨夜、あなたが微笑んでいた」(ニアン・カヴィッチ)も同様に失われゆく〈場〉を描いた作品だ。前者は下町の銭湯を、後者はカンボジアの歴史的集合住宅を主人公に設定している。時が経てば建物は古くなる。木造建築ならともかく鉄筋コンクリートの建物は老朽化が進めば立て替える必要がある。ひとの流れが変われば街の顔も変わる。すべては動的であり、同じところにとどまり続けることはできない。それでも建物がひとつなくなれば、そこに蓄積されていた人間の営みの臭いや汚れ、共同体の記憶といったものは失われてしまう。

建物どころか街そのものがまるごとなくなってしまうこともある。9年前の3月11日に起きた大津波は東北太平洋沖を呑み込み、人びとの生命や生活を根こそぎ奪っていった。その爪痕はいまだ被災地に暗い影を落としている。

〈復興五輪〉と銘打ち世界に招致をアピールした東京オリンピック・パラリンピックは、奇しくも震災から10年の節目に開催を迎えることになった。最後に紹介するのは「春を告げる町」(島田隆一)。今大会で聖火リレーの出発地に選ばれた福島県双葉郡広野町の現在を追うドキュメンタリーだ。

震災後に生まれた子と戻ってきた夫婦、復興テーマの劇に挑む高校生、過去の繁栄を知る老人たち…。この映画は「彼らが震災前になにをしていたか」に重きを置かない。震災当日の経験を語ることはないし、あの日を境になにを失ったとか、戻ってきて生活がどう変わったとかいった話は深掘りされない。安易に震災の爪痕にすり寄ることはせず、ひたすら広野町の人びとの生活を追いかけることで、彼らの人生を〈物語化〉することを拒んでるのだ。

では、この映画は何を描いているのだろうか。

県立ふたば未来学園中学の生徒たちが復興をテーマにした演劇に挑む場面は示唆的だ。彼らはこの劇が問いかける復興の意味を考え、もがき続ける。街の景色がもとに戻ったって、以前の生活は帰ってこない。亡くなった人は生き返らないし、過去がなかったことになるわけでもない。それではなにをもって「復興は終わった」と言えるのだろうか。そもそも復興とは終わるものなのか。考えても答えはないけど、考え続けるしかないのである。

けっきょく最後に残るのは〈生活〉なのだと思う。

「春を告げる町」が描くのも広野町の人びとの生活だった。数千年に一度の大津波や未曾有のパンデミックが日常を破壊し、これまで当たり前だと思ってきた常識や良心、盤石のはずのシステムが簡単に否定されてしまう時代。なにを信じていけばいいかわからない。誰かが正解を示してくれるわけでもなければ、アイアンマンのように世界の運命を背負ってくれるヒーローもいない。もはや劇的に世界が良くなることもないのだとしたら、「その手に触れるまで」でアメッドが最後の最後にひとの温もりを知ることができたように、あるいは「はちどり」のキム・ウニがヨンジ先生と出会って世界の広さに気付いたみたいに、すばらしい瞬間が訪れることを祈りながら、〈より善きもの〉を目指して毎日を生きるしかないのではないのだろうか。その積み重ねの果てになにかあることを信じるぐらいしか、凡人の僕がこの先希望を持って生きる道はないのではないだろうかと思ってしまうのである。

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