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ラブ・ストーリーとしての「ジョジョ・ラビット」

こんにちは。じゅぺです。今回はトロント国際映画祭観客賞を受賞し、アカデミー賞でも作品賞ほか6部門でノミネートの快挙を成し遂げた「ジョジョ・ラビット」について書きます。

「ジョジョ・ラビット」は、第二次世界大戦のドイツを舞台に、ナチスを信奉する戦争少年のジョジョ(ローマン・グリフィン・デイヴィス)と屋根裏に住むユダヤ人のエルサ(トーマシン・マッケンジー)の交流の日々を、ユーモアを交えて描く戦争映画です。詳しいあらすじについては以下をご覧ください。

第2次世界大戦下のドイツに暮らす10歳のジョジョは、空想上の友だちであるアドルフの助けを借りながら、青少年集団「ヒトラーユーゲント」で、立派な兵士になるために奮闘する毎日を送っていた。しかし、訓練でウサギを殺すことができなかったジョジョは、教官から「ジョジョ・ラビット」という不名誉なあだ名をつけられ、仲間たちからもからかいの対象となってしまう。母親とふたりで暮らすジョジョは、ある日家の片隅に隠された小さな部屋に誰かがいることに気づいてしまう。それは母親がこっそりと匿っていたユダヤ人の少女だった。
映画.com(https://www.google.co.jp/amp/s/eiga.com/amp/movie/91654/)より

滑稽なアドルフ像に込められた静かな怒り

「ジョジョ・ラビット」は、第二次世界大戦末期のドイツにおけるホロコーストを題材にしながら、全編にわたってユーモラスかつ軽妙な空気が流れています。人類史上最悪の戦争犯罪を扱うわけですから、単なるコメディにできるはずはなく、当然、相当繊細かつ綿密なバランス感覚が求められるわけですが、タイカ・ワイティティ監督はこの難題を華麗にクリアしました。

肝となるのは〈空想上の友人〉アドルフの存在です。立派な親衛隊の一員としてヒトラーを守り、敵を殲滅することを夢見る、根っからのナチス信奉者であるジョジョにとって、常にそばに居てくれるアドルフは頼もしい友人です。しかし、〈ジョジョ目線のヒトラー〉ですから、言動は子どもっぽいし、考え方も乱暴なんですね。ジョジョとアドルフの掛け合いはあまりにバカバカしくて笑ってしまいますが、この映画は要するに、かつてドイツ国民が熱狂していたヒトラーと彼の率いるナチスなぞ、この程度の連中だったのだと言っているわけです。〈空想上の友人〉アドルフは、ヒトラーのちょび髭とダミ声こそ寄せているとはいえ、あとはほとんど演じるワイティティ監督のオリジナルです。ヒトラーを律儀に真似る気なんてさらさらなくて、彼の醜悪な部分のみ抽出し、徹底的にコケにしてやろうという魂胆です。

思えば、オープニングからして、ナチスに熱狂するドイツ国民の様子をポップに編集した映像を背景に、ビートルズの「I Want To Hold Your Hand」を流すひねくれっぷりです。最初から「この映画は最後までこういうトーンなんでよろしく」と示していたわけですね。僕はこのアイデアに、ヒトラーや彼の象徴する差別や憎悪に対する、監督の怒りを感じずにはいられませんでした。表面的にはふざけ倒していますけど、根底にあるのは、人類の負の歴史への冷静な眼差しであり、この映画を未来の世代につなぐのだという覚悟なのだと思います。ナチスドイツとホロコーストをあえて子どもの目線に託し、コミカルかつファンタジックに描くことで、かえって現実の恐ろしさや醜悪さをえぐり出し、見る者に強烈なインパクトを与えるという試みは、見事に成功していると言えるでしょう。

