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回向文

爽やかに晴れ渡る秋の日、妻方の祖父の50回忌に参加してきた。

どこかの寺でやるのかと思いきや、会場はホテルであり、既にお斎のセッティング済みの宴会場の前方に小さな祭壇を設けてあるのがなかなか現代風で斬新だなぁ、などと思っているとお坊さんが入場してきた。

「お坊さん」と書いたが、一般的な坊主のイメージとはかなり違い、グレーのスーツに身を包んだどこかの会社の重役といった感じの老紳士であり、頭も剃髪しておらず立派なロマンスグレー。

袈裟の襟元を模した帯を両肩に掛け、威儀を正して歩むその姿は、むしろ「神父」の趣きがあった。

「えらくダンディな坊さんもいたもんだ、ホテルの専属スタッフなのだろうか?」などと考えていると、持参した仏具を祭壇にセットしたお坊さん、参列者の方をチラッと振り返り、「ちょっと長くなりますが・・・」と一言あった後、朗々と偈文を唱え始めた。

ときおり鈴や鉦を叩きながら、高く低く声明はなかなか堂にいったもので、徳の高さを感じさせる。

偈文が一段落すると一息おいたのち、阿弥陀経が始まった。

これもまた見事なものであったのだが、見るとお坊さん、カンペを使っていない。

遂に都合40分近くの「長セリフ」を暗誦で乗り切ったので、凄いなぁと感心していると、隣に座っていた義父も同感だったらしく、私をヒジで小突きながら「よくあんな長いものを覚えられるね!」などと呟いている。

「職業としてずっとやり続けているからじゃないですかね?」と答え、締めの回向文を聴く。

偈と経は外国語(漢文)だったのだが、回向文は日本語(文語体)であった。

「人はみな、ひとり生まれ、ひとり死に、あまたの家族、知己、財あれどもひとつとして従うものなし。また、あの世の消息を知る手立てもなし」などというシビアな内容に、今更ながらに身の引き締まる思いをする。

そうであった。法事とは生きている人たちのためのものなのであった。

などと感銘を受けていると儀式は献花等が一段落した後に終了し、お坊さんは一礼すると去っていった。

で、その後その場で直ちにお斎、というか宴会が開始されたわけなのだが、ビールが運ばれてくる中、先ほど退場したお坊さんが我らと同じテーブルに着席したので驚く。

「知らん人ばかりの席で食べるのも気まずかろうに・・・」などと思っていると、なんと献杯の音頭を取りはじめるではないか!

聞くとなんでもその「お坊さん」だと思っていた人はどこかのお寺の住職ではなく、その場では最年長(80歳近く)で車椅子に乗った故人の長男の幼馴染み(同級生)であり、本職は会社勤め(今は顧問であるらしい)とのこと。

実家が寺であったため「経が読める」ということで依頼され、最初は断ったのだが友情により引き受けるに到ったのだそうだ。

恐らくは一定の訓練を受け、何らかの免状も保持しているのだろうと思うが、それにしてもあの読経ぶりはとても普段会社勤めしている人のものではなかった。

「凄いなぁ」と素直に感心し、「あとで名刺交換しよう!」などと思っていたのだが、昼から飲む酒はやたらと早くまわり、飲み食いして騒いでいるうちにお開きとなってしまったのであった。(苦笑)

2012年10月8日記す

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