アイデアと移動距離

「アイデアと移動距離は比例する」とはフランスの哲学者のジャック・デリダの言葉である。自分はアントレプレーナー(起業家)である。起業家とは自分自身の努力で世界の全てを変えることができると信じている究極のわがままな人種だと思っている。ただ唯一自分の意思だけで自由に変えられないのは国家そのものではないだろうか?もちろん民主主義では選挙で国政は変えられるが、自分の一票だけでは変えられない。資産家が自分の金融資産を様々な形でリスクヘッジするのと同じように、どうして自分の国や住む場所をリスクヘッジしないのだろうかという考えもある(いわゆる永遠の旅行者という考え方)。
震災以降、積極的に世界各地を飛び回るようにしており、昨年からだけでも、アメリカ、フィンランド、ドイツ、バルト三国、台湾、シンガポール、韓国、中国など世界各国を廻り、1年の約1/3は海外にいる計算だ(もちろん全て仕事)。さらに日本にいる間でも仕事の打ち合わせなどで東京や神戸などに出掛けることは多いのだが、あくまでも本拠地は自分のこよなく愛する故郷の会津にこだわっている。
気になっているコンファレンスなど積極的に参加し、若い学生を連れて行くことも多い(食事は当然安いHootersで決まり)。こういう話をすると必ず周りから「海外いいですね〜!」と言われることも多いけれど、実際はお金もかかるのはもちろんの事、時差ぼけや、言葉の壁、習慣の違い、環境の違い、移動、国内と国外の仕事の二重の仕事をこなさなくてはいけない事、食事の違い、愛する家族と離れて過ごさなくてはいけないことなど数多くのストレスがある(今まで数多く旅しているがいつもエコノミーでビジネスクラスには乗ったことは無い!)。
では、どうしてそれでも旅をするのか?特に海外など全く文化も習慣も違うところに行くのは確かにストレスなのだけれど、予定調和ではない普段と違う環境に自分をあえて追い込むことによって、その一瞬一瞬により集中できる気がしている。例えば、言葉が話せなければ何もできない赤ん坊以下だし、ローカルルールを知らなければ治安が悪いところであれば死ぬかもしれない。レストランでは注文さえできなく、何が出てくるかも分からない。ただ、それは自分の知らなかったことを学べる貴重な機会でもあり、他の文化や習慣を学ぶだけではなく自分自身の文化やバックグランド、そして自分自身が何者であるかということを知る自己の探求の旅になるだろう。また多種多様な文化の越境者が、モノカルチャーな人に比べて引き出しの数が増えるのは言うまでもないだろう。
まだどんなに遠くまで旅しても、自分は知りたかったことを学んだとは言えない。知りたかったことが何なのかわからなかったからである。ただ私は、知りたかったことが何かわからなかったということを確かに学んだのだとも言えるだろう。
p.s. 個人的に旅で一番好きなのは、その土地でしか食べれない料理を食べたり、飛行機の中で誰にも邪魔されず好きな本を読んだりするのが大好き。だから最近の機内でインターネットを使えるサービスには大反対!

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

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