目の前にいる生身の人間と向き合うこと

子どもは大人の言葉を素直に信じてしまいます。本来はウサギすら殺せない、気弱で優しい心の持ち主であるジョジョがユダヤ人に激しい憎悪を抱き、好戦的な態度を大人たちに誇示するのも、結局のところそれが正しいことであると刷り込まれたからになりません。そもそも子どもって覚えたての悪口を使いたがるものだと思うのです。授業で面白い言葉が出てきたら、とりあえず意味がわからなくても、それで誰かをからかってみる。誰だって似たような経験をしたり、あるいは子どもがそれで騒いでいるところを見たことがあるのではないでしょうか。

ジョジョの不謹慎な〈戦争ごっこ〉やアーリヤ人信仰の耳を塞ぎたくなるような言葉の数々もそれと同じことであり、周囲の大人の態度を真似しているに過ぎないのです。表面的には反復していても、心の根太まで染まりきっているかというと、そうではない。ユダヤ人の頭にはツノが生えているという珍説を本気で信じているぐらいなのですから。でも、直してあげないで放っておくと、本当にそういう思考回路になってしまうのです。

しかし、主人公のジョジョはそうはならなかった。屋根裏に匿われたユダヤ人の少女・エルサと出会えたからです。ユダヤ人は野蛮で劣っていて、アーリヤ人こそ世界で最も優れた人種なのだと信じきっていたジョジョでしたが、何をしてもエルサには勝てません。小刀片手に戦いを挑んでも全く歯が立たない。アーリヤ人はどーたらこーたらと勇ましいことを言っておきながら、あっさり負けてしまいます。ジョジョの空虚な妄想は脆くも崩れ去るのです。また、エルサは音楽や小説の知識が豊富で、その豊かな想像力でカラフルな絵を描き、両親を目の前で連行され、苦しい逃避生活を余儀なくされてもけっして挫けない強さがあります。ジョジョは大人たちに吹き込まれてきたユダヤ人像とあまりにかけ離れたエルサに混乱し、やがてそれらが幻想でしかなかったことに気づき始めるのです。

そして、物語の終盤、ゲシュタポが家に乗り込み、ユダヤ人がいないか部屋中を物色しはじめた時、ジョジョは必死にエルサを隠し、捕まらないように匿います。この時すでに、彼にとってエルサは〈バレたら家族ごと殺される厄介な存在〉ではなく〈外界の脅威から守らなければならない大切な家族〉になっていたのです。なにより、ジョジョには自覚がなかったけれど、完全にエルサに恋をしていました。街中の空気を汚染する憎悪や偏見の言葉の数々やナチスの勇ましいプロパガンダよりも、目の前にいる生身の人間を信じるしかなくなったわけです。たとえ〈敵同士〉であったとしても、本当に心通わせ合うことができるなら、生まれつきの属性で序列をつけたり、憎しみあったりすることなど、本当にくだらないことなのだと気づくはずだ。ジョジョとエルサの切なくも心温まる交感を見て、僕はその想いをより一層強くしました。

ジョジョを導く二人の大人

物語の中で、ジョジョを導く人が二人います。母のロージーと、ヒトラーユーゲントの教官だったクレンツェンドルフ大尉です。すべての人間が悪に支配されてしまうわけではなく、誰もが優しさを持ち、過ちを正すことができるのだということを、二人は証明しています。

ロージーはジョジョとエルサにとって、偉大なお手本でした。戦時中の苦しい生活の中でもオシャレを忘れず、お酒を飲み、気持ちが高まれば踊りに興じる。そして何より、美しい心の持ち主なのです。不器用な息子の靴紐を結んであげるためにしゃがむ動作に一つひとつに愛がこもっていたし、エルサに「大人の女になるとは」を語りかける時の目には本物の優しさが宿っていました(スカーレット・ジョハンソンの演技が最高なのです)。そんな彼女がナチスに洗脳されていくジョジョをどれほど心配していたかと思うと、胸がぎゅっとなります。残念ながらロージーは密告者として処刑され、広場で晒し者になってしまいますが、彼女が注ぎ込んだ優しさを、息子のジョジョは確実に受け継いでいくことになります。

ヒトラーユーゲントの教官でありながらドイツの敗戦を予期していたクレンツェンドルフ大尉だって、完全な悪人でありませんでした。その社会的地位とは裏腹に、心の奥底では戦争の継続や苛烈なユダヤ人差別は望んでいなかった節があります(彼自身がナチス内で激しい差別の対象になっていたゲイであることも関係しているかもしれません)。そうは言っても表立って声を上げないあたり、レジスタンスとして活動していたロージーとは対照的で、大尉はある意味で大人のウソや欺瞞の象徴とも言えるのですが。一方で、エルサの身分証を見たときの反応や、米軍の前でジョジョを助けるために悪者を演じたその無謀な勇気には、彼なりの懺悔の気持ちや優しさがにじみ出ていました。そして、ジョジョはクレンツェンドルフ大尉から渡されたバトンを手に、エルサの待つ屋根裏へと走っていくのです。ヒトラーとナチスを徹底的にこき下ろしながらも、グレンツェンドルフ大尉のような多面的なキャラクターを出すあたり、この映画の絶妙なバランス感覚が伺えます。大尉も矛盾を抱えながらも、自分なりに社会や国家に抗っていたのではないでしょうか。

憎しみを学ぶことができるなら、愛を教えることもできる

僕は「ジョジョ・ラビット」を見た後、アパルトヘイトと戦い、ノーベル平和賞も受賞した南アフリカの政治家、ネルソン・マンデラのこの言葉を思い出さずにはいられませんでした。

「生まれながらにして肌の色や出身や宗教を理由に他人を憎む人は誰もいない。憎しみは後から学ぶものであり、もし憎しみを学ぶことができるなら、愛することも教えられるはずだ。愛はその反対の感情よりも、人間の心にとって自然になじむものだから。」

1945年の終戦時点で10歳ということは、ジョジョは1934年〜35年の生まれです。全権委任法の成立が1933年、ニュルンベルク法ができたのが1935年ですから、彼は生まれた時からヒトラー独裁のもと、公然と人種差別が行われていた世界しか知りません。彼の吸う空気は、物心ついた頃から憎悪で汚染されていたということです。こんな状況ではたして子どもたちが人に優しい大人になれるでしょうか。どれだけ純粋な心を持っていても、いや、むしろイノセントだからこそ、子どもから先にそういう人間の負の感情や狂気に染まってしまうものなのかもしれません。

でも、ネルソン・マンデラが言うように、憎しみを学ぶことができるなら、愛を教えることもまたできるはずなのです。空虚な言葉で相手を愚弄し、知りもしない誰かを属性でくくって罵るより、目の前に困っている人がいたら助ける、自分の知らない新しい世界を教えてくれる人を尊敬する、楽しいときはいっしょになって体を揺らして踊る、屋根裏で死の恐怖に怯えるあの子を、自由な世界に連れ出したいと願う。そういう他人に対する〈愛おしい〉とか〈幸せになってほしい〉という感情こそ、人間の自然な感情なのだと信じたいでありませんか。

ジョジョとエルサが扉の前でデヴィッド・ボウイの「Heroes」にのせて踊りはじめるあのラストに抱いた複雑な感情を、きれいな言葉でまとめることは到底不可能なのですが、ただひとつ確かなのは、そこに希望があったということです。自然と体の動きが同期したあの瞬間、二人は〈愛〉を自覚したのだと思います。これまで当然のように信じてきた良識や社会の前提が、心ない大人たちによって破壊されていく様をうんざりするほど見せつけられてきた僕たちに、それでもまだ希望はあるんだぜと教えてくれるこの映画は、数ある戦争映画の枠を超えた、真の意味で人間の愛をラブ・ストーリーではないかと思うのです。

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